【愛知県】犬山城(白帝城)の歴史 織田信長の一族が築城。天守は現存、国の史跡に指定

犬山城跡
犬山城跡
 江戸時代までに建造された現存する天守は12のお城しかありませんが、そのひとつが愛知県犬山市にある犬山城(いぬやまじょう)です。戦国時代は数々の武将たちがわずかな期間で入れ替わり城主を務めており、攻城戦も頻繁に起き、関ヶ原の戦いをはじめとする大きな合戦の際に重要な拠点であることを示しています。今回はそんな犬山城の歴史についてお伝えしていきます。

織田信長の一族によって築城される

 犬山城の起源は、文明元年(1469)に岩倉織田氏の織田広近が尾張と美濃の国境にある丘に砦を築いたのが始まりと伝わっています。

 織田信長の叔父にあたる織田信康がそれまで居城としていた木下城から移り改修。このときに現存する天守の2階までが建てられたとされています。犬山城は織田信長の一族によって築城されたのです。

犬山城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 信康は美濃の斎藤道三との戦いの中で討ち死にしたため、嫡男の織田信清が跡を継いで犬山城の城主となります。当初は信長の家臣として仕えていましたが、永禄5年(1562)に敵対関係となり、永禄8年(1565)には信長の軍勢に犬山城を落とされ、甲斐に逃亡しました。

 元亀元年(1570)には信長の乳兄弟である池田恒興が姉川の戦いの武功から城主となり、天正9年(1581)には信長の子である織田信房(勝重)が城主となっています。

 信房は天正10年(1582)の本能寺の変の際には兄の織田信忠と共に京都の二条城におり、明智光秀に攻められ討ち死にしました。

数年ごとに城主が入れ替わっていく

 信房が犬山城の城主となって以降のわずか20年の期間だけでも、なんと10人の武将が入れ替わりで犬山城の城主を務めています。平均すると2年ごとに城主が変わっていたことになるのです。ここまで頻繁に城主が変わることは珍しいです。

 信房亡き後は、織田信雄の家臣である中川定成が城主として入城します。ここで豊臣秀吉と信雄が対立。信雄は徳川家康と結び秀吉との小牧・長久手の戦いが始まります。定成は犬山城を留守にして伊勢に対陣していましたが、この隙を秀吉側の池田恒興が突いて木曽川を渡って犬山城を奇襲して落城させました。秀吉は一端犬山城に入り、加藤光泰を城主としましたが、和睦が成立したため、秀吉は信雄に犬山城を返還しています。

 信雄は家臣の武田清利を城主としますが、3年後の天正15年(1587)に土方雄良に城主を変更。しかし秀吉の怒りを買って天正18年(1590)に信雄が改易となると、その領地は豊臣秀次に与えられ、秀次の実父である三好良房が犬山城の城主となりました。

 翌年には良房は清洲城城主となったため、犬山城の城主には良房の次子である豊臣秀勝が就きます。ただし、秀勝は文禄の役の中で出陣中に病で亡くなったため、天正19年(1591)に良房の義兄弟である三輪吉高が城主となるなど、1年ごとに城主が目まぐるしく変わりました。

 文禄4年(1595)には秀吉家臣の石川光吉(貞清)が城主となります。このときに美濃の金山城の天守を犬山城に移築したという話が伝わっていますが、昭和になって天守の解体修理が行われ、分析調査された結果、移築されたものではなかったことが判明しました。

江戸期以降の犬山城

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前哨戦で東軍が犬山城を攻略。松平忠吉の家老である小笠原吉次が城主となります。慶長12年(1607)には徳川義直の家老である平岩親吉が城主となり、慶長17年(1612)には親吉の甥である平岩吉範が城代を務めています。元和3年(1617)に尾張藩付家老である成瀬正成が犬山藩初代藩主となり、以降9代に渡り成瀬氏が犬山城の城主を安定して務めました。

 明治4年(1871)、廃藩置県によって犬山城は愛知県所有となり、天守以外の建築物は取り壊されます。遺構の天守ですが、明治24年(1891)の濃尾大地震、昭和34年(1959)の伊勢湾台風によって大きな被害を受けてしまいます。なお、濃尾大地震の後の明治28年(1895)には、天守修理を条件に成瀬家に譲与され修復されました。伊勢湾台風後には昭和36年(1961)から昭和40年(1965)に解体修理が行われています。

 昭和10年(1935)には国宝に指定されていますが、平成16年(2004)まで犬山城は個人の所有となっており、この年に財団法人犬山白帝文庫に移管されました。また平成18年(2006)には日本百名城に選定されています。平成30年(2018)には犬山城跡として国の史跡にも指定されました。

 なお、犬山城は白帝城とも呼ばれていますが、これが江戸期に荻生徂徠が古代中国の白帝城にちなんで名付けたのが由来と伝わっています。また、亀甲城という別名もあります。

おわりに

 戦国時代の大きな合戦では奪い合いになった犬山城。これだけ攻城戦を経験しながらも、織田信康期に改修された際の天守が現存していることに驚きです。

 解体修理なども行われてはいるものの、おそらくあの信長もこの天守に足を踏み入れたことがあるでしょうし、秀吉もまた犬山城に入っていますから、まさに歴史を感じられる名所です。国宝に指定されている天守は国内にわずか5つしかなく、しかも犬山城の天守はその中でも最古の遺構です。そういった点においてもお城好きにとっては欠かすことのできないのです。

 犬山城は、戦国時代の緊迫した空気を味わうにはぜひ訪れたい場所のひとつです。

補足:犬山城の略年表

出来事
文明元年
(1469)
織田広近が犬山城の起源となる砦を築く
天文6年
(1537)
織田信康によって改修される
天文16年
(1547)
信康死後、織田信清が城主となる
永禄8年
(1565)
織田信長によって攻められて落城
元亀元年
(1570)
池田恒興が城主となる
天正9年
(1581)
織田信房が城主となる
天正10年
(1582)
織田信雄家臣の中川定成が城主となる
天正12年
(1584)
小牧・長久手の戦いで恒興が城を攻略し、豊臣秀吉が入城、加藤光泰が城主となる。信雄に返還し、武田清利が城主となる
天正15年
(1587)
土方雄良が城主となる
天正18年
(1590)
三好良房が城主となる
天正19年
(1591)
良房の子の豊臣秀勝が城主となる
文禄元年
(1592)
良房の義兄弟である三輪良高が城主となる
文禄4年
(1595)
石川光吉が城主となる
慶長5年
(1600)
関ヶ原の戦いで東軍が攻略し、小笠原吉次が城主となる
慶長12年
(1607)
平岩親吉が城主となる
慶長17年
(1612)
親吉の甥である平岩吉範が城代となる
元和3年
(1617)
尾張藩家老である成瀬正成が城主となる
明治4年
(1871)
廃藩置県によって愛知県所有となる天守以外は取り壊される
明治24年
(1891)
濃尾大地震で天守が半壊する
明治28年
(1895)
天守の修理を条件に成瀬家に譲与される
昭和10年
(1935)
国宝に指定される
昭和27年
(1952)
規制改正に伴い国宝に再指定される
昭和34年
(1959)
伊勢湾台風により天守が被害を受ける
昭和36年
(1961)
解体修理が開始される
昭和40年
(1965)
解体修理完了
平成16年
(2004)
財団法人犬山城白帝文庫の所有となる
平成18年
(2006)
日本百名城に選定される
平成30年
(2018)
犬山城跡として国の史跡に指定される


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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