「甘粕景持」極めてマイナ-な武将がなぜ上杉四天王の1人なのか?
- 2022/06/02
「上杉四天王」という呼び名があるのはご存じだろうか。それは宇佐美定満・柿崎景家・直江景綱・甘粕景持の4人を指す。この中で、群を抜いて史料に記述が少ないのが甘粕景持(あまかすかげもち)である。その彼が、なぜ四天王の1人に加えられているのであろうか。史料を丁寧に読み解いてみよう。
定まらぬ出自
甘粕氏の系図は、主に3つある。『清和源氏甘粕家家譜』に『甘粕近江守家系図』、そして『源姓天河瀬氏系譜』であるが、そのいずれも信憑性は疑わしいという。『源姓天河瀬氏系譜』等によれば、八幡太郎義家の玄孫である重兼が上野国新田郷天河瀬を領有して甘粕と名乗ったのが甘粕氏の発祥であるとされるが、参考程度に考えておいたほうがよいかもしれない。
甘粕重兼は南北朝時代の武将でその動乱に際しては南朝方につき、室町幕府成立後は上野国に蟄居していたという。その後、初代関東管領・上杉憲顕に従って越後に移り住んだということになっている。
しかし、『源姓天河瀬氏系譜』によれば、鎌倉時代中期の武将・新田正義は甘粕重兼と兄弟ということになっているので、記述とは若干年代が合わないように思う。やはり系図は参考程度に考えていた方がよいようだ。
謎の前半生
景持は出自も謎だが、その生年もよくわかっていない。そもそも生年が史料中に一切出てこないので、説の唱えようがないとも言えよう。前半生自体が謎だらけなのである。越後上杉氏(長尾氏)にいつ頃から仕えるようになったのかという点については記述がないわけではない。例えば、『上杉三代記』によれば、景持は越後上田庄の出で、謙信の実父である長尾為景に仕え、謙信が家督を継いだ後も長尾家に仕え続けたという。
しかし、為景の隠居直前の1535年辺りから仕えたとしても、死去する1604年までは約70年ほどもあり、当時の寿命を考えるとやや無理があるのではないか。ただ、為景に仕えたのが景持だというのが誤りで、その父・泰重であったとするなら十分あり得るだろう。
もう1つの説は、『本朝武功正伝』にある甲斐・信濃の国境にある白峰三山で狩猟を生業としていた所を謙信に見出されたというものである。これは一見突飛でもないように聞こえるが、土豪などの中には狩猟等を行う一族もいたとされているので、おかしな話ではない。その好例が、徳川家康を輩出した松平氏である。
松平氏の発祥の地は、三河西部の松平郷とされているが、そもそもはその地で林業や狩猟、そして採鉱等を生業とする土豪であったという。
そして、白峰三山の信濃側には小笠原氏の領地があり、謙信との関係も深い。越後からかなり離れ、近隣には武田領や木曾領等の敵対勢力がある地域だから、謙信自らこの地を訪れたとは考えにくいが、小笠原氏を介して景持の存在を知った可能性はあるだろう。
景持が土豪や国人衆上がりであれば、戦上手であったというのも頷ける。「武家の戦い方」という固定概念がないため、相手の意表を突く戦略がとりやすかったのではないだろうか。一次史料の裏付けはないものの、一番傷の少ないこの説に私は興味を抱いている。
殿(しんがり)
景持が、いつ頃から謙信に仕えるようになったのかははっきりしていない。『信濃のさざれ石』は江戸時代の史料であるが、そこには天文16(1547)年10月に長尾景虎(上杉謙信)が北信濃の髻山(もとどりやま)に築城中であったことが記されている。そして、この城が完成するまでの砦として景持が三日城(みっかじょう)を築城したという。
この記述を信ずるならば、天文16(1547)年には既に謙信に仕えていたことになる。初名は長重であったが、景虎の偏諱を受け、景持と改名したともいう。
景持が居た城についても諸説ある。桝形城や三条城の城主であったという説がある一方で、三条城将であったとしか記されていない史料も存在する。
史料にしっかりとした記述が確認できるようになるのは、永禄2(1559)年のことである。この年の5月、謙信は2度目の上洛を果たした後、越後に帰還。10月28日には、越後の諸将が謙信に太刀を送って祝賀したのであるが、その際の名簿である『侍衆御太刀之次第』に景持の名が見える。
永禄3(1560)年には、関東管領の上杉憲政を擁し、北条氏康を討伐するべく関東へ出陣。氏康の籠る小田原城を10万余の兵で包囲するが、景持もこの戦に従軍したことがわかっている。
この戦いの最中の永禄4(1561)年3月16日、謙信は山内上杉家の家督、および関東管領職を上杉憲政より相続。就任式は鎌倉府の鶴岡八幡宮にて執り行われたが、景持も宇佐美定満・柿崎景家・河田長親らと共に出席し、御先士大将を務めた。
重臣達と肩を並べての就任式出席であることを考えると、どうもこの辺りから景持の序列が急上昇しているようだ。これは関東出兵において何らかの戦功があったことを示しているのかもしれない。景持の名を一躍世に知らしめたのは、何と言っても第四次川中島の戦いであろう。
同年の8月、謙信は長野盆地南部にある妻女山に陣を敷いた。一方の信玄は、海津城に入ったと言われる。中々動かぬ謙信と膠着状態になった信玄は、軍勢を本隊と別動隊に分け、別動隊に妻女山の上杉勢を攻撃させて平野に誘い込む戦法に出た。所謂「啄木鳥戦法」である。
ところが、この動きを察知した謙信は一足先に妻女山を下りていたため、高坂昌信や馬場信房らの別動隊が到着した時には、妻女山は既にもぬけの殻であった。別動隊は、急ぎ妻女山を下りたが、この時上杉勢の殿(しんがり)を務めたのが景持であったという。あまりの激闘ぶりに、武田方では謙信自ら殿になったと勘違いした者が多かったと伝わる。
実は、景持の武将としての評価は高い。『甲陽軍艦』には「謙信秘蔵の侍大将のうち、甘粕近江守はかしら也」とあり、『松隣夜話』では「勇気知謀兼備せる侍大将」と記されている。
『甲陽軍艦』は、先ほどの別動隊を率いた武将の1人、高坂昌信によって書かれたという説が有力であるため、この景持の評価は信憑性が高いと言えるだろう。 おそらくであるが、上杉四天王に景持の名が加わったのはこの活躍によるものが大きいのではないか。
景勝に仕える
天正6(1578)年、謙信が没すると上杉景勝と上杉景虎の間で後継者争いが起こる。世に言う「御館の乱」である。景持は首尾一貫して景勝方につき、結果的に景勝方が勝利し後継者となった後も景勝に仕えた。天正10(1582)年に恩賞に対する不満から新発田重家が乱を起こした際には、6千石をもって三条城将に任じられる。景持の任務は、新潟城や沼垂城攻略のための兵站基地を守備するというものであった。
重家は名将で、景勝はかなりの苦戦を強いられる。ところが、同年6月2日に本能寺の変が起こったことで、重家征伐は事実上中断された。このことが、意外にも景勝方には追い風となる。
実は、重家には後ろ盾があった。蘆名盛隆と伊達輝宗である。ところが、天正12(1584)年10月、盛隆は家臣に殺害されてしまう。そして、翌年には輝宗が政宗に家督を譲り、政宗が蘆名氏と対立したことで、越後介入路線を放棄。
天正14(1586)年、景勝はこの機を逃さず、新発田征伐を再開し景持は第二陣として参陣する。鉄砲大将として、敵将を討ち取る功を挙げ、景勝から感状を受けたという。
文禄4(1595)年には蒲生郡出雲田庄・大槻庄・保内の検地奉行に任じられる。この後、景勝は慶長3(1598)年に秀吉の命により会津若松120万石に移封された。ところが、秀吉亡き後の関ケ原の戦いで西軍が敗れたことで家康に降伏し、上杉家自体は存続を許されたものの、米沢30万石に大幅減封となってしまう。慶長6(1601)年のことである。
景持はこの2度の移封に従い、米沢に入った。慶長7(1602)年、米沢に天正寺を創建したという記録が残されている。
慶長9(1604)年6月26日、景持は米沢にて死去した。享年は不明である。
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あとがき
甘粕景持は謎多き人物ではあるが、数少ない史料の断片から窺えるのは、優秀な武将でありながら出自がネックになっていたのではないかという点であった。上杉四天王という呼び名が使われ始めるのは江戸時代になってからである。どうやら「上杉将士書上」が幕府に提出された後、誰ともなくこの呼び名が広まって行ったようなのだ。
ひょっとすると幕府内のある人物が、どうしても景持の名を加えたかったのではないか。私は、その人物が景持と同じような境遇ではなかったかと、ついつい妄想したくなってしまうのである。
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【主な参考文献】
- 冲方 丁 他6名『決戦!川中島』 講談社文庫 2018年
- 大和田稔 『上杉四天王Q&A: 謙信股肱の名将達』kindle版 2020年
- 『戦国大名家臣団大全』 standards 2018年
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