「お市の方」は2度も落城の憂き目を見た悲運の女性だった!
- 2020/10/16
お市の方(おいちのかた)は信長の妹であるという点ではメジャーであるが、その生涯はあまり知られていない。最初の夫・浅井長政からしてそれほど知名度が高くないということもあるだろう。2番目の夫・柴田勝家はかなりメジャーであるが、正妻お市の方に関する記述はかなり少ない。2度も落城を経験し、最期は自害して果てるという悲劇的な生涯だったにも関わらずである。
さて、史料はどのような人物だと示唆しているであろうか。
さて、史料はどのような人物だと示唆しているであろうか。
実はよくわかっていない前半生
定説によると、お市の方は天文16(1547)年に織田信秀を父として尾張に生を受けたとされる。しかしながら、これには諸説ある。 まず生年のほうであるが、実ははっきりとした記述が残っているわけではない。 天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いで敗れた夫・柴田勝家とともに北ノ庄城で自害した時の年齢が37歳と伝わっていることから逆算した生年だという。
また、定説では父は織田信秀、母は土田御前であり、信長の妹とされるが、これにも諸説ある。『織田系図』や『以貴小伝』では、いずれも信長の従兄妹とされているのだ。これを裏付けるかのように信長の叔父・信光の娘であるという説まである。
そもそも名前にも異説があり、『好古類纂』収録の織田家系譜には「秀子」と記されているという。
織田・浅井同盟
実は信長と浅井長政の同盟がいつ結ばれたのか という点についても、史料にははっきりした記述はない。通説では永禄10(1567)年、もしくは永禄11(1568)年に美濃福束城主・市橋長利を介して、浅井家に嫁いだということになっている。
ところが、生年を1547年とすると、嫁いだ当時の年齢が20歳代になり、不自然だという指摘もある。これは当時の女性の初婚年齢が13歳~14歳であったからである。
このことから、市の生年が異なるか、初婚でないという可能性も浮上している。 最近では長政との婚姻時期を永禄4(1561)年頃とする説が提唱されているという。
ともかくも、市は長政との間に茶々、初、江、3人の子を儲けることとなる。
夫・浅井長政
浅井長政は朝倉氏に肩入れする父・久政を説得できず信長を裏切り、結果として浅井家を滅ぼした。 それ故、評価があまり芳しくない武将として認識されることが割と多いような気がする。しかし長政は決して凡庸な武将ではない。元服して間もない15歳の頃、六角氏との野良田の戦いにおいて見事な采配を見せ、敵軍を撃破したと伝わる。
これに多くの重臣たちが心酔し、六角氏からの独立を望む家臣の中には久政を追放し、長政を当主に据える者まで現れたという。しかも長政は武勇一辺倒の武将ではなかった。
北近江の領民は自主独立の気概が旺盛で統治の難しい地だったが、長政は力で押さえ込むことはしなかったという。領民の声に良く耳を傾ける長政に領民も次第に信頼を寄せるようになったと伝えられる。
このように長政は戦だけではなく、内政にも長けた名君だったのだ。
市と長政は総じて仲が良い夫婦であったようだ。市が茶々、初、江の3人の娘を儲けたことは前述した通りである。ところが、このうち茶々は長政との間に生まれた娘ではないという異説が存在する。浅井家の公式な歴史書である『浅井三代記』には茶々の誕生に関する記述がないというのだ。
朝倉との板挟み
実は信長との同盟には条件があったという。それは「朝倉とは戦をしない。」というものであったというのが定説である。当時、信長と15代将軍足利義昭との関係は良好であったが、朝倉義景が上洛命令を拒否したことで事態が急変する。義景が上洛命令を拒否したのは義昭の背後に信長がいたからであった。
義景が新興大名の信長に服属するのを嫌がったいうのももちろんあるが、長期間越前を留守にできない内政的事情もあったという。信長の方にも、美濃と京の往来を遮断できる位置にある越前を服属させたい思惑があったと思われる。
義昭の2度にわたる上洛命令が拒否されたのを見て、信長は越前征伐を遂行することを決意する。
元亀元(1570)年、織田・徳川連合軍は越前に侵攻。金ヶ崎城などの支城を落とし、勢いに乗る連合軍の下に衝撃の情報がもたらされる。浅井長政が朝倉に寝返ったのである。
長政寝返りの報に接した信長は、これを信じなかったという。『信長公記』には、信長が「虚説たるべき」と述べたとある。信長にしては珍しいが、それほど長政を信頼していたということだろう。
夫長政の裏切りを兄信長に伝えた?
ところで、「長政裏切り」の情報は一体誰がもたらしたのであろうか。史料には2通りの記述が存在する。
『朝倉家記』によると、市が紐で両端を結わえた小豆袋を信長に送り、長政の裏切りを伝えたとある。一方、『朝倉記』によれば、この当時、近江方面の謀報活動を担当していた松永久秀が浅井方の不審な動きを掴み、報告したという。
前者は大河ドラマでも何度か採用された説であるだけに、認知度は高い。しかし、この記述の信憑性は極めて低く、後世の創作であるという見解が一般的である。後者の方が一見もっともらしいが、これも信憑性に疑問を呈する専門家も多くはっきりとしたことは不明らしい。
私はこの記述のどちらも正しいのではないだろうかと睨んでいる。信長は意外に慎重な性格で、久秀の報告をそのまま受け取るのは危険だと感じていた。そんな時に妹の市から同様の報告があったので信用したということではないだろうか。
ともかく、信長は長政の裏切りを事実であると認めるや、撤退を命じる。世に言う金ヶ崎の退き口である。
この際、殿としてこの退却戦を成功に導いたのが、秀吉と光秀であった。命からがら京へ退却した信長は陣容を立て直し、浅井・朝倉連合軍の追撃に備えた。姉川の戦いに辛くも勝利をおさめた信長は信長包囲網(第一次)に苦戦しつつも、次第に浅井氏と朝倉氏を追い詰めていく。
小谷城炎上
天正元(1573)年、一乗谷の戦いで朝倉氏を滅ぼした信長は反転し、そのままの勢いで長政の籠る小谷城に攻め寄せた。最期の時が迫っていることを悟った長政は、市に娘と共に小谷城を脱出するよう諭したという。最初は共に自害するつもりであった市も、長政の説得を受け入れ、織田方の手引きにより城を脱出したのである。その後、市と娘たちは兄の織田信包の庇護を受け、清州城で生活するようになったと言うのが定説であった。ところが最近の研究によれば、信長の叔父・信次に預けられたとする説が有力になりつつあるという。
信次が天正2(1574)年9月に戦死したため、その後、市は岐阜城で暮らしたようである。
本能寺の変後
天正10(1582)年、明智光秀による謀反により、信長は倒れる。いわゆる「本能寺の変」である。しかしその光秀も結局、中国大返しにより急遽京に戻ってきた秀吉に山崎の戦いで敗れる。信長の弔い合戦に勝利した秀吉は、その後に行われた清洲会議においても、主導権を握ることとなったとされる。
信長の三男信孝を推した勝家が、嫡男信忠の息子三法師を推す秀吉に終始圧倒されたというのが定説であった。ところが、勝家も三法師を推すことに異論はなかったという説が浮上しているというのだ。
歴史学者の柴裕之氏によれば、勝家が秀吉に対抗するために信孝を推したという話は『川角太閤記』によるものであり、創作の可能性が高いという。
『川角太閤記』は本能寺の変の40年も後になって書かれた軍記物であり、物語の範疇を出ていないとしてその信憑性が疑われている書物だからであろう。
そして、あまり知られていないがこの会議にはもう1つの議題があった。それは勝家と市との結婚の承諾であった。
これも従来は信孝の仲介とされていたが、『南行雑録』に収められている「堀秀政宛て天正10年(1582年)10月6日勝家書状」には秀吉と申し合わせて結婚の承諾を得た。」という記述が見え、秀吉による仲介であったことが判明したのである。
どうも、勝家は以前から市に想いを寄せていたようで、台頭する自分に対して風当たりが強くなったことを感じた秀吉の懐柔策に乗ってしまったらしいのだ。
主君信長の妹を正室としたことで、自分が信長の後継者に最も近いという思い込みに囚われてしまったような気がしてならない。その間に秀吉は着々と勢力拡大を図っていたに違いない。
北ノ庄城炎上
清州会議の後、秀吉はさらに勢力を拡大させていき、焦りを感じた勝家をはじめとする重臣達との権力抗争が激化する。勝家と滝川一益は信孝を担ぎ、頑強に抵抗するが、秀吉は手の内を読んでいたかのような采配を見せる。まずは、長浜の柴田勝豊に脅しをかけ、これを懐柔したのである。
実は勝豊は勝家に冷遇されていたので、勝家にあまり恩義を感じていなかったらしい。これで秀吉は交通の要所である長浜を再び奪取することに成功する。
続いて岐阜城の信孝を攻めた秀吉は、これをも屈服させ、最後の頼みの滝川一益の籠る伊勢長島城を7万の大軍で包囲するも一益は頑強に抵抗したという。
この最中の天正11(1583)年2月末に勝家は遂に越前北ノ庄城を出陣する。雪解けを待っていた勝家であったが、それを見越していた秀吉の攻勢に焦りを感じての行動であった。後手にまわってしまった勝家は5万の軍勢を擁する秀吉に対し、3万の軍勢で戦に臨む事になったのである。
柴田軍は猛将として知られる佐久間盛政の奮戦もあって善戦するも、前田利家の戦線離脱によって壊滅し、勝家は北ノ庄城に敗走を余儀なくされた。
同年4月、北ノ庄城は羽柴軍の攻撃が明日に迫る中、勝家は秀吉に書状を送っている。それは浅井三姉妹の庇護を懇願するものであった。
正妻・市は夫・勝家と共に自害する道を選んだのである。4月23日、市は燃え盛る城内で自害して果てた。享年37と伝わる。
あとがき
市は浅井家・柴田家両方で落城という最悪の事態に遭遇しているが、勝家がよもや敗者になるとは思いも寄らなかったであろう。信長の重臣中の重臣であり、信長の弔い合戦の功を秀吉に奪われたものの、依然として家中のヒエラルキーは変わっていないと思っていたのではないのだろうか。
勝家の正妻になった時には勝ち馬に乗ったとすら感じていたかもしれない。ところが市の予測を超える速度で事態は動いていた。秀吉の台頭である。
市はこの秀吉という男を過小評価していたのかもしれない。なまじまだ身分が低い時分の秀吉を知っているだけに、このような大物になる片鱗を見逃していた可能性はあるだろう。おそらくであるが、娘の茶々はそのことを薄々認識していたのではないだろうか。
もう落城の憂き目に遭いたくなかった茶々は、日本の最高権力者となっていた秀吉の側室になることを「選んだ」、というか「望んだ」ように思えてならない。
しかし、秀吉の代には落城の憂き目に遭わなかった茶々も、息子の秀頼の代で3度目の落城に遭遇し、自害する事になるとは夢にも思わなかったであろう。
まさに一寸先は闇である。
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【主な参考文献】
- 山本博文『信長の血統』文春新書 2012年
- 小和田哲男編 『浅井長政のすべて』 新人物往来社 2008年
- 太田牛一『信長公記』 角川ソフィア文庫 2002年
- 高柳光寿『戦史ドキュメント 賤ヶ岳の戦い』学習研究社 2001年
- 藤居 正規 『朝倉始末記 』日本合戦騒動叢書 1994年
- 桑田忠親 『桃山時代の女性』 吉川弘文館、1972年
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