「池田恒興」信長の幼なじみのワリに出世は遅め?

池田恒興のイラスト
池田恒興のイラスト
織田信長亡き後、清須会議に列席したことで知られる池田恒興(いけだ つねおき)。他の出席者である柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀らと比べると、なんか地味。というよりも、よく知らないんだけど……という人も多いはず。

そこで今回は、ちょい地味な男・池田恒興の生涯について紹介していきます。

信長とは乳兄弟で義兄弟という間柄

池田恒興は天文5(1536)年、父・池田恒利と母・養徳院(のちに仏門に入ったときの名前)との間に誕生しました。父は織田家に仕えていた武将であり、母も信長の乳母を務めていたようです。

赤ちゃんだった頃の信長(幼名は吉法師)は、乳母の乳首を噛み破るほど疳(かん)の強い子だったそうです。さらっと書きましたけど、めちゃくちゃ痛そうです。

ん?待てよ? …ということは養徳院の乳首も危ない!、と思いきや、養徳院が乳母となってからは噛み破らなくなったとか。ふぅ~ 良かった(笑)。それにしても他の人とは何が違ったのでしょうか。

さて、恒興の父・恒利は早くに亡くなったそうで、母はその後、信長の父・織田信秀の側室となったとされています。

というわけで恒興と信長は乳(ち)兄弟であり、義兄弟だったということですね。ちなみに恒興は信長より2歳年下です。ずいぶん過激なお兄ちゃんを持ちましたね。

こうした縁で結ばれていた恒興と信長の二人。恒興は幼少時から小姓として信長に付き従っていたといいます。信長には多くの家臣がいましたが、恒興とは特別な絆がありそうです。

若かりし頃の信長は、謀反を企てた実弟・信行(信勝)を殺していますが、この実行犯は恒興だったという説もあります。信長はもしかすると、実の弟よりも恒興を信頼していたのかもしれません。

尾張・犬山城主となる

若くして信長に仕えることになった恒興。信長の躍進とともに、彼も武功を重ねていきます。

永禄3(1560)年の桶狭間の戦いや、美濃攻略戦などに参戦。元亀元年(1570)年に行われた姉川の戦いでは、丹羽長秀とともに徳川家康の軍に加勢。そして朝倉の大軍を打ち破るという活躍を見せ、尾張・犬山城を与えられました。

木曽川と犬山城
木曽川と犬山城

また元亀2(1571)年の比叡山焼き討ち、それと前後して行われた長島一向一揆の戦いにも参戦。さらに天正元(1573)年には、室町幕府最後の将軍・足利義昭を追放した槇島城の戦いにも出陣しています。

信忠軍団入り

その後の恒興は、信長の嫡男・信忠の配下に入ることになります。織田家の大切な後継ぎですからね、側近にするなら信頼できる人物が良いということでしょう。

天正2(1574)年7月から行われた長島一向一揆殲滅戦では、恒興は信忠軍団(信忠が一隊の大将を務めた)として戦っています。その後、信忠軍団に与えられた役割は東美濃の防衛でした。これは東の武田勝頼に対する押さえのため。恒興は同年に武田方に奪われた明智城の押さえとして東美濃の小里(おり)城に入っています。

そのため、翌天正3(1575)年5月の長篠の戦いには従軍していますが、同年8月の越前一向一揆には参加していません。信忠軍団は変わらず、武田の押さえとして東美濃・岩村城包囲戦に参戦していたのです。

※参考:信長軍の主な合戦マップ。青マーカーは信長の居城

このように、長いこと信忠軍団の一員として働いていた恒興。本能寺の変で信長が倒れたとしても、信忠が生きてさえすれば、良い待遇を受けていたのかもしれません。

「とのぉーーー! なぜ死んでしまわれた!?」と言ったとか言わないとか。(笑)

摂津国を領する

さて、織田の軍事組織は次第に変化し、「方面軍」ともいうべき“大軍団”へと成長していきました。天正4(1576)年以降になると、

  • 北陸方面軍団(柴田勝家)
  • 大坂方面軍団(佐久間信盛)
  • 中国方面軍団(羽柴秀吉)
  • 幾内方面軍団(明智光秀)

などが成立。見るからに天下統一を目指したものですね。

一方、先ほど紹介した信忠軍団は存続しており、恒興もしばらくはそこに属していました。ところが天正6(1578)年、荒木村重の謀反(摂津有岡城の戦い)を機に信忠軍団を離れ、その後は遊撃軍として行動します。


そして天正8(1580)年、恒興は次男・池田輝政らとともに、村重の最後の砦・摂津花隈城の攻略に成功。この功績により、恒興は摂津国の支配を任されることになりました。なんだか割と、恒興の人生はうまくいっていそうな気がしません?

しかし、ここで聞き捨てならない情報を一つ。この年、佐久間信盛父子が本願寺攻めの怠慢などを理由に追放されています。信長はその際、19カ条の折檻状(お叱りの手紙)を突き付けたと言われていますが、その中に「恒興は少禄でありながら、花隈城を時間も掛けずに攻略して」と書かれていたのです。

佐久間信盛といえば、織田家の筆頭家老。というわけで、「恒興みたいなモンが手柄立ててんのに、お前らは何やってるわけ?」という趣旨のお手紙なわけです。恒興みたいなモン……つまり、この頃の恒興の身分は、決して高くなかったということですね。

なお、花隈城攻略後に恒興が拝領した摂津の領地ですが、具体的にどの程度の規模だったのかははっきりしていません。ですが『信長公記』によると、天正9(1581)年に行われた鳥取攻めの際、援軍要請を受けた摂津衆の大将が恒興となっていることから、摂津国の軍事指揮権は掌握していたものと考えられます。

その後も摂津の守備を任せられていた恒興。天正10(1582)年3月の武田攻めには参戦しませんでした。そして同年5月には、備中高松城で毛利軍と戦っていた羽柴秀吉の援軍に向かうよう、信長から命じられています。

ですが6月2日、本能寺の変が勃発。そのため、恒興がその援軍に向かうことはなかったのです……。


清須会議に宿老として参列

ということで、信長と嫡男・信忠が死にました。そして羽柴秀吉は、いわゆる「中国大返し」によって、すぐさま京へ。

一方、恒興はというと、秀吉の軍と合流して山崎の戦いに臨みました。信長の弔い合戦となったこの戦いで、恒興は5千の兵を率い、右翼部隊の主力として明智軍を破ります。

このような功績もあって、恒興は “宿老” として清須会議に参列することになります。

清須会議といえば、織田家の後継者と領地の分配を決めるために尾張の清須城で開かれた、歴史的にも重要な意味を持つ会議のこと。この会議は織田家の家臣なら誰でも出席できたわけではありません。

清須会議のイラスト

織田家宿老筆頭の柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、そして我らが(!?)池田恒興のわずか4名。およそ2年前までは “たいしたことないヤツ” 呼ばわりだった恒興が、なんということでしょう。ちなみに本来ならば滝川一益も出席する予定でしたが、あまりにも来るのが遅いので、会議は始まってしまいました。

この会議の中で、柴田勝家は信長の三男・織田信孝を後継者に推挙。これに対し羽柴秀吉は、信長の嫡孫で、まだ幼い三法師を擁立しました。

『絵本太閤記』清須会議で三法師を擁する秀吉
『絵本太閤記』清須会議で三法師を擁する秀吉

恒興と丹羽長秀が秀吉の支持に回ったため、三法師が後継者となります。さらに所領の配分においても、秀吉と勝家の立場が逆転……。これは、きな臭くなる予感がプンプンしませんか?

なお、恒興は清須会議によって、大坂・尼崎・兵庫の12万石を獲得。自身は大坂に移るとともに、嫡男・元助を摂津伊丹、次男・輝政を尼崎に配置しています。

さて、清須会議を機に対立し始めた秀吉と勝家。それ以降、織田家中も二つに分かれていきました。両者は周辺の諸大名らをも味方につけ、ついに武力衝突に至ります。天正11(1583)年に勃発した、賤ケ岳の戦いです。これに勝利したのは秀吉。一方の勝家は、北庄城で自刃しました。その後、勝家と結びついていた信孝も自害しています。

一方その頃、恒興はどうしていたのでしょう。彼は、賤ケ岳の戦いに参戦しませんでした。にもかかわらず、美濃国の一部を与えられて大垣城に入城。さらに同国内の岐阜城は、嫡男の元助が守備することとなりました。なんと!

小牧 長久手の戦いで討ち死に

勝家に勝利し、ますます勢力を拡大していく秀吉。それを警戒した信長の次男・信雄(のぶかつ)は、徳川家康を頼ることに。そして天正12(1584)年、「秀吉 vs 信雄・家康連合軍」という構図で小牧・長久手の戦いに発展します。

小牧・長久手の戦い
秀吉と家康が生涯において唯一衝突。広域の戦いとなった小牧・長久手の戦い。

この時、恒興がどちら側につくのか、その去就が注目されたといいます。信長とは幼い頃から一緒だった恒興は、普通に考えたら織田家側につきそうですよね。しかし秀吉は、この戦いに勝利したら、恒興に尾張一国を与えるという約束をしたといいます。

そんな条件に恒興は惑わされないぞ! 恒興はそんな義理を欠いた人間ではないのだ! と言いたいところですが、結局恒興は、秀吉側として参戦することになりました。しかもこれが、恒興の運命の分かれ目になろうとは……。

緒戦では、恒興はかつて城主を務めていた尾張犬山城に奇襲をしかけ、占拠することに成功。その後は家康の裏をかこうと、三河国への攻撃を考えます。そして羽柴秀次を大将とし、娘婿・森長可や三好信吉らとともに、恒興は三河攻略戦を開始したのです。

ところが、この策は家康側にすでに察知されており、長久手で家康家臣・榊原康政らに挟撃されます。そしてこの戦いで、恒興は嫡男・元助や森長可らとともに討死。享年49。恒興は家康家臣・永井直勝の槍を受けて、亡くなったと言われています。

まとめ

戦後、池田家の家督を継ぐことになったのは次男の輝政。彼が家康の次女・督姫との婚姻を結んだ際、直勝本人から当時の話を聞くことができました。その時、直勝の知行がわずか5千石であることを知った輝政は、「父の首にはたった5千石の価値しかなかったのか……」と嘆いたのだとか。

清須会議以外にも色々あった池田恒興の生涯、いかがでしたでしょうか。本当にこれから、というところで亡くなってしまいましたね。

他の有名な武将と比べたら、やはり地味な気もしますが、池田恒興は信長と兄弟のように育ち、信長から信頼された男だったのです。




【参考文献】
  • 太田牛一『現代語訳 信長公記』新人物文庫、2013年。
  • 谷口克広『尾張・織田一族』新人物往来社、2008年。
  • 谷口克広『信長軍の司令官 -部将たちの出世競争』中公新書、2005年。
  • 谷口克広『織田信長合戦全録 -桶狭間から本能寺まで』中公新書、2002年。
  • 谷口克広『信長の親衛隊 戦国覇者の多彩な人材』中公新書、1998年。

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  この記事を書いた人
犬福チワワ さん
日本文化・日本史を得意とする鎌倉在住のWebライター。 都内の大学を卒業後、上場企業の経理部門・税理士法人に勤務するも、体調を崩して離職。 療養中にWebライティングと出会う。 趣味はお笑いを見ることと、チワワを愛(め)でること。

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