「どうする家康」甲斐の虎・武田信玄は駿河の今川氏真をなぜ攻めたのか?
- 2023/03/22
大河ドラマ「どうする家康」では、甲斐国の武田信玄が、駿河の今川氏真を攻める様が描かれていました。では、なぜ、信玄は今川領に攻め入ったのでしょうか。元来、甲斐国の武田氏、駿河国の今川氏、相模国の北条氏の間には、いわゆる「三国同盟」が結ばれていました。しかし、桶狭間の戦い(1560年)で、今川義元が織田信長に討たれて、今川家に代替り(義元から今川氏真)が起こると、徐々に、武田家と今川家との関係にヒビが入り始めます。
永禄8年(1565)、武田信玄は織田信長と同盟を結ぶことになりますが、信長の養女が、信玄の4男・武田勝頼に嫁ぐことになります。一方、信玄の嫡男・武田義信は、今川氏真の妹を正室に迎えていました。今川氏にとって、織田氏は義元を討ち取った憎むべき相手。その織田信長と手を組もうとする信玄に、嫡男・義信は反発します。義信に同調する武田家臣もいて、家中は分裂。最終的には、義信方の飯富虎昌が粛清 され(1565年)、義信も幽閉(後に病死)されることで、信玄派の勝利に終わります。
こうした信玄の動きに、当然、今川氏真は不信感を抱きます。そんな氏真が取った行動は、信玄の宿敵である越後国の上杉輝虎(謙信)と接近することでした。今川と上杉の交渉は永禄10年(1567)頃からスタートしたようですが、両者は「裏切りや隠し事はしないこと」「事態によっては上杉輝虎は信濃国に出兵すること」「信玄から謀(はかりごと)の書状が届いたら知らせること」などの「密約」を結びます。
ところが、今川と上杉の接近は、やがて信玄の知るところとなります。今川氏真は上杉輝虎と結び「信玄滅亡の企て」をしている。信玄にとって、氏真の行動は、駿河侵攻の良い口実となったのでした。永禄11年(1568)12月上旬、信玄による駿河侵攻がついに開始されます(第一次駿河侵攻)。
前もって、信玄の調略が行われていたこともあり、今川の諸将は、武田に味方。今川氏真は出陣するも、諸将の裏切りにより、駿府に引き返す しかありませんでした。12月13日、武田軍は易々と駿府に入ります。氏真は、掛川城(掛川市。朝比奈泰朝が城主)に逃れることになるのです。氏真は北条氏康の娘(早川殿)を娶っていたが、妻の乗り物も用意できないほどの慌てぶり、逃亡劇であったと言います。早川殿の父・北条氏康はこの有様を「恥辱」として怒ったとのことです。
そして、娘の嫁ぎ先(今川家)を支援するために、軍兵を派遣、武田軍と激突。北条氏の今川への加勢は、信玄の駿河制圧の動きを鈍らせます。信玄の駿河侵攻に呼応するように、今川領(遠江国)に攻め入ったのが、三河の徳川家康でした。
信玄と家康── この時、両雄は提携し、今川を挟撃しようとしたのです。
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄