「高山右近(重友)」戦国期を代表するキリシタン大名。最期の地はマニラ?
- 2020/04/03
戦国時代は、キリシタンにとって「天国と地獄」を体験する期間でありました。九州地方を中心にキリスト教信仰は広まりを見せ、宣教師・領民から大名へと浸透していきました。
いわゆる「キリシタン大名」が出現すると、大名は諸外国の知識や物資を得て、宣教師は彼らの保護を得ることで安全を確保していたのです。
しかし、社会に定着しつつあった思想は、時の権力者たちによって問題視され、弾圧されるようになっていきました。これを体現する大名こそが、今回ご紹介する高山右近(たかやま うこん)でしょう。
今回の記事では、いかにして右近がキリシタン大名となり、そして失脚に追い込まれたか。その点を中心に解説していきます。
いわゆる「キリシタン大名」が出現すると、大名は諸外国の知識や物資を得て、宣教師は彼らの保護を得ることで安全を確保していたのです。
しかし、社会に定着しつつあった思想は、時の権力者たちによって問題視され、弾圧されるようになっていきました。これを体現する大名こそが、今回ご紹介する高山右近(たかやま うこん)でしょう。
今回の記事では、いかにして右近がキリシタン大名となり、そして失脚に追い込まれたか。その点を中心に解説していきます。
【目次】
父・飛騨守の影響でキリシタン武将へ
天文12(1553)年、右近は大和国の松永久秀に従っていた有力者・高山飛騨守の息子として生まれました。右近の少年時代について詳しい記録は残されていませんが、武勇や文芸に優れた功績を残していることから、父のもとで厳しい教育を受けたのでしょう。
早くにキリシタンへ
「右近がいつキリシタンになったのか」と言われると、その答えは永禄7(1564)年のこと。父の飛騨守の影響でキリシタンになったのですが、その飛騨守は決して最初からキリスト教に好意的ではありませんでした。キリスト教が広まった当初、飛騨守はなんと「キリシタンの弾圧」に精を出しているほど。思想が一変するキッカケになったのは、「宣教師との対面」でした。
永禄6(1563)年、飛騨守は「キリシタンなど論破してくれるわ」と宣教師を招いて議論を交わしたのですが、彼らの理論整然とした物言いにかえって心酔してしまい、同年中に洗礼を受けたのです。
これまでは禅宗を厚く信仰していたと思われる飛騨守は、その情熱をそのままキリスト教の保護・普及にぶつけました。彼は宣教師たちから絶大な信頼を得ており、フロイスをして「都地方の柱」と評されています。
父がキリスト教に傾いていったことは、右近入信の原因になったと考えてみて間違いないでしょう。
幕臣の和田惟政に仕える
一方、当時は京都周辺の政情が非常に不安定であり、三好党の勢力争いで松永久秀も苦戦を強いられました。彼は中央での政争に敗れた形となり、高山親子も攻め込まれて逃走を余儀なくされます。彼らを救ったのは、後の将軍・足利義昭を救うために奔走していた和田惟政でした。高山家と親密な関係を築いていた惟政は、上洛を目指す織田信長と同盟を結ぶことに成功。永禄11(1568)年、高山親子も惟政に従う形で信長の上洛を迎えました。
しかし、元亀2(1571)年に惟政が、荒木村重との間に発生した摂津郡山の戦いで討死。彼らはその子・惟長に従うこととなったのですが、両者の関係は冷え込んでいきました。
惟長と対立し、高槻城を占拠して村重に従う
惟長は戦で目覚ましい活躍を遂げる同年代の右近を警戒し、高山親子の暗殺を目論んでいたようだと宣教師は記録しています。命の危機に瀕した右近は、驚くべきことに敵であるはずの荒木村重へその旨を相談したようです。
村重は「やられる前にやってしまえよ。援助はするから」と右近の反逆を後押しします。結果、天正元(1573)年に惟政と右近が会談したところ両者切り合いとなり、決着はつかずどちらも負傷してしまったと伝わります。
しかし、村重が右近に肩入れしている以上、惟長は負傷をおして逃げるほかなかったでしょう。彼は居城・高槻城を出て伏見城へと逃げだしましたが、怪我が元となり亡くなってしまったようです。
こうして高山親子は城主不在となった高槻城を乗っ取りました。彼らは惟長の死を手土産に通じていた村重のもとへ下ると、村重も信長に従っていたため、これまで通り信長家臣の地位に戻りました。
以後、村重配下の将として彼ら親子は活躍。天正2(1574)年に本願寺との戦で功を挙げると、信長が摂津地域で力を有していた村重を重用する方針を固めたため、主の出世に伴って彼ら親子の「不法占拠」状態にあった高槻城の所有が正式に認められました。
摂津に居を構えた親子は、主の村重がキリスト教に寛容であったこともあり、国内で布教に努めたと言われます。宣教師の世話にも積極的であり、それゆえに彼らはフロイスらによって多大な信頼を寄せられることになったのです。
村重の裏切りで、親子の明暗は分かれる…
村重配下の将として活躍していた親子ですが、天正6(1578)年に村重が突如信長に反旗を翻したことによって運命が一変します。(有岡城の戦い)高山父子も信長に背かざるを得ませんでした。「主の命とあれば…」ということもありますし、村重の籠る有岡城に子や姉妹を人質として出していたことも大きな要因であったことでしょう。
事態を重く見た信長は大軍を率いて摂津に入ると、右近を村重から引き離そうとします。信長は彼が熱心なキリシタンであることに着目し、説得役の羽柴秀吉・松井友閑に宣教師をつけるという策を講じたのです。
この宣教師は「成功すれば布教を許すが、失敗すれば弾圧する」という極めて厳しい条件を背負わされ、右近の説得に赴きました。
もちろん、この苛烈な条件は右近の心を動かすための一手であったことしょう。宣教師は必死に説得を試みざるを得ず、右近も彼の情熱を無視することはできませんでした。
信長の出した条件に屈し、「一度裏切った身、追放処分で済めばいいほうか…」という絶望的な思いで信長の判断を待ったと言われます。
が、信長は彼が下ったことを大いに喜び、右近の追放や教会の弾圧どころか、高槻領の安堵に加えて小袖・馬・金貨20枚を送りました。親族を見捨てる苦渋の決断でしたが、ここから右近は信長の優遇を受けることになります。
しかし、これまでともに活動してきた父の飛騨守は、高槻城を手放さず信長への抵抗をやめませんでした。敵となった右近を含む攻略隊の猛攻に遭いながら、村重の籠る有岡城もよく長期戦を耐え忍びましたが、ついには落城。
村重は逃亡し、彼の一族郎党はことごとく処刑されたといいます。飛騨守も抵抗を続けたことで信長の反感を買い、越前の地へ追放されてしまったのです。
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信長・秀吉の家臣として、6万石の大名に成長
信長生前の活動は、主に九州攻めに赴く秀吉の様子を彼に報告することが義務でした。右近はその使命を忠実に実行していたようであり、信長も実際に中国攻めへ彼を組み込もうと命令を出しています。一方、布教活動はますます盛んになっており、高槻城内にはパードレ(神父)らの家を建て、彼らの活動費用も支援しました。当時、高槻周辺に住んでいた住民の約7割がキリシタンであったと言われ、高槻は「キリシタン都市」と化していました。
天正10(1582)年に信長が本能寺で討たれると、中国地方から猛然と引き返してくる秀吉に合流。山崎の戦いでは先鋒として功を挙げ、秀吉への接近を深めていきます。中国地方で秀吉の戦いぶりを観察していた右近は、その姿を高く評価していたということでしょう。
ところが、翌年の賤ケ岳の戦いにおいて敵方の佐久間盛政が味方の中川清秀を襲った際、敵前逃亡をしたとして周囲の人物や秀吉からバッシングを受けてしまいました。
秀吉は「おぬし、柴田勝家に通じておるのか?」と疑い、勝家を滅ぼしたのちに高槻城を攻めるほど。もっとも、別に右近は柴田と通じていたわけでもなかったようで、疑いが解けてからは以前と変わらぬ待遇を受けています。
以後、小牧・長久手の戦い、雑賀・四国攻めといった秀吉の戦に従軍し、これらの功から天正13(1585)年に播磨国明石城(船上城)6万石を有する大名として列せられました。
秀吉によるバテレン追放令を受け、大名の座を捨てる
天正15(1587)年、九州攻めの結果として島津氏を降伏に追い込んだ秀吉は、立ち寄った長崎の地で「バテレン追放令」を発します。秀吉がこの法令によって迫害しようと試みたのは、外国人宣教師と極めて熱心なキリシタン大名である右近であったと言われています。
「キリスト教の信仰か、大名の地位か」
という難題を突き付けられた右近は、最終的に信仰の道を選びました。彼は多くの家臣や手にした明石城6万石に別れを告げ、領地を去ったのです。
加賀前田家の庇護を受けて暮らす
追放直後は、彼がキリシタンの道へといざなった小西行長によって小豆島にかくまわれましたが、翌年に行長が九州行きを命じられたため、前田利家が身柄を引き取りました。右近はこの時期に髪を剃り、南坊等伯と名乗っています。右近というとキリシタンのイメージが強いですが、茶の名人としても知られています。彼は、千利休の弟子として茶を学び、「利休七哲」の一角にも数えられています。
加賀での彼は、こうした文化活動に精を出す傍ら、この地でも南蛮寺を建築するなど、布教も諦めはしませんでした。
また、追放処分の身であったものの、前田家に従って天正18(1590)年の小田原攻めや慶長5(1600)年関ケ原の戦いにも参戦しています。
最期は国外に追放され…
江戸幕府成立初期の加賀藩で藩政にも携わった右近ですが、幕府の開祖・徳川家康もキリスト教には強い警戒心を抱いていました。慶長19(1614)年には禁教令を発し、右近は日本国内に居場所を失います。それでも彼は、キリスト教信仰を捨てません。
最終的には、妻・百人余りの教徒とともに、フィリピンのルソンへ追放されました。異国での生活は一年足らずで終わってしまい、翌元和元(1615)年に熱病のためマニラで亡くなったと伝わります。
最期まで信仰を貫いた右近の姿はマニラの地でも高く評価され、死後は地域全体で彼の勇気をたたえるミサが執り行われるほどです。
現代においても、弾圧に負けず信仰を守り抜いたその生き様は、カトリック教徒を中心に語り継がれています。
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【参考文献】
- 『日本大百科全書』
- 谷口克広『織田信長家臣人名大辞典』(吉川弘文館、2010年)
- 海老沢有道『人物叢書 高山右近』(吉川弘文館、1987年)
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