「有岡城の戦い(1578-79年)」信長に背いた荒木村重の運命は!?
- 2019/11/01
有岡城の戦いは、織田信長に重用されていたはずの荒木村重が、突如信長を裏切ったことによって起こった戦いです。あの信長に謀反を起こすなんて、無事でいられるとは思いませんよね。
信長に背いた荒木村重は、その後どんな運命をたどることになったのでしょう。意外な人生が待ち受けていたようです。村重が自称するようになった、まさかの名前とは!?
信長に背いた荒木村重は、その後どんな運命をたどることになったのでしょう。意外な人生が待ち受けていたようです。村重が自称するようになった、まさかの名前とは!?
有岡城の戦いの背景
天正元(1573)年3月(織田信長が足利義昭との対立を深めていた頃)より、信長に仕え始めた荒木村重。天正2(1574)年11月には、摂津の国の支配権を与えられるまでになっていました。他家(池田氏)の家臣出身でありながら、村重はかなり優遇されていたのです。突然の戦線離脱
天正6(1578)年10月、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の三木城攻めに従軍していた村重でしたが、突如、本拠地の有岡城(村重が伊丹城を落とした際に改称)へと戻ってしまいます。つまり、信長を裏切ったということです。村重謀反の報せを聞いた信長は、にわかには信じられなかったようです。信長にしてみたら「いったい何が不満なの?」といったところでしょう。すぐに糾問使(きゅうもんし)として松井友閑・明智光秀・万見(まんみ)重元を派遣し、村重から「野心はない」という返事を得ます。が、すでに村重は、本願寺や毛利氏と通じていたのです。
そもそも、荒木村重はどうして信長を裏切ったのでしょうか。
一説に村重の家臣・中川清秀が、本願寺に兵糧を売ったという噂を発端とするものがあります。その噂は事実無根であったため、安土城へと弁明に向かおうとした村重でしたが、清秀から「信長は一度疑った者は許さない」と説得され、謀反に踏み切ったといわれています。ただし、はっきりとした理由はわかっていません。
有岡城の戦いの経過・結果
同年11月9日、第二次木津川口の戦い勝利の報せを聞いた信長は、京都を出陣します。翌日10日には、織田信忠・滝川一益・明智光秀・丹羽長秀らも、摂津に入りました。高槻城・茨木城の開城
高山右近の高槻城、中川清秀の茨木城。有岡城へ向かう途中にあった2つの城が、まずはターゲットとなりました。信長はキリシタン大名の高山に対して、こんな方法で切り崩しを図ります。宣教師を呼び寄せ、高山を説得してもらうように依頼したのですが、
- (1)説得できたらキリスト教を保護
- (2)引き受けないなら、キリスト教は禁教
という条件を突きつけたのです。すごい二者択一。
宣教師の説得を受け、高山右近は高槻城を開城します。高山は村重に息子と姉を人質に差し出していたので、苦渋の決断以外の何物でもなかったでしょうね。ただ息子と姉は無事だったようです。
11月16日、高山は信長のもとを訪れ、信長より領地を与えられました。そして24日には中川清秀が降伏し、茨木城も開城。続いて、大和田城などが開城しています。
総攻撃の失敗
有岡城を奪取すべく、信長は5万もの大軍で取り囲みました。そして12月8日午後6時、総攻撃が開始されます。しかし有岡城は、村重が大改修を行って完成させた堅固な城。3つの砦と城下町を取り込んだ惣構え(城郭全体を土塁・堀で囲んだ構造のこと)を持っており、そう簡単に攻略できるような城ではありませんでした。村重軍の激しい反撃に遭い、信長軍の攻撃は失敗。信長の側近・万見重元はここで討ち死にしています。
持久戦へ
総攻撃の失敗を受け、持久戦に方針が変更されます。信長は諸所に砦を築くように命じ、各砦に部将たちを配置しました。- 塚口:丹羽長秀・蜂屋頼隆・蒲生氏郷・高山右近・織田信孝
- 毛馬村(食満):織田信包・滝川一益・織田信雄・武藤舜秀
- 倉橋:池田恒興・池田元助・池田照政
- 原田:中川清秀・古田重然
- 刀根山:稲葉一鉄・氏家直通・安藤定治・芥川某
- 郡山:織田信澄
- 古池田:塩河長満
- 賀茂(加茂):織田信忠
- 高槻城:大津長治・牧村利貞・生駒一吉・生駒一正・湯浅直宗・猪子一時・村井貞成・武田左吉
- 茨木城:福富秀勝・下石頼重・野々村正成
とにかく、すんごい包囲網(これでも割愛しています)を作ったわけですね。12月21日、信長自身は京都へと帰陣しています。
荒木村重の脱出
当時、信長軍が対峙していたのは、有岡城の荒木村重だけではありません。三木城攻め(羽柴秀吉)と本願寺攻め(佐久間信盛)も、同時並行で行われていました。余裕のあった佐久間軍と有岡城の包囲軍が、秀吉の三木城攻めに加わるといったこともありました。本願寺しかり、有岡城も大きな動きはなかったのですね。天正7年(1579)4月、信長も摂津まで攻囲陣の視察に来たものの、鷹狩などをしていたようです。
事態が急変したのは、同年9月2日夜のこと。村重がわずかなお供を連れ、有岡城を脱出したのです。移った先は、嫡男・村次のいる尼崎城でした。尼崎城には毛利の部将・桂元将がいました。村重は桂を通じて、毛利へ救援を求めに行ったものと考えられています。
有岡城の開城
城主不在となった有岡城は、信長軍からの猛攻を受けます。10月15日には、滝川一益の軍が惣構えの中に攻め込み、次々と砦も落ちていきました。有岡城もいよいよ開城、ということになり、両者の間で交渉がもたれます。そこで信長方が提示した条件は、荒木村重の出頭および尼崎城・花隈城の明け渡しをすれば、人質となった妻子たち(家臣の妻子を含む)を助けるというものでした。
11月19日、有岡城はついに開城します。そして村重の家臣たちは、村重を説得するため、尼崎城へと向かったのです。
戦後、村重の一族は皆殺しに…
ところが村重は、説得に応じませんでした。つまり、妻子たちを見殺しにしたということですね……。同年12月13日、尼崎近くの七松で、122人もの人質(人質の中でも位が高い者たち)が磔に掛けられました。『信長公記』の中に衝撃的な記述があるので、紹介させてください。
この美しい妻女たちを、いかにも荒々しい武士たちが受け取って、幼児がいれば母親に抱かせたまま、次々と柱に引き上げ、磔に掛けた。そうして次々と鉄砲で撃ち殺し、または槍や薙刀で刺し殺した。(中略)
見た人は、二十日も三十日もの間、成敗された妻女たちの顔が浮かんで、忘れられなかったそうである。
そうですよね、忘れられませんよね。
中級以下の武士の妻子ら500余名の殺され方も、これまた残虐です。
これを家四軒に押し込め、枯れ草を積んで焼き殺した。風が起こり火が廻るにつれて、魚が反り返り跳びはねるように、あちこちとなだれ寄り、焦熱の炎にむせび、踊り上がり跳び上がり、悲鳴は煙とともに空に響いた。地獄の鬼の呵責もこれかと思われた。肝も魂も消え失せて、二目と見られる人はなかった。
村重の親族も、京都の六条河原で斬首されました。一連の行為は、大虐殺ですよね。今回の処刑で、670人もの命が奪われたといいます。やはり、信長には逆らうものではありません。
生き延びた荒木村重
一族の者たちを、こんな目に遭わせてしまった荒木村重。さすがに本人も生きてはいられないだろう……と思いきや、生き延びていました。天正8(1580)年、花隈城の戦いで再度、池田恒興ら信長軍に戦いを挑むも敗北。その後、毛利氏のもとへと亡命しています。ところが信長の死後、なんと茶人として復活を果たしていました。村重は、千利休の高弟である「利休七哲」の一人(※1)にも数えられるほどの人物になっていたのです。
※1 挙げられる7人は、時代によって変わる。
有岡城の戦いで城から脱出する際も、名物の茶器を持ち出していたのだとか。もっと他に、守るものがあったような気がしますが!
黒田 官兵衛の幽閉エピソード
さて、ここで2014年に大河ドラマの主人公にもなった黒田官兵衛が、有岡城の戦いにまつわる有名なエピソードを1つご紹介しましょう。荒木謀反を知った当時、秀吉の軍師を務めていた官兵衛は、村重を説得するために単身で有岡城に乗り込みます。ただ、このときに官兵衛は捕らえられ、有岡城内の狭い土牢(どろう)に1年間ほど幽閉されてしまうことに。
説得に行ったきり、帰ってこないので、「もしや官兵衛も裏切ったのでは?」と信長に疑われてしまいます。そして、秀吉の人質として差し出されていた官兵衛の嫡男・松寿丸(のちの黒田長政)を殺害するように、との命令が…。
しかし、竹中半兵衛の機転によって、松寿丸の命は助けられました。彼は信長に処刑役を願い出て、実際は匿っていました。実行したと見せかけて信長には別の首を差し出していたのです。
官兵衛も長い幽閉期間の影響で脚を悪くしますが、有岡城の落城時に救出されています。黒田官兵衛と竹中半兵衛の熱い友情を物語る、有名なエピソードです!
が、有岡城内で幽閉されていたという、確たる証拠はないのだそうです。最後に水を差してしまって、すみません。
まとめ
信長を裏切った真の理由、そして妻子たちを見捨てた理由など、村重には聞きたいことばかりですね。天下人となった秀吉に、茶人として仕えることになった荒木村重。当初は「荒木道糞」と名乗っていたといわれています(のちに荒木道薫)。臭ってきそうな名前ですが、過去の罪への意識から、こう名乗るようになったそうです。
殺された多くの人々も気の毒ですが、大きすぎる罪を背負って生きる羽目になった村重にも、思わず同情してしまいませんか?
【主な参考文献】
- ルイスフロイス、松田毅一・川崎桃太『完訳フロイス日本史3 安土城と本能寺の変』(中央公論新社、2000年)
- 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』(中公新書、2002年)
- 谷口克広『信長の天下布武への道』(吉川弘文館、2006年)
- 太田牛一・中川太古『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
- 日本経済新聞「官兵衛伝説 堅固な舞台」
- とらや「荒木村重と饅頭」
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