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系図から見る池田恒興と、元助、輝政親子との意外に深い2代にわたる織田家とのつながり

池田恒興は、織田信長の乳兄弟です。信長と共に育って小姓から武将として仕え、恒興の息子たち、元助、輝政、2代にわたって信長に仕えました。

彼らが武将として有能であったのはもちろんです。しかし池田家は信長とはかなり近い親戚となっていたことは、意外に知られていません。
そしてその後も池田家は、武将としてだけでなく姻戚関係のコネで、100万石をゲット!? 江戸時代まで生き残ったと言えるのです。

ここでは知られざる池田家と織田家の関係を、系図から読み解いてみました。

1、父は滝川一益の叔父か

池田恒興の父は、一益の父の滝川八郎一勝と兄弟説があります。

恒興父は、元々滝川九郎範勝と名乗っていたが、姉妹の婿である滝玄蕃允恒元に子供がなく養子となり、滝三四郎恒利と改名し、将軍足利義晴に仕えたというのです。

しかし、その後、恒元に実子が生まれたので養子縁組を解消し、出家して尾張へやって来て後継ぎのいなかった池田六郎政秀という浪人の婿養子となり、正秀の娘と結婚して恒興が誕生したということです。
とはいえ、滝川一益も出身が不確か、伊勢の出身とか甲賀忍者説まであるので、恒興の父も由緒正しい出身でないことは確かでしょう。

2、母が信長の乳母、そして信秀の側室に

そして恒興の母は、1515年に池田政秀の娘として近江国か美濃国で誕生したとされています。
池田政秀の素性は、これまた不明ですが、母の戒名、命日などの記録に近江の池田六郎何某室とあるので、近江出身のようです。

恒興母は恒利と結婚して、恒興は1536年に誕生。この頃、当時3歳だった織田信秀の嫡男吉法師(信長)が、乳の出の悪い乳母の乳首を次々かんで困っていたのです。
そこで恒興母が推薦されて乳母となって後、ぴたっと吉法師のかみ癖がなくなったので、彼女は「大お乳(おおおち)」様と呼ばれて、織田家中から敬愛されたということです。

なお、恒利は2年後に亡くなり、恒興母は出家して養徳院を名乗ったのですが、なんと信長の父信秀の側室となって、信長の妹で小田井殿(栄輪院)を出産。この信長の妹は、織田一族に嫁いでいます。

養徳院は、信秀の没後も信長から知行150貫を与えられ、恒興が小牧長久手の合戦で戦死した後、豊臣秀吉からも慰めの手紙をもらった上に、800石の隠居料を与えられたので、織田家中で、なかなかの存在感があったのではないでしょうか。

そして94歳の長寿を保ち、慶長13年(1608年)、孫輝政の播磨国姫路城で死去しました。

3、恒興の妻は信長の異母兄弟の未亡人

恒興は、幼少の頃から信長の小姓として仕え、桶狭間の戦いから、美濃攻略、そして姉川合戦での功績で、犬山城主1万貫を領しました。

その後も比叡山焼き討ち、長島一向一揆、槙島城の戦いなどに参陣、天正8年(1580年)には信長を裏切った摂津花隈城の荒木村重を破って、その旧領をゲットしました。

恒興の正室は、信長の異母兄弟の信時の未亡人、荒尾善次の娘です。信時の娘を連れての再婚は、信長の命令だったようです。

この結婚で、長男元助、次男輝政、3男長吉、4男長政が生まれました。幼い頃は、信長の息子たち、信忠や信雄、信孝らの遊び相手にされたかもしれません。

恒興の長男元助、次男輝政は、天正8年(1580年)の荒木村重討伐で父と共に活躍し、信長から功績を賞賛されて名馬を賜り、翌年の馬揃えでは、父の名代として輝政と共に馬揃えに摂州衆として参加し、天正10年(1582年)の甲州征伐にも兄弟で従軍しました。

4、長男元助の正室は塩川長満の娘

長男元助の正室は、斎藤義龍娘、伊勢貞良娘、継室が塩川長満の娘で、ふたりの息子が生まれました。この塩川長満のもうひとりの娘は、信長の嫡男信忠の側室として三法師丸を産んでいます。

そういうわけで、元助は、信長の嫡孫三法師丸の義理の叔父ということになるのですね。

5、本能寺の変、そして清須会議での池田家は

天正10年(1582年)の本能寺の変がぼっ発時、恒興ら親子は摂州にいました。
そして中国大返しで機内へ帰って来た秀吉と合流、父恒興は、次男輝政も秀吉の養子にする(すでに3男長吉が秀吉の猶子となっていた)と約束し、同盟を組んだのです。

恒興は出家して勝入と号し、長男元助は紀伊守の称を継承して池田家を継ぎ、秀吉に従い、山崎の合戦で明智光秀に勝利したのでした。

その後、清洲城で行われた織田家の将来を決める会議では、織田家家臣、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人が集まり、秀吉が三法師丸を抱っこして、我が物顔で上座に付いたという話があります。

それができたのは、三法師丸と縁戚である池田家と同盟を組んでいたから、と言えなくもないですね。

※三法師を擁する秀吉~清洲会議の一場面(絵本太閤記)
秀吉が行った京都大徳寺で信長の葬儀では、輝政は信長の4男の羽柴秀勝と共に信長の木像の入った棺を担いだのも、秀吉の養子というだけでなく、織田家と深いかかわりのある池田家の人間だからでしょう。

なお、清須会議で父は大坂、尼崎、兵庫12万石をゲットし、父が大坂に、元助が伊丹城、輝政が尼崎城に入りました。

まとめ

この前、さる歴史もののテレビ番組で恒興のことを「信長と同じ乳母だった」と言っていましたが、母が信長の乳母だっただけでなく、信長の父の側室で妹を産んで織田家の一族になった、そして織田家の嫁だった人を嫁にもらい、息子は信忠の側室の妹と結婚して三法師丸の叔父になっていたのです。

池田家が2代にわたって信長の側に仕えたことだけでなく、何重にもわたる縁続きの親戚となっていたことは、けっこう重要なことではと思います。
池田家は、その後、秀吉に臣従して合戦に従軍したのですが、小牧長久手の合戦で、恒興と元助が戦死し、輝政が池田家を継承しました。

輝政の出世に関する結婚の話、元助の意外な子孫については、また機会があれば・・・。

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  この記事を書いた人
angelica さん
子供の頃からの歴史好きです。 特に、女性史と外国人から見た日本史に興味を持っています。 最近は、ネット検索でどこまでも系図をたどったり、 再評価された人物とか、新しい発見とかを見つけて 学び直すなど、改めて歴史を楽しんでいます。

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