「早川殿」今川氏真の妻ゆえに? ──戦場から徒歩で逃げだす災難を経験した激動の人生

早川殿の肖像(個人蔵。出典:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E6%AE%BF" target="_blank">wikipedia</a>)
早川殿の肖像(個人蔵。出典:wikipedia
戦国時代で有名な同盟の一つに三国同盟があげられるでしょう。武田氏・今川氏・北条氏の三大名によるこの同盟で、武田氏は信濃方面に、今川氏は三河方面に、北条氏は対上杉・里見等に、とそれぞれが戦力を集中できるようになりました。

 この三国同盟の要となる婚姻関係の中で、最も激動の生涯を送ったのが今川氏に嫁いだ早川殿(はやかわどの)です。北条氏の姫でありながら今川氏の凋落の中で住む場所を転々とし、のちに北条氏も滅んだことで、結果的には嫁ぎ先と実家の両方が滅ぶという憂き目に遭っています。

今回はそんな早川殿について、史料上で見える様子を中心に考察していきたいと思います。

北条氏の姫として生まれる

 早川殿は北条氏康の四女(諸説あり)と言われています。母親についても諸説あり、側室の子という説と氏康正室の瑞渓院(今川氏親の娘)の娘という説があります。北条氏政の姉とも妹とも言われており、詳細な生年は不明です。瑞渓院の娘であるならば、のちに嫁ぐ今川氏真とは ”いとこ” 関係ということになります。

 『寛政重脩諸家譜』の年齢を元にした場合、氏政の姉ならば天文7年(1538)以前の生まれとなり、天正7年(1579)生まれの四男・澄存を40歳以上の高齢出産したことになります。妹ならばこの点は問題なしとなります。

 初産が永禄10年(1567)で、輿入れが天文23年(1554)、今川への人質に入った北条氏規の年齢などを考慮すると、氏政の妹で天文10年(1541)〜天文14年(1545)頃の生まれというのが妥当かと思われます。

三国同盟と輿入れ

 早川殿の輿入れは三国同盟の成立を実質的に決定づけるものでした。天文23年(1554)7月に輿入れが行われ、氏真と早川殿は夫婦関係となったのです。この時点で武田義信と今川義元の娘・嶺松院との婚姻は成立しており、同年12月に武田信玄の娘・黄梅院と氏政の婚姻によって三国同盟は完成したことになります。

※参考:三国同盟による婚姻関係の略系図
※参考:三国同盟による婚姻関係の略系図

 氏政が遅れたのは本来の相手である兄の新九郎氏親が病死したためで、新しい嫡男となった氏政が元服するまで待ったためでした。そのため、早川殿の輿入れが事実上の三国同盟の成立と考えられることが多いです。

 三国同盟は各大名家に大きな恩恵を与えました。北条氏は関東の支配確立と対立していた武田・今川両大名との融和が進みました。今川氏は義元の家督相続後不安定だった領内が安定し、三河・尾張方面に戦力を集中できるようになりました。武田氏も後方が安定し、信濃で上杉謙信との勢力争いに集中できる環境が整いました。

 これらの同盟の要となったのが三人の姫であり、早川殿はその中では最年少だったと判断されます。氏真と早川殿がいとこであるという説は輿入れの年齢が早いことからも傍証されており、血縁だから早期に嫁いでも問題なかったのではないかと言われています。

 輿入れの際は今川が三島まで出迎え、氏康は輿入れに銭667貫と紙8駄(馬8頭で運べる量)の物資を用意したと言われています。当時の年収がおよそ2.5貫と考えると、単純計算で一般男性の収入の約270倍を輿入れだけで使用したことになります。現在で言えば約11億円といったところでしょうか。それだけ重要だったということがわかります。

 『勝山記』によると、武田信玄の娘・黄梅院が氏政に輿入れした際も小山田信有率いる騎馬3000騎、総計1万人が随行したと言われています。各大名家にとってこの同盟がどれだけ重要だったかが伺えます。

桶狭間合戦で人生が暗転

 氏真は文書の発給などもなく、義元も年齢的に家督を譲るのは当分先だと考えていたことが推測されます。しかし、そんな氏真と早川殿の状況を一変させたのが永禄3年(1560)の桶狭間の戦いでした。今川氏の支配体制を揺るがすことになったこの合戦は、当主義元だけでなく、重臣も多数討死。夫である氏真は自身も経験がない中で若い家臣と家中をまとめることになったのです。

 氏真には災難が続きます。翌永禄4年(1561)4月には松平元康こと家康が今川氏から独立します。家康の正室は築山殿であり、今川重臣である関口氏純の娘です。関口氏純は今川氏の血縁であり、母親は堀越今川氏の女性です。松平氏の当主であり、今川氏の血縁としてかなり重要な女性を正室に迎えた家康は、本来ならば西三河のまとめ役になるはずだったのです。

 さらに三国同盟の一角である武田氏も不穏な動きを見せ始めます。永禄6年(1563)に今川氏を離反した遠江の松井氏や堀越今川氏に武田氏が接触していたことが分かっています。また、その少し前にあたる永禄5年(1562)には武田家臣の穴山信君と氏真の書状から、今川氏が三河を共同で攻めようとした形跡があります。

 しかし、武田氏はこれを何らかの理由(恐らく書状の内容から上杉が攻めてきたこと)で断ったようです。氏真は年不明6月の書状で信玄宛に「初秋(7月)には三河に向かって出馬するので、兼ねての約定通り助力を」という書状を出しています。これを大石泰史氏は永禄5年(1562)と指摘しています。これが正しいとすれば、武田信玄はこの年(1562)の時点で、既に今川氏真を見限っていたのかもしれません。

徒歩で掛川へ逃げることに

 そして翌年には遠江の切り崩し工作を開始し、永禄8年(1565)には氏真の妹・嶺松院と婚姻していた信玄の嫡男・武田義信が甲府の東光寺に幽閉されました。嶺松院は離縁されたとも伝わりますが、この出来事をもって事実上三国同盟は崩壊したと言えるでしょう。早川殿はそうした中での永禄10年(1567)に長女を生んでいます。

 永禄11年(1568)、信玄は家康と同盟を結び、駿河侵攻を開始しました。同タイミングで家康も遠江に侵攻を開始し、今川氏は窮地に陥ります。氏真は駿府を守れないと判断して、遠江の掛川城(静岡県掛川市)まで撤退。この際、信玄は北条家の娘である早川殿への配慮をしなかったため、早川殿は輿などの用意もなく、徒歩で掛川に逃げることになりました。

 これに激怒したのが実父である北条氏康でした。当初、北条氏は武田氏から「上杉と今川が協力している」と説明されて小規模な援軍を送るのみとしていましたが、娘がうけた徒歩による移動という屈辱的な仕打ちに反武田を明確にします。氏康は長年の敵である上杉謙信と和睦し、越相同盟を結成して今川を支援し、信玄と対立することになるのです。

 一方、掛川に撤退した氏真と早川殿には家康の攻勢が迫っていました。しかし氏康が家康と交渉し、信玄への不信感が強かった家康は人質時代の友人だった北条氏規を担当として北条氏と同盟を締結しました。永禄12年(1569)5月、氏真は北条氏の預かりとなり、早川殿と2人で沼津に移りました。

 その後の氏真は大平(静岡県沼津市)に築城し、ここで武田氏と戦うようになります。妊娠していた早川殿は小田原近郊の早川郷に滞在し、そのまま翌元亀元年(1570)に嫡男・範以を出産しました。「早川殿」という呼び名はこの時期からのものです。

最後まで氏真に寄り添い続けた早川殿

 氏真はなんとか武田氏から駿河を取り戻そうとしましたが、元亀2年(1571)に北条氏康が死去すると状況が変わります。後を継いだ北条氏政は武田氏との同盟を復活させ、駿府を取り戻すことはできなくなったのでした。その後、元亀3年(1572)5月に氏真は父・義元の13回忌法要を早川郷で行っています。早川殿もこれに参加しています。

 駿府を取り戻せなくなった氏真は居心地の悪くなった小田原からかつての縁戚にあたる家康を頼ることにしました。義元の法要から天正元年(1573)8月までの15カ月の間に、家族とともに家康の居城・浜松に移住しています。この際、大平城まで付き添った朝比奈泰朝ら家臣とも別れています。

 その後、天正10年(1582)の武田氏の滅亡とともに家康が駿府を支配下に治めます。氏真は駿府の再建が終わった天正14年(1586)に家康とともに駿府に移住しています。この途中である天正4年(1576)に次男の品川高久が誕生しています。そして天正7年(1579)には四男の澄存が、その間の2年間で三男の西尾安信も生まれています。今川夫婦にとって、比較的落ち着いた時期だったことが推測されます。

 天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めで北条氏が滅亡します。これによって家康が関東に移封となると、氏真と早川殿は京都に移住しました。その後、次男の高久は慶長3年(1598)から家康に仕え、品川に住むようになって品川高久を名乗るようになりました。慶長12年(1607)に嫡男・範以が死去し、高齢の2人を世話する身近な人がいない上に未元服の孫がいる状況となりました。

 そのため、氏真と早川殿は慶長17年(1612)までに次男のいる江戸・品川(東京都品川区)に移住。ここで孫の養育をしていたようですが、早川殿は慶長18年(1613)2月15日に亡くなりました。法名は諸説ありますが、蔵春院殿までは共通しています。

おわりに:早川殿の子孫は?

 早川殿と氏真の間には4男1女が生まれています。嫡男の範以は両親よりも先に他界していますが、範以の嫡男に文禄3年(1594)生まれの今川直房がおり、そのまま高家今川氏として500石の家禄で江戸幕府に代々仕えました。ただ、短命の当主ばかりで、苦難の時代が続きました。

 次男の品川高久は関ヶ原の合戦以前から家康に仕え、関ヶ原の合戦後に上野国碓氷郡に1000石の所領を与えられています。両親を品川に迎えた後に徳川秀忠の意向で品川を名乗るようになりました。その後、子孫は高家旗本として高家今川を継いだり、上総佐貫藩に養子入りしたりしています。

 三男の西尾安信は伝十郎という名が『寛政重脩諸家譜』に記されていますが、詳細は不明です。

 四男の澄存は聖護院門跡の元で修行し熊野若王院別当として京都に在住していました。氏真と早川殿が京都に在住していた時は2人を支援していたと思われます。修験道本山派の重鎮として活動し、承応元(1652)年に73歳で死去しました。早川殿の菩提寺を建立したのも澄存となります。


【主な参考文献】
  • 「山梨県史 資料編」(1999年)
  • 「静岡市文化財通信 第9号」(2012年)
  • 大石泰史『今川氏滅亡』(2018年、角川書店)
  • 小和田哲男「今川家臣団崩壊過程の一駒― 「遠州忩劇」をめぐって」『静岡大学教育学部研究報告. 人文・社会科学篇』(静岡大学教育学部、1988年)
  • 小和田哲男「戦国期駿豆国境の村落と土豪 -「大平年代記」を通して-」『静岡大学教育学部研究報告. 人文・社会科学篇』(静岡大学教育学部、1981年)
  • 黒田基樹『戦国大名と外様国衆』(戎光祥出版、2015年)
  • 堀田正敦『寛政重脩諸家譜』(国立国会図書館デジタルアーカイブ)

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  この記事を書いた人
つまみライチ さん
大学では日本史学を専攻。中世史(特に鎌倉末期から室町時代末期)で卒業論文を執筆。 その後教員をしながら技術史(近代~戦後医学史、産業革命史、世界大戦期までの兵器史、戦後コンピューター開発史、戦後日本の品種改良史)を調査し、創作活動などで生かしています。

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