「相馬義胤」滅亡と改易の危機を乗り越え、相馬中村藩の礎を築いた武将!
- 2021/09/08
小さな勢力の戦国大名ながら、最後まで生き残った例は数多くあります。東北地方における相馬義胤(そうま よしたね)もその一人です。
義胤は伊達家の支配下にあった相馬家を継承。領土争いになると周辺勢力を巻き込みながら、滅亡寸前まで戦い抜きました。
天下人の下では改易の危機を乗り越えながら、遂には相馬家の領地を安堵され、中村藩の礎を築きます。
義胤は何を選択し、どう戦って勝ち残ったのでしょうか。相馬義胤の生涯を見ていきましょう。
相馬家と奥州の情勢
伊達家の傘下である相馬家に誕生
天文17(1548)年、相馬義胤は、相馬家第15代当主・相馬盛胤の嫡男として生まれました。母は懸田義宗の娘と伝わります。幼名は虎之助と名乗りました。
相馬家は鎌倉時代の武将・千葉常胤の子・師常を家祖とし、相馬姓は相馬郡相馬御厨を継承したことに由来します。
父・盛胤の代における奥州の情勢は、伊達稙宗が政略結婚や養子縁組を駆使して周辺の勢力を取り込み、奥州の宗主として君臨していました。奥州探題の大崎家をはじめ、相馬家も稙宗の支配下にありました。
しかし、伊達家では稙宗と晴宗父子による対立により、伊達家中は二分化し、天文の乱(1542~48年)と呼ばれる内乱が勃発。周辺勢力を多く巻き込んだこの大乱によって、伊達家の支配力は低下していきました。
相馬家は伊達家と姻戚関係にありましたが、この乱をきっかけにのちに両家は長く対立していくことになるのです。
伊達家との領土争い
永禄3(1560)年、義胤は伊達稙宗の娘・越河御前を正室に迎えています。また、永禄6(1563)年に家臣の青田顕治らが謀反した際に初陣を果たし、これを見事に鎮圧しています。
永禄8(1565)年には、伊達稙宗が死去します。稙宗は没する前に、相馬家に伊具郡と宇多郡の返還を約束していました。しかし後を継いだ伊達晴宗がこれを拒否したため、相馬家は稙宗の隠居領をめぐって伊達家と争うことになります。
ちなみに、正室の越河御前は義胤と離縁して伊達家に戻りましたが、ほどなくして亡くなったと伝わります。
その後の各地を転戦。伊具郡と亘理郡において、伊達家と一進一退の攻防を続けますが、天正3(1575)年に名取郡で大敗。このとき義胤は討ち死寸前まで追い込まれています。
同4(1576)年、義胤は小野城主・長江盛景の娘を正室にし、同年の矢野目・冥加山の戦いでは今度は伊達輝宗に大勝を挙げました。
天正5(1577)年には、義兄でもあった伊達晴宗が死去。義胤は翌年に家督を相続し、相馬家第16代当主となりました。
天正9(1581)年、義胤らは大坪に出陣して伊達家と交戦。このとき、伊達家には初陣の伊達政宗がいました。相馬家は伊達家との戦で一進一退の攻防を展開。対陣中には義胤に嫡男・虎王(利胤)が生まれています。
子供が生まれながらも、義胤は自ら先頭を切って敵中に突撃して戦うなど勇猛に戦っていました。
伊達家と和睦
天正10(1582)年、佐竹義重や田村清顕らから使者が来訪。相馬家と伊達家の和睦の調停を図るものでした。
義胤は丸森城と金山城で戦いつつ、和睦交渉に応じます。
その後、政宗の義父・田村清顕は中村城下の長徳寺に自ら現れました。そこで伊達家へ金山と丸森を返還するという条件が提示されます。
天正12(1584)年ごろには、伊達家との和睦が成立。金山と丸森は返還されました。
このとき、相馬家側は和睦にある条件を取り付けています。四本松の大内定綱を攻める密約でした。
同年、田村清顕が大内領を攻撃。岩城常隆が田村家の小野城を攻めると、義胤は岩城領に攻め入ります。これにより、岩城軍は兵を引きました。相馬家と田村家は、父・盛胤が当主の頃から親密な関係にあったようです。
佐竹家の下で再び伊達家と戦う
政宗が伊達家の家督を相続後、輝宗が二本松義継によって殺害されるという事件が起きます。
政宗が二本松城を攻めると、義胤も田村清顕と共に援軍を派遣します。
しかしこのとき、常陸国の佐竹義重が二本松城を救うために北上。義胤は佐竹方に転じます。
人取橋の戦いでは、義胤は政宗の本陣に攻め込むという活躍を見せています。
天正14(1586)年、伊達軍は二本松城を攻めあぐねます。
これにより、義胤に和議の斡旋が依頼されました。
和議によって二本松城は開城。伊達成実が城主となりました。
成実の正室・亘理御前は義胤の姪に当たります。再び伊達家との結びつきが強まるはずでした。しかし同年、田村清顕が病没。田村家中では伊達家と相馬家、どちらに味方するかで分裂します。
天正15(1587)年、田村家の仲介によって、相馬家と岩城家との和睦が成立。田村家の背後には、政宗がいました。
このころ、中央政界の動きが奥州にも及びます。
豊臣秀吉は既に九州を平定。東国や奥州に目を向けていました。秀吉は惣無事令によって、大名同士の私戦を禁じます。
佐竹義重は兵を動かせない一方、伊達政宗は惣無事令を公然と無視。周辺に軍事力を行使していきます。
同年には、相馬家にも惣無事令の遵守が命じられました。
宇多郡北部を失う
天正16(1588)年、大崎家中の争いに伊達政宗が介入。同時に会津の蘆名義広が伊達領に侵攻します。
義胤は月山城に出陣。伊達家から離反した石川弾正の援軍でした。さらに田村清顕の継室(義胤の叔母)の依頼に応じ、三春城占領を図りますが、伊達派の攻撃により断念します。
ここで田村家の相馬派家臣が、伊達派の重臣の祭祀を人質に取るよう進言しますが、義胤は「女子供を人質に取るのは恥」として、これを拒否します。
義胤は大森で亘理元宗と重宗親子を撃退後、岩城家の仲介により、蘆名家と伊達家は和睦。しかし伊達家の勢力は大きく伸びていました。
天正17(1589)年、伊達軍は飯土居の小屋林砦を攻撃。義胤はこの動きを読んでいました。
義胤は岩城、佐竹の連合によって田村領に侵攻。常盤城を落とします。しかしさらに伊達軍はこの動きを読んでおり、すぐさま駒ヶ嶺城と新地城を奪い取られてしまいました。
同年、蘆名家は政宗に敗れて滅亡。連合勢力の敗北は決定的となりました。
それでも義胤は戦を続行。父・盛胤と共に出陣し、一時占領された小屋林砦の奪還に成功しています。
小田原への参陣を決意
同年、義胤は旧領を回復すべく亘理重宗を攻撃。しかし重宗の正室(義胤の妹)が間に入ったことで、撤退しています。
しかし程なく、相馬家は五千の兵を中村城に集め、亘理勢と坂元犀ノ鼻で交戦状態に入ります。
やがて伊達家によって二階堂家が滅亡。岩城常隆も伊達家と和議を結んでしまいます。
相馬家の滅亡は、目前まで迫っていました。
しかしここで義胤達に救いの手が伸びています。
この頃、豊臣政権は小田原の北条家討伐を決定。相馬家にも参陣を求める知らせが入ります。
義胤は当時、伊達政宗と争った状況でした。和議を模索しますが、思うようにいきません。
伊達家はこの時、豊臣への対抗を考えていたともされます。
相馬家は駒ヶ嶺や新地城を攻めますが、いずれも敗北。
そのうち、政宗も小田原に進発。まもなく義胤は小田原行きを決意して関東に向かいました。
本領三郡を安堵される
天正18(1590)年、豊臣の大軍を前に北条家は降伏を余儀なくされ、小田原征伐は終了となります。
このとき、義胤達は小田原征伐に遅参したことで領地が没収される見込みでしたが、石田三成の取りなしによって処分を回避できています。
秀吉は戦後に宇都宮で仕置を発表。相馬家の三郡(宇多郡・行方郡・楢葉郡)の領地は安堵されることが発表されています。三郡の検地の結果、相馬家の石高が四万八千石に確定。秀吉からも朱印状が発行されています。
文禄元(1592)年、義胤は朝鮮出兵に従軍すべく、肥前国名護屋に参陣しています。慶長元(1596)年には、妻子とともに小高への帰還が許されました。
同年の虎王の元服に際しては、石田三成から偏諱を受けるなど繋がりが深いものでした。そして慶長2(1597)年、義胤は居城を牛越城に移転します。
関ヶ原では東軍として参戦
慶長3(1598)年、秀吉が亡くなります。
義胤は翌慶長4(1599)年に大坂を退去して小高へ帰還しました。嫡男の利胤は大阪に残しています。
既に水面下では、徳川家康と石田三成の政争が始まっていました。
慶長5(1600)年には、全国に緊張状態が増大。このとき、義胤は国境の警備を固めています。一方で政宗の相馬領通過は認めるなど、早くから東軍としての行動を意識していました。同年の関ヶ原の戦いでは東軍の立場として行動しています。
慶長6(1601)年、相馬軍と伊達軍は共同して二本松に夜襲。月夜畑の戦いと言われる戦いです。この年、義胤には次々と不幸が襲っています。弟の郷胤、利胤の正室・江戸崎御前、父・盛胤が相次いで亡くなりました。
改易の危機を乗り越え、相馬中村藩の礎を築く
慶長7(1602)年、関ヶ原で西軍に与した佐竹義宣が常陸国を没収され、秋田への減転封を命じられました。
佐竹家の与力である相馬家も、これに連座して改易が決まります。しかし相馬家側から改易の撤回を求める使者を派遣。先年の月夜畑の戦いにおける戦死者名簿を提出して、所領安堵が果たされています。
同年には、徳川秀忠の養女が嫡男・利胤の正室となりました。また、翌慶長8(1603)年には再び小高城を居城とします。
慶長16(1611)年、会津地震、次いで慶長三陸地震が発生。義胤は震災に対応するため、居城を小高城から中村城に移転します。
城下町の再構築を行い、海岸線に松林を植えるなど震災復興対策に尽力しています。
慶長17(1612)年、義胤は家督を嫡男の利胤に譲って隠居。泉田に居を構えます。
慶長19(1614)年、大坂冬の陣が勃発。この時は利胤が出陣しますが、翌年の夏の陣には、義胤が途中から出陣しています。利胤が発病したためでした。
寛永2(1625)年、利胤は先立って病死。孫の虎之助が二代藩主となります。義胤は後見役として藩政を執る立場となりました。
寛永12(1635)年、義胤は世を去りました。享年八十八。
遺体は遺言により甲冑着用の上で武器を持たされ、かつての宿敵・伊達家の領地の方角である北向きに埋葬されたと伝わります。
【主な参考文献】
- 森鎮雄 『戦国相馬三代記』上・下 あぶくま企画出版 2005年
- 福島県 『福島県史 第7巻(資料篇 第2(古代・中世資料))』 1966年
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄