「第二次上田城の戦い(1600年)」2度目の撃退!真田昌幸、因縁の徳川勢を翻弄する

 天下を治めた徳川家康にとって天敵と呼べるのが「真田昌幸」です。徳川勢は二度、この真田昌幸が籠城する上田城を攻め、いずれも撃退されているのです。今回は関ヶ原の戦いと同時期に行われた「第二次上田城の戦い」についてお伝えしていきます。

徳川秀忠による上田城侵攻

真田昌幸が西軍に味方すると宣言した時期

 慶長5年(1600)7月、石田三成が挙兵すると、味方に付く旨の書状を受け取った真田父子の三人(昌幸、信幸、幸村)ですが、彼らは関ヶ原において敵味方に分かれることを決断します(犬伏の別れ)。

 その後、昌幸と幸村は上田城に帰還していますが、石田三成に対してすぐに味方するとは言明していませんでした。条件をつり上げてから西軍(=石田三成方)に味方する算段だったようです。

 実際、同8月5日付けの三成からの書状には「我らに味方すれば、信濃国一国(小諸、深志、川中島、諏方)を与える」と記されています。さらに翌6日の書状で「甲斐国も与える」と追加されています。ここでようやく昌幸は西軍に味方することを宣言するのです。

 なお、『長国寺殿御事蹟稿』には、昌幸は甲斐国で隠居したかったと記されています。信濃国や甲斐国を領地とすれば、かつての主家である武田氏に匹敵する勢力となります。昌幸にとってどうしても取り戻したい領地だったに違いありません。三成と家康の対立はその絶好の好機でした。


徳川勢は二手に分かれて美濃国へ向かった

 一方、徳川勢は三成が挙兵すると、小山で軍議を行い、家康は三成迎撃を決定。さらに昌幸の裏切りを知って軍勢を二手に分けて進軍させます。

 自らは小山から江戸に戻り、そこから東海道を進んで西上。嫡男である徳川秀忠には、本多正信、榊原康政、大久保忠隣、酒井家次ら譜代の重臣と3万8千を率いさせて信濃国経由での西上を命じたのです。

 秀忠は8月24日には宇都宮を出陣、中山道を進み、9月1日には碓氷峠を通過して軽井沢に至り、9月2日には小諸城に入っています。

 対して上田城に籠城する真田勢はわずか5千あまりでした。それより少ない3千ほどだったという説もあるほどです。昌幸は8倍~10倍近い大軍を相手に戦をするつもりでいたわけですが、この兵力差では到底勝てるはずもありません。

 昌幸の狙いは秀忠の軍勢を足止めし、家康の主力と美濃国で合流するのを遅れさせることでした。そうすれば三成らの軍勢でも家康を倒すことができます。昌幸にとって大切なことは「時間稼ぎ」だったのです。

第二次上田城の戦いでの昌幸の戦略

 ちなみに第二次上田合戦の内容のほとんどは軍記物に頼るしかありません。それを踏まえた上で詳細をみていきましょう。

秀忠に降伏を申し出る

 9月3日、昌幸は侵攻してくる徳川勢に対して使者を送りました。そして、「頭を剃って秀忠のもとに出向き、降伏する」という意志を伝えました。両者は信濃国分寺で会見したといいます。

 戦わずして敵を降伏させられるのですから秀忠にとっては嬉しい知らせです。秀忠の目的は大坂城にいる三成らの軍勢を倒すことでしたから、上田城攻めで兵の損害を出したくなかったでしょうし、時間もかけたくはなかったことでしょう。

 秀忠のもとには昌幸の嫡男である真田信幸(信之)がおり、秀忠は返答の使者としてこの信之と本多忠政を送りました。上田城を明け渡せば赦免すると伝えるためです。

 しかし、9月4日になると使者との交渉の場で昌幸は態度を豹変し、上田城に籠城すると告げています。これを聞いて秀忠は激怒したといいます。そして全軍で上田城を攻めることを決意したのです。

 このやりとりは、昌幸が軍備を整えるための時間稼ぎであり、かつ、秀忠を挑発してこの地に留めるためだったと考えられています。

 素通りされたのではさすがの昌幸でも打つ手がありません。上田城攻めに誘導することによって徳川勢の隙を突く戦略だったのです。秀忠は見事に昌幸の思い通りに動いたといえるでしょう。

信幸の砥石城攻めと幸村の砥石城放棄

 昌幸にとっての懸念材料は、徳川勢の中に信幸がいることでした。秀忠としては、信幸が本気で味方しているのか確かめるために彼を最前線に出してくるはずです。もし信幸が上田城攻めの先陣を任された場合、真田氏同士の死闘は避けられません。互いに全滅してしまう可能性もあります。そうすれば真田氏は滅亡です。

 実際はこの最悪の状況は回避できています。理由はふたつ考えられます。

 ひとつはあまりにも兵力差があり、信幸に任せなくても譜代の家臣だけで楽に上田城は攻略できるため、大きな手柄を信幸に立てさせたくなかったのではないかということ。もうひとつは、上田城の支城である砥石城をまず攻略する必要があり、そこに信幸をぶつけたことです。

 砥石城には幸村が入り、守りを固めていましたが、信幸が攻め寄せてきたことを知って放棄しています。

 こうして信幸は9月5日にほぼ無傷の状態で砥石城を確保しました。秀忠は邪魔な砥石城を落とせたことを喜び、本格的に上田城を攻めるために本陣を染屋原に移しています。そして9月6日、秀忠は上田城を一望できる染屋原に本陣を置いて上田城攻めに着手。ついに真田勢と徳川勢が衝突するのです。

第二次上田合戦の要所マップ。色塗部分は信濃国。青は真田、赤は徳川軍

昌幸の策で徳川勢を撃退

敵を引きつけてから反撃

 まず徳川勢は牧野康成・忠成父子らが上田城下で刈田(=他人の田畑の作物を無断で刈取ること)を行い、真田勢を挑発します。

 対する真田昌幸は鉄砲隊を出撃させますが、徳川勢の反撃によって一旦は退却。しかし徳川軍が城際まで迫ったタイミングで今度は城から弓等で反撃を行ない、撃退することに成功するのです。

 その後、昌幸と幸村は徳川軍の目前に偵察に現れて挑発しました。挑発に乗った徳川勢は昌幸を討とうと先陣が神川を渡河し、ここで迎え撃つ真田勢と小競り合いを始めます。

 徳川勢の大久保、酒井、本多といった部隊がこの機に一気に真田勢を蹴散らそうと援軍に出たのですが、ここで昌幸は上流で塞き止めていた神川の水を開放し、さらに上田城側面に配置していた伏兵も動かして反撃に転じたために徳川勢は大混乱に陥りました。

 しかも砥石城近くの虚空蔵山に配置していた伏兵に秀忠の本陣を急襲させたために、徳川勢は混乱の中で小諸城まで撤退を余儀なくされ、その多くが増水した神川で溺死しています。

 秀忠は昌幸の用意周到な策略によって大敗したのです。

秀忠はついに上田城攻めを諦める

 屈辱を味わった秀忠ですが、家康から早急に進軍するようにとの下知があり、さらに参謀役の本多正信の諫言もあって上田城攻めを諦めます。

 この兵力差での大敗はかなり口惜しい思いをしたことでしょう。秀忠は海津城主の森忠政、小諸城主の仙石秀久、松本城主の石川三長を上田城への押さえとして配置して、自らは主力を率いて諏方方面に進み、木曾谷を経由して家康と合流すべく美濃国へ進みました。

 しかし秀忠軍が美濃国へ到着したのは9月17日のこと。関ヶ原での決戦は9月15日に決着がついていたので、彼は合戦に間に合わなかったのです。

 昌幸は関ヶ原の決戦での石田三成の勝利を確信していたといいます。秀忠軍を足止めにする時間稼ぎは成功したといっていいのですが、さすがの昌幸をもってしてもまさか三成ら西軍がわずか1日で壊滅するとは考えていなかったでしょう。

おわりに

 第一次上田城の戦いに続き、第二次上田城の戦いでも徳川勢を退け、その存在感をはっきりと示した昌幸でしたが、天には見放されていました。

 信幸の嘆願によって命こそ救われたものの、上田城は没収され、すぐに取り壊されてしまいます。そして昌幸は幸村らと共に高野山へ配流されてしまうのです。

 最終的に最も口惜しかったのは昌幸だったに違いありません。しかし歴戦の強者ぞろいの徳川勢を退けた真田勢の活躍は日本各地に伝わり、武士たちの羨望を集めることになります。



【参考文献】
  • 黒田基樹『豊臣大名 真田一族』(洋泉社、2016年)
  • 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』(KADOKAWA、2015年)
  • 丸島和洋『真田四代と信繁』(平凡社 、2015年)
  • 平山優『大いなる謎 真田一族』(PHP新書、2015年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。