「茶々(淀殿)」は天下人の妻でありながら、三度目の落城で落命した不運な女性だった!
- 2020/12/15
淀殿(よどどの)と言えば、秀吉の側室にして豊臣家を牛耳ろうとした悪女というイメージは強い。しかし、それは江戸幕府の歴史観のバイアスを色濃く受けた誤った認識だという流れが浸透しつつある。本当の淀殿とはどのような人物であったのであろうか。
父・浅井長政
淀殿こと茶々は、近江国小谷に生まれたという。父は浅井長政、母は織田信長の妹・市である。もっとも、これを疑問視する研究者もいる。浅井家の史書である『浅井三代記』に茶々の誕生に関する記述が全くないからだ。このことから、茶々は長政の娘でないとする説もあるくらいである。これは、茶々の生年も定かではないということだ。
茶々の生年については永禄10(1567)年が定説であったが、近年では永禄12(1569)年説が有力だという。茶々の出生がどうであれ、長政は三姉妹を愛情深く育てたとされる。
長政は家臣からも信頼が厚い名君あったから、茶々は長政を尊敬の眼差しで見ていたはずである。
小谷城落城
茶々は両親の愛情に育まれて幸せな生活を送っていたものと思われる。ところが状況が急変する。朝倉義景が15代将軍・足利義昭の二度にわたる上洛要請を拒否し、信長が越前討伐に乗り出したのだ。義景が上洛を拒んだのは、義昭の背後に信長がいたからであった。当時、朝倉家は室町幕府の副管領的な家格を保持しており、新興の成り上がり大名である信長に従うのは我慢ならなかったのであろう。
一方、浅井家は代々朝倉家との関係が深く、信長との同盟も朝倉と戦をしないことが条件だったとされる。この越前討伐により信長との同盟は反古にされるが、市と長政のなかむつまじさは変わりなかったという。
しかし、金ヶ崎の戦いの最中、長政が信長を裏切って反信長の旗色を鮮明にしたことで浅井家の運命は暗転する。浅井・朝倉連合軍は、元亀元(1570)年、姉川の戦いで信長に敗北してしまったのだ。
この後、本願寺や比叡山延暦寺、そして三好三人衆らと信長包囲網(第一次)を形成し、一旦は信長を追い詰めた。しかし、将軍義昭を介して朝廷を動かす信長の和睦策に上手くかわされ、包囲網は瓦解してしまうのである。
和睦後、信長は矢継ぎ早に策を打つ。元亀2(1571)年9月には浅井・朝倉に加担したという理由で、延暦寺を焼き討ちしてしまう。
その後、信長と関係が悪化した将軍義昭は武田信玄に上洛を要請し、信玄はこれを承諾して西上作戦を開始する。これは、もちろん浅井朝倉の意向を汲んでのことでもあった。
最大の危機を迎えた信長であったが、ここで神風が吹く。何と西上途中で家康と交戦中であった信玄が病の悪化で急死したのだ。あまりのタイミングの良さに、暗殺疑惑すらある信玄の死であるが、ここでは深入りしないでおこう。
さて、後ろ楯を失った浅井朝倉は衰退の一途を辿る。
まずは、朝倉義景が天正元(1573)年8月に家臣に裏切られ自刃し、越前朝倉氏は滅亡する。信長は返す刀で浅井氏の小谷城に猛攻を開始し、これを包囲した。
市ははじめ、茶々ら三人の娘を逃がした後、自らも長政と共に自害するつもりであったという。ところが、長政は市も娘たちと共に小谷城を脱出するよう説得した結果、母子ともに城を脱出することとなる。これは織田方の家臣、藤掛永勝の手引きであったと伝わる。
その後、茶々たちは織田信包の元で庇護されたというのが定説であった。しかしながら、最近の研究によれば、信長の叔父にあたる信次の元での庇護であったというのが有力となっているようである。
ところで茶々は、実の父(=浅井長政)を滅亡に追い込んだ信長を、どのように思っていたのだろうか。
当初は憎しみが無かったと言えば嘘になろう。しかし、月日が経つほどに勢力を増し、天下人への道を駆け上がっていく信長を見て茶々の考えは変わっていったのではないか。
特に、天正2(1574)年に信次が戦死して岐阜城で暮らすようになり、その権勢を目の当たりにするようになってからは、力ある人につかなければ幸福になれないとの思いが強くなっていたと思われるのである。このことについては後述したい。
小谷城脱出後、10年ほど続いた穏やかな日々は突如終わりを告げる。
本能寺の変
天正10(1582)年6月、本能寺の変が勃発する。驚いたことに、変を起こしたのは織田家No.2の地位にいた名将・明智光秀であった。光秀は朝倉との関わりが深かった武将であるだけに、茶々は複雑な胸中であったと思われる。
強大な織田軍を率い、天下統一目前だった信長があっさり討たれたのだ。この時、茶々は完全に天下統一を成し遂げた人物につかなければ危ないと感じ始めたのではないか。
北之庄城落城
一見畿内を掌握したかに見えた光秀であったが、予想だにしない事態が起こる。羽柴秀吉の中国大返しである。当時としては尋常でない速さで畿内に戻って来た秀吉の動きは、光秀にとって完全に想定外だったろう。十分に軍勢を整えられぬまま戦に突入した光秀は山崎の戦いに敗北する。
信長の仇を打ち、天下取りレースに一躍名乗りを挙げた秀吉を茶々はどのように見ていたのだろうか。通説によれば、母の市は秀吉を嫌っていたということになっているようだ。
本能寺の変の直後に清洲会議がおこなわれるが、その席で柴田勝家の正室として市を迎えることが承認された。この婚儀は勝家が望んだことになっている。しかし、ひょっとしたら市は秀吉を避けるために自分からアクションを起こしたとは考えられないだろうか。
加えて、市は勝家が信長の後継者としての立場を確立するとの読みもあったと思われる。2人とも従来の武家という概念に囚われていたことは間違いなく、それが秀吉の過小評価につながったという側面もあるだろう。
一方、茶々は秀吉のことをどう見ていたのであろうか。
程なく秀吉と勝家は政権運営を巡り対立し、天正11(1583)年賤ヶ岳の戦いで雌雄を決することとなる。この戦は天下分け目の合戦といってよいほどの激戦であったと伝わる。しかし、勝利したのは秀吉であった。百姓あがりの成り上がり者に、かかれ柴田と評された名将柴田勝家が敗れたのだ。
母・市は勝家とともに自害し、北之庄城は落城する。茶々ら三人娘は秀吉の庇護を受けることになったという。母はまたも添い遂げる相手を間違えたと茶々は思っていたのではないだろうか。
秀吉の側室に
史料によれば、茶々が秀吉の側室となったのは天正16(1588)年のことだとされる。定説としては浅井三人娘の中で一番市に顔立ちが似ていたのが茶々であったという。ところが、現存する茶々と市の肖像画をみると、2人はさほど似ていないことがわかる。どちらかというと父・浅井長政に似ているというのが私の印象であった。
市に限らず、秀吉は美女好みであったという。肖像画を見る限り、それほどの美女とも思われない茶々を秀吉が側室に望んだのは何故なのだろうか。
豊臣に織田の血を入れたいということもあったであろう。しかし、それならば江や初でも良かったはずなのだが、江は1583年に佐治家に、初は1587年に京極家に嫁いでいる。しかも、この婚姻は秀吉の斡旋だというから、この2人を側室にするつもりは毛頭なかったと見える。
ところが、茶々は三人娘の中で一番年長でありながら、縁談話の一つもなかったというのはどういうことなのであろう。秀吉の「茶々を側室にしたい」という願望に皆が忖度したということは考えられる。
それ以前に、茶々のほうから秀吉に接近した可能性はないだろうか。それともう1つ、茶々は顔立ちというよりは醸し出す雰囲気や立ち振舞いが市に似ていたのではないかと私は考えている。
秀吉は1585年に関白に、そして1586年には太政大臣に任じられる。朝廷の官位システムのトップに上り詰め豊臣政権を樹立した秀吉であるが、この時点で茶々を側室にしなかったのである。そういう点から考えると、秀吉が茶々を側室に迎えた1588年という年の特質が見えてくるように思えるのである。
1587年、秀吉は九州征伐を完遂し、1588年には後陽成天皇を聚楽第で饗応している。そして、徳川家康を始めとする有力大名に忠誠を誓わせている。
奥州の伊達政宗や関東の北条氏政など、まだ臣従していない大名も若干いたが、この時点をもって豊臣政権が全国統一を完成させたとする歴史学者は多い。当時の人々もそういう意識でいたのではないだろうか。茶々は秀吉が武家の頂点に立ったことを確認した上で、秀吉の想いに応えることにしたと私は考えている。
おそらく、それ以前にそれとなく秀吉の関心を引くような振る舞いはしていたのではないか。私が調べた限りでは、秀吉が茶々に対してアクションを起こしたという記述のある史料がないという点も気になるところである。
もしかすると、秀吉の一番の願いは信長の血統を受け継ぐ後継者を得ることだったのかもしれない。そして、なおかつ市の面影を感じられる茶々を側室に望んだとは考えられないだろうか。
少なくとも両者の思惑と言う点では「相思相愛」だったというのが私の見立てである。
秀頼誕生
茶々は天正17(1589)年に男子を出産する。喜んだ秀吉は茶々に淀城を与えたという。これ以降、茶々は淀殿と呼ばれるようになる。秀吉にとって待望の男子であったその子は鶴松と名付けられたが、残念なことに夭折してしまう。秀吉の落胆ぶりは尋常でなかったと伝わる。
ところが、4年後の文禄2(1593)年に淀殿は再び懐妊し、男子を儲ける。秀吉52歳の時の子であった。
最初、捨(すて)と名付けられたこの男子こそ、後の豊臣秀頼である。秀頼は長じて身長190㎝以上、体重約160㎏の堂々たる体躯の若者に成長する。しかも結構なイケメンであったともいう。
ところが秀吉とかなり異なる容貌の秀頼からか「秀頼様は太閤の子にあらず」という噂が絶えなかったという。確かに秀吉には十数人の側室がいたが、子を生したのは南殿と淀殿のみであると言う事実もあり、しかも当時としては高齢である52歳で子を儲けたという点も怪しいとは言える。
では、実の父親は誰か。
慶長4(1599)年10月1日付内藤元家宛内藤隆春書状によれば、
おひろい様之御局を八大蔵卿と之申し、其の子二大野修理と申し御前の能き人に候、おひろい様之御袋様と共に密通之事に候か、共二相果てるべし之催にて候処に、彼の修理を宇喜多が拘し置き候、共に相果てるに申し候、高野江逃れ候共に申し候よしに候…
とある。
要は、秀吉の側近であった大野治長と淀殿が密通していたという話であるが、この辺から大野治長が秀頼の実の父親ではないかとも言われる。
江戸時代中期の逸話・見聞集である『明良洪範』も秀頼の父親は大野治長であると断定している。おそらく、大野治長がイケメンの高身長であると言う点からでた噂なのだろう。
しかし、調べてみると通常ならば乳母に養育を命じるところを淀殿に養育を命じる等、不自然な点が見られることも事実である。
もし密通によるものであれば、諜報に長けていた秀吉が知らぬはずはなく、これまた不自然である。ひょっとすると、秀吉は治長の密通を知りながら黙認していたのではないだろうか。淀殿と治長のDNAならば後継者として満足のいく子が生まれるかも知れないと考えたのかも知れない。
大坂城炎上
秀頼の成長を見届けることなく慶長3(1598)年、秀吉はこの世を去る。関白の位を譲っていた秀次はかの「秀次事件」で切腹して果て、幼い後継者を残しての死であった。この翌年、五大老筆頭の前田利家もこの世を去り、この段階で豊臣家はほぼ詰まれたも同然の状況となる。
悔やまれるのは石田三成の挙兵であろう。まずは秀頼の成長を待ち、官位をできるだけ挙げることが肝心であった。事実、慶長12(1607)年に官位を返上した際の秀頼の位は右大臣であり、これは将軍家となっていた徳川家とほぼ同格の扱いだったという。
関ヶ原の戦いなどせず、官位を上げる工作を続けておれば、徳川家よりも高い官位につき、朝敵カードを切ることも可能だったのではないか。
しかし、関ヶ原の戦いで三成と家康は激突。家康の天下となったのは周知のとおりである。その後、五大老が大坂城を去ったため大坂城は実質淀殿が取り仕切ることとなる。
慶長19(1614)年の大坂冬の陣において豊臣方につく大名はいなかったという。真田信繁等の奮戦で一時的に徳川勢を押し返すが、家康の大砲による攻撃に淀殿は戦意喪失し、和議を結ぶ。和議の条件で堀を埋められた大坂城は丸裸も同然であった。
翌慶長20(1615)年には大坂夏の陣が勃発。激戦の末、真田信繁らが討死すると豊臣方は壊滅。淀殿と秀頼は炎上する大坂城内で自害して果てたと伝わる。
あとがき
天下人秀吉に一番欠けていたものは身内カードであったと私は考えている。そもそも男子に恵まれず、有能な弟であった秀長も病で亡くなり、関白の位を譲った甥の秀次も切腹してしまう。事業継承という点から見ると秀吉は及第点とは言い難い。
茶々は天下人のハートをつかむことはできたが、秀吉の身内カードの少なさが滅亡の引き金になることは想定外であったろう。城が落城しないような人物をしっかり選んでいながら、三度目の落城にて落命するとは不運としか言いようがない。
【主な参考文献】
- 山本博文『信長の血統』文春新書 2012年
- 小和田哲男編 『浅井長政のすべて』 新人物往来社 2008年
- 福田千鶴 『淀殿:われ太閤の妻となりて』 ミネルヴァ日本評伝選 2007年
- 太田牛一『信長公記』 角川ソフィア文庫 2002年
- 高柳光寿『戦史ドキュメント 賤ヶ岳の戦い』学習研究社 2001年
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