女好きのイメージは拭えないけど、実は奥さんが大好きだった!豊臣秀吉の女性観について

 一般庶民から立身し、やがて天下統一を成し遂げた「豊臣秀吉」。世界史的にも稀有な存在の王者であり、武功だけではなく人心掌握や経済活動など、多面的な戦略で天下人となったことから異彩を放っています。関西では「太閤さん」と呼ばれて親しまれていますが、晩年の常軌を逸した無茶な政策や所業の数々から、複雑な評価をされる人物でもあります。なかでも、語り草となっているのが女性関係での問題です。

 無類の女好きというイメージがつきまとい、実際にトラブルが後を絶たなかったようですが、一方では愛妻家の面があるなど憎み切れないキャラクターでもありますね。

 今回は、そんな秀吉がどのような女性観をもっていたのかについて考察を試みたいと思います。

秀吉の正室

 秀吉の女性観を考えるうえでまず忘れてはならないのが、正室の「ねね」の存在です。

 「おね」「北政所」「高台院」等々、その時々の立場によって様々な呼称がありますが、内助の功の代名詞としてもあまりにも有名な女性です。賢夫人として当時からよく知られたようで、あの信長もねねを気遣う丁寧な手紙を送っています。

 「ねね」か「おね」か詳細は不明ですが、秀吉の書状では「ねね」とあるのが確認されているため、少なくとも最も親密な夫は「ねね」と呼ぶことがあったことがわかります。

 当時の武将の婚姻は政略的な者が多く、式当日までお互いの顔すら知らないということも少なくなかったといいます。ところが、秀吉とねねは珍しい恋愛結婚だったとされ、はるかに家格が上のねねの母は秀吉との縁組に反対したと伝わっています。

 夫の浮気性に悩む痕跡は確認できるものの、基本的に秀吉は正室のねねを頼り、常に立てることを忘れなかったと考えられます。

 家中の実務についてもねねは能力を発揮し、大所帯となった豊臣家をしっかりと守ったことが確認でき、宣教師のルイス・フロイスはねねをして「女王」と例えています。

 秀吉にとってねねは、恋人というよりは母性的な同志のように感じられる存在だったのかもしれませんね。

秀吉の側室たち

 秀吉には13~16名ほどの側室がいたと伝えられ、いずれも家格の高い公武の女子であることが印象的です。

 壮年期以降の権威主義の表れといわれることもありますが、これには当時の側室という地位を鑑みて再考する必要がありそうです。

 たとえば戦で没落した家中の娘であったり、人質として預かりの身であったりした女性等々、いわば戦後処理や外交戦略の結果として引き受ける例が多かったことが挙げられます。

 秀吉のように有力な武将の近辺にあることで安全が保障され、さらにはその一族にも余慶が及ぶため、当時の女性にとって側室の地位とは一種の強力な「就職」でもあったのです。

 側室を迎えるためには確実に扶養するための十分な経済力も必要だったわけで、正式な制度としての側室は、ある意味で救済措置の側面も有していたと考えられます。

 そういった点では秀吉の側室が高貴な家格の出自であったことも自然な結果ともいえ、必ずしも血統志向に溺れたと言い切れるわけではないでしょう。

 女癖の悪さが正室・ねねの悩みの種となっていたように確実に前科はあったのでしょうが、制度の中でしっかりと扶養することは問題ではないと考えていたようです。現に、甥の秀次に関白位を譲った際、側室としてなら何人を迎えても構わないがそれ以外での遊びは厳に慎むように、とのアドバイスをしています。

 自身がそういった失敗を繰り返しての教訓とも考えられ、女性に対する「責任」という観点から大黒柱としての自覚は十分にあった人物だといえるのではないでしょうか。

宣教師ルイス・フロイスの秀吉評

 当時の詳細な記録の中には、宣教師たちが残したものが第一級資料となっているものが多くあります。

 そんな宣教師のうち、「ルイス・フロイス」は戦国時代でもっとも有名といっても差し支えない人物の一人であり、客観的な人物評は信憑性の高い証言と考えられます。そのうち、秀吉に対する人物評もあるので一部をみてみましょう。

 いわく、度を越して淫蕩であり色魔である、悪知恵が働く人物である、戦巧者だが品位に欠ける等々。

 フロイスは秀吉の側室を300人とも例えているようですが、当時のキリスト教者の倫理観と異なる点において過度に嫌悪感を示した面はあるのでしょう。

 しかし、秀吉の女好きな面がそういった印象として海外人にも受け取られた点は注目に値しますね。

長崎県西海市の横瀬浦公園にあるルイスフロイス像
長崎県西海市の横瀬浦公園にあるルイスフロイス像(出所:ながさき旅ネット

おわりに

 秀吉の女性観を語るうえでもう一人欠かせないのが「淀殿」、亡き信長の妹にして戦国一の美女と誉れ高い、「お市の方」の娘です。

 従来、正室のねねと側室の淀殿との間柄は険悪だったと考えられがちでしたが、近年の研究によると秀吉死後の家中経営に二人が協力してあたったことが指摘され、いずれも「豊臣の女」として責任を全うしようとしたことが考えられます。

 現に、秀吉は淀殿が解任した際も書状でねねへの気配りを忘れず、正室と側室との関係性のバランス保持に配慮していたことがわかります。

 秀吉とは、女性に対してそれぞれに求める姿を分け、しかも彼女たちへの責任をしっかりと負うことを実践した人物だったといえるのではないでしょうか。


【参考文献】
  • 『日本史諸家系図人名辞典』監修:小和田哲男 2003 講談社
  • 『歴史群像シリーズ 45 豊臣秀吉 天下平定への智と謀』 1996 学習研究社

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。