信長の姉妹、総勢14名のプロフィール一挙まとめ

織田信長とその姉妹の略系図イラスト
織田信長とその姉妹の略系図イラスト
織田信長の妹と言えば、浅井長政に嫁いで浅井三姉妹を産んだ「お市の方」がすぐに思い浮かびますが、実際には他にかなりたくさんの姉妹がいたのをご存知でしょうか。

本記事では信長の姉妹にフォーカスし、各々経歴をザックリと紹介していけたらと思います。

※各人物のプロフィールに筆者の見解などは入っていません。なお、各人物は諸系図などの記録を元に年齢順に並べております。ただし、実際の年齢順序は不明です。


くらの方【大橋重長室】(姉、?-?)

信長の姉と伝わり、織田家臣の大橋重長に嫁いでいる。『尾州雑誌』大橋重長の妻について「重長ガ妻ハ信長公ノ御姉クラノ御方也」とあり、『系図纂要』には大橋重長の子・長将の生母を「信長公姉」と記している。

重長の子に生母不明の織田勘七郎信弐(のぶすけ)がおり、彼は天正9年(1581年)2月の馬揃に「御連枝衆」の一員として馬乗していると伝わっているが、この織田勘七郎信弐が "くらの方" の子ではないかと考えられている。没年不明。

女子【神保氏張・稲葉貞通室】(姉、?-?)

信秀長女と伝わっている。時期は不明だが越中守山城主の神保氏張に嫁いだ。天正3年(1575年)には2人の間に子・氏長を設けた。しかし氏張は、天正6年(1578年)に信長と会見以降、越中平定の命令をうけたが、これを進められずに失脚。その結果2人は離別となった。のちに信秀娘は稲葉一鉄の嫡男・稲葉貞通の継室となって男子三人、女子二人をもうけた。没年は不明。

信長の姉となると天文3年(1534年)以前生まれとなるが、子を設けた時期を考えると明らかにおかしいので信長の妹と考えられている。このため信秀長女という伝承も間違っている可能性が高い。

犬山殿【織田信清室】(姉、?-?)

いぬやまどの。信秀二女と伝わる。犬山城主の織田信清に嫁いだ。夫の信清は信定(信秀の父)の子信康が父であるから、いとこ同志の結婚ということになる。信清は尾張統一の戦いでは信長と協力関係にあったが、のちに不和となって敵対関係となる。

永禄7年(1564年)には居城の犬山城を信長に落とされて甲斐の武田信玄のもとへ逃亡し、犬山鉄斎と号し信玄の御伽衆となっている。彼女は信清と離別となり、信長死後は織田信雄の庇護下にあったようだ。『織田信雄分限帳』に「犬山殿」の名がみえる。信雄から化粧料を給されて余生を送ったのであった。没年は不明。

女子【斎藤秀龍室】(妹?、?-?)

信秀三女という。史料による確かな裏付けはないが斎藤秀龍は道三のことであり、その側室と考えられている。没年は不明。

女子【苗木勘太郎室】(妹?、?-?)

信秀四女と伝わる。時期不明だが、美濃苗木城主の苗木勘太郎に嫁いだ。この苗木氏は東美濃に大きな勢力を誇る遠山一族である。

2人の間に1女をもうけたが、その子は永禄8年(1565年)に叔父である信長の養女となり、甲斐の武田勝頼に嫁いだ。没年は不明。

お市の方【浅井長政・柴田勝家室】(妹、1547-1583年)

信秀五女と伝わる。有名な浅井三姉妹(茶々・お初・お江)の母である。天文16年(1547年)に生まれ、信長の妹のほか、異説に従兄妹ともいわれている(『以貴小伝』)。

信長が近江の浅井長政と同盟をした際、長政に嫁いだ。長政との間には浅井三姉妹と嫡男万福丸をもうけている。長政の居城である小谷城で暮らしていたが、やがて信長が朝倉義景を攻めたことで浅井長政と手切りとなる。

天正元年(1573年)に信長が小谷城を落とし、浅井を滅ぼした際には落城直前で救出されている。その後、お市は岐阜城で浅井三姉妹と暮らしたというが、一説に兄弟の織田信包の保護下にあったともいう。

信長死後の織田家の覇権争いでは政略によって柴田勝家と再婚となるが、勝家が秀吉に敗れ、天正11年(1583年)に夫・勝家とともに自害して果てた。37歳であった。

ちなみに浅井三姉妹は、茶々が豊臣秀吉の側室に、お初は京極高次に嫁ぎ、お江は江戸幕府2代目の徳川秀忠の正室となった。

小田井殿【織田信直室】(妹、1552-1573年)

信秀六女と伝わる。小田井城主の織田信直に嫁いだ。天文21年(1552年)に誕生、母は池田政秀の息女・養徳院、信長の乳母を務めた人物である。2人との間に長男信氏、次男忠辰、長女(牧野宮内少輔室)が生まれている。

夫・信直の一族は織田三奉行の一つ「藤左衛門家」の系統で信直の父・織田信張は信秀・信長の2代に仕えた将であった。天正元年(1573年)に他界、その翌年に夫・信直も伊勢長島一向一揆攻めで戦死した。

女子【織田信成室】(妹、?-?)

信秀七女と伝わる。時期は不明だが尾張小幡城主の織田信成に嫁いだ。

2人の子に正信がいる。夫の信成とは従兄妹同士であり、信成の父は守山城主織田信光(信秀の弟)であった。ちなみに信成は天正2年(1574年)の長島一向一揆で討死している。

お犬の方【佐治為興・細川昭元室】(妹、?-1582年)

信秀十一女と伝わり、はじめ佐治為興に嫁いでおり、長男の与九郎一成、次男の中川久右衛門秀休の2人をもうけている。

佐治氏は尾張知多郡の土豪で、伊勢湾海上交通を掌握する佐治水軍を率いており、夫の為興は結婚して信長から「信」の字を拝領し、 "信方" と称している。その信方は天正2年(1574年)に長島一向一揆で討死を遂げた。

その後まもなくの天正4年(1576年)頃、幕府の管領家である細川晴元の嫡男・昭元と再婚。このときの婚姻で、羽柴秀吉が奔走したということが史料にみえる。

天正10年(1582年)、本能寺の変の後にまもなくして他界した。

女子【津田出雲守室】(妹、?-?)

信秀九女、津田出雲守室。事跡は一切ないため不明。

女子【飯尾信宗室】(妹、?-?)

信秀十女と伝わる。奥田城主の飯尾信宗(尚清とも)に嫁いだ。信宗の父、飯尾定宗は信秀の叔父にあたり、飯尾氏の養子に入って奥田を居城としたという経緯がある。なお、史料で「信宗」という名は系図類で記されているが、発給文書では「尚清」と署名されている。『系図纂要』によれば、信宗との間に子・敏成をもうけている。没年は不明。

野夫殿【津田元嘉室】(妹、?-?)

信秀十一女と伝わる。諸史料に津田九郎次郎なる者に嫁いだとあるが、この津田九郎次郎が津田元嘉とみられている。津田元嘉は信長に仕えて主に奉行として活躍したようであり、本能寺の変で二条御所で信忠と共に討死にしている。

小林殿【牧長清室】(妹、?-?)

信秀十二女と伝わる。尾張小林城主の牧与三右衛門長清に嫁いだ。夫・長清の父も織田信定の娘(信秀の姉妹)を娶っているから織田氏とは二重の縁であった。長清が小林城主であったことから彼女は小林殿と呼ばれたという(『尾張志』)。
本能寺の変の後は、信雄の庇護下で余生を送り、天正15年(1587年)に他界している。

女子【丹羽氏勝継室】(妹?、?-?)

丹羽氏勝の継室。生没年・生母・名などは不明。『寛政重修諸家譜』に、丹羽氏勝の記述に「室は某氏の女 継室は織田備後守信秀が女」と記してあるだけである。記録からは信長の妹か姉なのかもわからない。

ちなみに岩崎城主の丹羽氏勝ははじめ信秀の弟・信次の家臣であり、のちに信長に仕えた。しかし、天正8年(1580年)に林通勝らとともに信長によって追放されている。

おわりに

いかがだったでしょうか? この記事では信長姉妹は総勢14名にものぼりますが、実のところ正確な人数はわかっていません。ちなみに諸系図によれば、信長の姉妹は12人を数えています。

事績もハッキリしないものが多いようでした。実際に生誕年・没年がわかっていて肖像画が残っているのは、"お市の方" と "小田井殿" の2人だけですし、生母がわかっているのは唯一 "小田井殿" のみです。それどころか名前や通称すら不明の人物も多いようです(上記の系図では”女子”と記しています)。

一般に戦国時代の女性に関する史料はあまりないのですが、こうしてみると著名な信長の姉妹でさえも例外ではなかったということですね。




【主な参考文献】
  • 歴史読本 編集部『物語 戦国を生きた女101人』(KADOKAWA/中経出版、2014年)
  • 西ヶ谷恭弘『考証 織田信長事典』(東京堂出版、2000年)
  • 岡田正人『織田信長総合事典』(雄山閣出版、1999年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
戦ヒス編集部 さん
戦国ヒストリーの編集部アカウントです。編集部でも記事の企画・執筆を行なっています。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。