「吉川元春」初陣はなんと10歳!戦上手な毛利両川の片翼
- 2019/05/30
毛利元就の次男として生まれ、他家の養子となって毛利家を支えた吉川元春。弟の隆景が知略と外交に優れた「知」の武将ならば、元春は幼いころから武勇に優れた「武」の武将でした。
元就が自分亡き後の毛利を託した「三本の矢」の真ん中は、軍事面で毛利の中国制覇に貢献。その生涯を簡単に紹介しましょう。
元就が自分亡き後の毛利を託した「三本の矢」の真ん中は、軍事面で毛利の中国制覇に貢献。その生涯を簡単に紹介しましょう。
【目次】
元就の次男、元服前に初陣を経験
享禄3年(1530)、元春は毛利元就の次男として、吉田郡山城にて誕生しました。母は嫡男の隆元と同じく、正室の妙玖(みょうきゅう/法名。実名はわかっていない)。幼名を「少輔次郎」といいます。親の反対を押し切って初陣で大暴れ
天文9年(1540)、元就が以前仕えていた尼子氏に攻め込まれた戦い(吉田郡山城の戦い)が起こり、翌年まで続きました。このとき少輔次郎はまだ11歳(もしくは10歳/数えでは12歳)という幼さでしたが、なんと元服前であるにもかかわらず初陣を果たしているのです。武士の初陣はだいたい元服前後の10代半ばあたりが平均的です。同い年の上杉謙信でさえ、初陣は元服後の13歳のときですから、元春はかなり早かったことがわかります。あの軍神と呼ばれた上杉謙信よりも先に初陣を飾り、しかも恐れることなく大暴れしてしっかり手柄を立てたというのだから驚きです。
戦に出たいと言った元春。元就はまだ早いと反対しますが、あまりのしつこさに根負けして初陣を許したのだそうです。
この戦で初陣を果たしたのち、天文12年(1543)に元服します。「元春」の「元」は父からではなく、兄・隆元の偏諱を受けたものであるといわれています。この三年後に元就が隠居して隆元が家督を継いでいるので、元就としては「今後は兄に従いこれを支えるように」という意図があったのかもしれません。
幼いころから武勇に優れていた
元春はこのように、やっと10代になったようなころから戦の才能を発揮していました。余談ですが、元就も元春の才能に気づいていたようで、こんなエピソードもあります。幼い元春と隆景が雪合戦をして遊んでいたときのこと。まずは元春側が勢いのままに勝利。悔しがった弟の隆景は、対策をしっかり練り、改めて第2戦に挑むと今度は隆景の作戦勝ち。これを見ていた元就は、勢いのある強さなら元春、知略なら隆景だ、と考えたとか。
吉川家の養子に入り、当主の座を奪う
やがて元春は、三男の小早川隆景と同様に、元就の養子戦略によって吉川氏に送り込まれることになります。吉川家は母・妙玖の実家であり、毛利氏とは緊密な姻戚関係にありましたが、当主の吉川興経(おきつね)が月山富田城の戦いのときに、大内氏から尼子氏に鞍替えし、大内・毛利とは敵対関係になっていました。
天文13年(1544)には元就の異母弟である北就勝に実子がなかったため、元春が後継ぎになる約束があったといいます。しかし、吉川家中では、当主の興経の振舞いに不信感を抱いた重臣らがクーデターを引き起こし、元春を養子として後継者に迎える案が浮上。
こうした背景から元就は天文16年(1547)に不穏な動きのあった興経を強制的に隠居させ、元春に吉川家の家督を継がせました。
のちに吉川興経、千法師親子は粛清として殺害され、吉川家の嫡流は途絶えてしまいます。弟・隆景の小早川家家督相続が比較的穏便に進められた一方、元春が吉川家の当主の座を得るまでにはかなり血なまぐさい出来事があったのです。
妻の美醜にはこだわらない!
さて、元春の人となりを語るうえで外せないのが、嫁取りのエピソードです。吉川家を継いだ同年、元春は熊谷信直の娘・新庄局(しんじょうのつぼね)と結婚し、ほかに側室を持つことなく生涯添い遂げています。特筆すべきは、新庄局が不美人(もっといえば醜女)であったということ。醜いことが噂になるような女性であったのに、元春は自ら望んで新庄局と結婚したという逸話が残っています。
『陰徳太平記』によれば、元春の決断に驚いた毛利の家臣・児玉就忠が「どうして新庄局なのか」と尋ねると、「醜女ならば誰も結婚したがらないだろう。信直もそれを承知しているだろうから、私が娘を娶ればきっと感謝する。何かあったとき私のために尽くしてくれるだろう」と答えたとか。
信直は勇猛な武士であり、彼を味方につけるための政略結婚だったといわれていますが、元春は生涯妻を愛して関係は良好だったようです。
あえて醜女を妻にしたというエピソードは諸葛孔明や近藤勇の例などがありますが、なかには本当に醜女だったかどうか疑わしい話もあります。
たとえば明智光秀の妻は、疱瘡にかかって醜かったといいますが、噂になるほどの美女だったという逸話も(おまけに娘の細川ガラシャも美女で有名)あるため、夫婦の美談として誇張されているだけとも考えられます。
新庄局に関しても、不美人とは書いていない書物もあり、実際のところはよくわかりません。
「毛利両川体制」で軍事面を担当。負け知らず
山陰のおさえとして
こうして吉川の当主となった元春。吉川家は藤原南家の流れをくむ名門で、宗家は安芸吉川家ですが、山陰の石見にも古くから一族が根付いていました。そういうわけで、元春は安芸西北部から石見にかけての山陰方面のおさえとしてはたらくことになります。毛利宗家は安芸東北部の吉田郡山(現在の広島県安芸高田市)にあり、弟の隆景は海に面した安芸東南部の山陽を本拠地としました。宗家を真ん中に、それぞれ養子に出た弟たちが北と東南方面に領地を得たことは、毛利の中国制覇の足がかりとなりました。
さて、次からは軍事面における元春の軌跡を詳しくみていきましょう。
VS 大内氏
厳島の戦い
弘治元年(1555)に行われた日本三大奇襲戦「厳島の戦い」。この戦いは毛利軍が兵力差において圧倒的劣勢に立たされていたことでもよく知られています。元春率いる吉川隊は、元就ら率いる本隊に属しており、厳島に渡海したのち、先頭に立って背後から陶晴賢軍を奇襲攻撃を仕掛け、毛利軍の勝利に貢献しています。
大内討伐の傍ら、尼子氏牽制を担う
陶晴賢を討ち、弱体化した大内氏ですが、まだ晴賢が擁立した当主の大内義長がいたため、毛利家としてはすぐさま大内義長討伐のために周防国と長門国の制圧に着手します。いわゆる防長経略です。一方、翌弘治2年(1556)から、元春は大内討伐とは別のミッション、すなわち尼子氏を牽制する目的で石見国への出兵を命じられます。
毛利軍は弘治3年(1557)に大内氏を滅ぼし、その勢力は安芸・備後・周防・長門の4か国+αにまで一気に拡大させていますが、その裏で、防長経略には参加していない元春が、石見銀山の山吹城を陥落させ、続けて1年余り石見にとどまって尼子牽制の役割を果たしていたことも見逃せません。
毛利両川体制、はじまる
大内滅亡後はいよいよ毛利両川体制の形成がはじまります。きっかけは元就が「政務から手を引く」といい、家督を継いでいた長男隆元が自身の器量のなさを不安に感じたことにありました。元就と隆元が話し合った結果、元就は3人に教訓状(三子教訓状)をあたえ、毛利氏を永続させることを第一として結束を強めることを説きます。その結果、元就は隆元の後見を続け、元春と隆景は他家であっても毛利氏の運営に加わるという体制が整いました。
これは大内滅亡から約半年後のことでした。以後、元春は隆景と共に「毛利両川体制」の一角として、徐々に山陰地方の政治・軍事を担当するようになっていきます。
永禄元年(1558)には尼子に石見銀山を奪われ、毛利両川軍は一旦安芸に退却しますが、これをきっかけに石見銀山を巡って尼子氏との戦いが本格化。元就による石見銀山攻略の作戦により、永禄2年(1559)に、元春は石見銀山にもっとも近い小笠原長雄の領地を与えられています。
VS 尼子氏
尼子討伐は、毛利両川軍が石見国にたびたび出兵して攻防を繰り広げる持久戦でしたが、毛利両川は着々と尼子の本拠・月山富田城にまで侵略をすすめていきます。永禄8年(1565)までには尼子の本拠・月山富田城を包囲し、その後は兵糧攻めを行なう展開へ持ちこんでいきました。この間、陣中において元春が1年半あまりをかけて書写した『太平記』四十巻は有名な話です。
四国・九州への出兵
毛利家は永禄9年(1566)に月山富田城を落として尼子氏を滅ぼし、中国の覇者となります。永禄11年(1568)には伊予国の河野通直から救援要請を受けて、元春は、小早川隆景、宍戸隆家らとともに3万もの大軍で渡海し、河野氏の救援に成功しています。続いて和談していた大友氏との戦いが再燃したため、休む間もなく九州へ進軍。永禄12年(1569)までに豊前門司城・立花城を奪取しました。
しかし、まもなくして九州からの撤退を余儀なくされます。というのも、同年に山中鹿之介が尼子再興軍を興して挙兵し、出雲国へ侵攻、一方で九州では大内輝弘率いる大内氏再興軍も挙兵(大内輝弘の乱)したからです。
九州から撤退した元春らは大内輝弘をなんなく鎮めますが、尼子再興軍は簡単に崩せず、長き戦いとなります。
負けを知らなかった元春
初陣から暴れまくって武功をあげた元春は戦上手の武将でした。生涯で出陣した戦は76。そのうち64戦で勝利をおさめ、残り12戦は引き分けでした。つまり、一度も負けたことがなかったのです。秀吉を嫌って隠居
信長との戦いと信長の死
元亀2年(1571)には父・元就が死去。そして、中央で勢力を拡大し続ける織田信長がいよいよ中国に目を向け始めます。きっかけは将軍・足利義昭の京都追放です。天正5(1577)から織田家臣団の一員・羽柴秀吉の中国攻めが始まると、元春は翌年の上月城の戦いをはじめとした数々の戦いで敵を退け続けます。
が、やがて劣勢に。天正10年(1582)、備中高松城の戦いにおいて、秀吉の水攻めを受けた毛利側は攻撃もままならない状況に陥ります。和睦の条件でも互いに一歩も譲らず、膠着状態に陥るのですが、6月4日に状況は一変します。秀吉は突如譲歩の姿勢を見せ、和睦はあっという間になってしまったのです。
秀吉が和睦を急いだ理由は、信長の死でした。光秀謀反の知らせを聞いた秀吉はすぐにでも京都へ引き返して敵を討ちたかったのでした。
秀吉追撃を提案した元春
毛利側が信長の死を知ったのは、和睦がなって秀吉が帰ったあとのことでした。元春は信長の死を隠して講和を急いだ秀吉に激怒し、「今すぐ秀吉を追って討とう」と鼻息荒く提案します。こちらに背中を向けた相手を追撃すれば、討ち取って天下をとることだってできるはず。いかにも武勇の人・元春らしい意見ですが、これは隆景によって止められます。和睦を結んで舌の根の乾かぬ内に反古にするのは武士として恥ずべき行為であり、また秀吉を追撃したところで必ず勝てるという見込みもなかったのでしょう。
深謀遠慮、何手も先を読む知将・隆景の制止で踏みとどまりましたが、元春としては秀吉が気に入らなかったようで。本能寺の変と同じ年、元春は隠居して子の元長に家督を譲ってしまいます。天下をとった秀吉の下では働きたくなかったのでしょう。
最期は陣中で
隠居後、秀吉との付き合いは弟・隆景や子の元長に任せ、隠居生活を送るための館建設などに精を出した元春。ただ、その隠居生活も長くは続きませんでした。元春の最後は戦の陣中でした。秀吉に熱心に頼まれ、隆景や輝元の熱心な説得により再び出陣し、九州征討に赴いた天正14年(1586)のときのことです。病(化膿性炎症とされる)にかかっていた元春は豊前小倉城で生涯を閉じます。57歳。
戦上手の勇将は、最期の時も陣中で迎えたのでした。
【主な参考文献】
- 桑田忠親『毛利元就のすべてがわかる本』(三笠書房、1996年)
- 小和田哲男『毛利元就 知将の戦略・戦術』(三笠書房、1996年)
- 河合正治 編『毛利元就のすべて』(新人物往来社、1996年)
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
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