「織田信広」信長の異母兄。一度は謀反を企てるも和解後は忠実な家臣へ
- 2019/09/27
側室が生んだ信長の兄
信長の唯一の兄として知られる信広は、父織田信秀と側室との間に誕生しました。
織田家にとっては最初の男子です。しかし、後に織田家の家督を継いだのは弟の信長でした。その理由は、信長が正室が生んだ最初の子であったのに対し、信広の母は身分の低い側室であったため、信広は長子といえども家督相続権のない庶兄にすぎなかったからです。
とはいえ、信広は天文17(1548)年8月には、当時三河に進撃していた父・信秀が攻略した安祥城の城主に据えられています。
三河攻略の拠点となる安祥城を任せられ、今川氏へのにらみをきかせる信広でしたが、思わぬ策略にはまってしまいます。
生け捕られて人質交換の道具に
話は少しさかのぼりますが、徳川家康がまだ松平竹千代だったころ、家臣の裏切りによって売られた竹千代は、信秀の手元で人質生活を送っていました。
竹千代を奪われた松平家の家臣たちは、何とか竹千代を取り戻そうと策を講じます。当時、松平家は事実上、今川義元の家臣となっていましたが、松平家の当主としての竹千代は、大名としての格を保つうえで絶対に欠かせないものだったからです。
一方、義元も松平家の家臣団を自分の手足として使うためには竹千代を織田家から引き離し、自分の人質として確保することが必要であると考えていました。
この竹千代奪還作戦の道具として目を付けられたのが信広した。天文18(1549)年、義元は軍師の太源雪斎に命じて、信広の居城・安祥城を攻略させます。
攻略の目的は信広を討つことではなく、生け捕りにすること。もちろん生け捕った信広を人質交換の駒にするためです。そして、義元の狙い通り、信広は生け捕りにされ、竹千代との人質交換で無事に織田家に戻ってくるのです。
通常、城を攻略された城主は切腹するのがあたりまえですが、そこをおめおめと生きて戻ってしまった信広。おそらくこのときは武将としての評価を大きく下げてしまったのではないでしょうか。
織田家当主の座を狙い、謀反を企てる
父・信秀の死後、家督を継いだ信長に対し、庶兄にすぎなかった信広は、弟の下で働かざるを得ませんでした。
ただ、当時の信長はまだ若くて、大うつけ呼ばわりされていたことから、当主信長に不満をもっている者も少なくなかったようですね。実際、弘治2(1556)年8月に信長の弟・信行(信勝とも)が柴田勝家と組んで謀反を起こすも、信長に敗れて母・土田御前の取りなしで助命されています。
信行は「信長に代わって自分が織田家の当主になるのだ」という思いに取りつかれていたようですが、これに触発されたのか、今度は信広が謀反を企てるのです。
信広は美濃の斎藤義龍と申し合わせ、信長を共に討つための策略を練ります。
「敵が来れば、いつでも信長は軽々しく居城から出陣する。そのタイミングで信広が兵を連れて清須城下に入ると、城の留守番に置かれている佐脇藤右衛門が「主君の兄上」としてお茶や食事をふるまうはずなので、これを利用しよう。」
「佐脇が門を開いたところでこれを殺害し、城を乗っ取る。この作戦が成功したらのろしを上げて美濃勢に知らせるので、美濃勢は川を渡って信長の近くまで攻め込む。信広は信長の味方のふりをして近づき、合戦になったら後方から挟み撃ちにしよう…」
といった感じです。
作戦通り、まず美濃勢が国境へ出陣すると、目論見通り信長も急ぎ出陣しました。しかし、信長は美濃勢の様子に不信感を抱きます。というのも、信長が放っていた諜者から、「美濃勢がウキウキしている」という報告が入ったのです。
「これから戦だというのに、美濃勢はなぜウキウキしているのか…」
敵勢の緊張感のなさに、近辺での裏切りを悟った信長はすぐに指示を飛ばしました。
「佐脇は一切外に出さぬこと。町人も惣構えの城戸を閉めて、信長が帰陣するまで人を入れてはいけない」
信長のいない清須まで軍を率いてやってきた信広でしたが、締め出しをくらって惣構えの中に入ることができません。謀反がバレたと悟ってやむなく撤退。これに美濃軍もむなしく引き返すしかありませんでした。
謀反を許され、家臣としての道を歩む
詰めの甘さで謀反は未遂に終わったものの、謀反の心があることを信長に知られてしまった信広。さぞや厳しい罰を受けたのだろうと思いきや…、なんと信長はこの一件を水に流し、信広を許しています。
そして信広も、二度と反逆の心を起こさないことを誓い、その後は忠実に信長に仕えました。信長もそんな信広を徐々に信頼してなにかと優遇したようです。
永禄11(1568)年の上洛後には信広を京に駐在させて将軍足利義昭との連絡・交渉を任せるようになりました。また、元亀元(1570)年頃には、信広は将軍山城(北白川城)の城主として京の治安にあたっています。
明智光秀とともに京の北から東を固める役目を担い、天正元(1573)年には将軍義昭に接して和睦を実現させるなど、織田家の中枢で外交官としての能力を発揮し、人望も集めた信広ですが、信長への遠慮もあってか、織田姓ではなく津田姓(津田は織田の分家筋が名乗る姓)を名乗っていたようです。
伊勢長島攻めでは最後まで果敢に戦うも、死亡
天正2(1574)年、信広は信長に従って伊勢長嶋の一向一揆攻めに参戦します。
伊勢の中でも、長島は名にし負う要害の地。難所に囲まれた長島は攻め込みづらく、さらにその場所に一揆衆が結託して独立国の様相を呈しており、手が付けられないようなありさまでした。
信長は八万の大軍でもって長島へ侵攻。信広はこれに中核部隊の一員として参加していました。この戦で一揆衆を殲滅することを心に決めていた信長は、兵糧攻めで一揆勢を降伏に追い込んだ上、さらに「命は助ける」との約束を反故にして、退却しようとした一揆衆を討ち殺していきました。
これに逆上した一揆勢の一部が刀一つで織田軍へ決死の突撃。信広はこの反撃に対して一歩も引かず戦い、そこで命を落としてしまうのです。
おわりに
若い頃は人質交換の道具になったり、謀反を企てて失敗したりと、どこか頼りない印象がぬぐえない信広でしたが、謀反失敗後は信長の下で本来の能力を発揮して、信頼される人物へと成長を遂げたようですね。
家督を継いだ正室腹の弟に対して抱いていた鬱屈も、「天下の器」に気づかされることで消失したのでしょうか。もしくは、信長お得意の「適材適所」で外交官としての手腕を見出され、そこに喜びを見いだしたのでしょうか。
それでも、最後は武将らしく散った信広、人生後半で花を咲かせ、悔いはない人生であったと思いたいものですね。
【参考文献】
- 西ヶ谷恭弘『考証 織田信長事典』(東京堂出版、2000年)
- 太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記<新訂版>上』(新人物文庫、2006年)
- 谷口克広『信長と消えた家臣たち -失脚・粛清・謀反』(中公新書、2007年)
- 井沢元彦『英傑の日本史 激闘織田軍団編』(角川学芸出版、2009年)
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