今川義元の敗死後に没落していった名門今川家。気になるその子孫は?

桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市栄町南舘11)にある今川義元の墓
桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市栄町南舘11)にある今川義元の墓
 今川義元と言えば、お歯黒付けた公家みたいな大名というイメージが先行し、それ故桶狭間にて織田信長に敗死させられたという暗愚イメージが付きまとってしまっている感がある。

 その後継者の氏真にしても、義元の弔い合戦もできない軟弱者という評価はかなり根強く残っている。そのため、今川義元の血脈は「当然」絶えてしまったと思いがちである。しかしながら、義元は暗愚どころか名君であったし、氏真にしても言われるほど無能ではなかったことわかってきている。

 そして、彼らのDNAは、何と現代まで受け継がれているというのだ。今川家の真実とはいかなるものなのであろうか?

男子が少なかった義元

 義元には5人の子がいたが、男子は2人のみであった。そのうちの1人は後に家督を継ぐ嫡男氏真(うじざね)であり、もう1人は次男の一月長得(いちげつ ちょうとく)である。

 長得は名前からもわかる通り出家してしまったので、養子を取らないという前提であれば、事実上後継者は氏真のみということになる。

今川義元の略系図
今川義元の略系図

 「海道一の弓取り」と評された義元は桶狭間の戦いで、あろうことか討ち取られてしまったため、かなり評価を落としてしまった感がある。しかし、従来言われ続けてきた、「織田など取るに足らぬ」という油断によって今川家を衰退させた間抜けな大名という人物像は、最近の研究によって覆されつつある。

 まずは、桶狭間の義元の陣は「桶狭間山」に置かれたと『信長公記』にはあり、以前定説であった田楽狭間に陣を置いたという説は否定されている。さらに、織田信長は今川の陣まで真正面から行軍するよう指示していることから、奇襲であったという点も否定されている。

 義元が討ち取られてしまったのは悪天候(『信長公記』には「石水混じり」とあることから雹であった可能性もある)や、織田軍が午後1時頃という当時としては常識外の時間に、攻撃をしかけたことによる不運によるものという説が浮上しているのである。

 実際の義元は、隣接する武田信玄や北条氏康と互角に渡り合い、内政では合理的な統治を行うほどの実力者だったのだ。

 その義元が後継者として選んだのが氏真であるということを考えると、果たして「氏真は暗愚」という評価は妥当なのか疑問を感じるところではある。

氏真の実像とは

 前述したように、今川氏真の評価は正直言って悪い。松平定信の随筆『閑なるあまり』や『徳川実記』などでの評価は「柔弱な暗君」というイメージで共通している。また、『甲陽軍鑑』によれば、氏真は賢臣の意見を容れず家を滅ぼした愚かな大将と評されている。

今川氏真の肖像画
今川氏真の肖像画

 いずれにしろ、散々な言われようであるが、史料・文献によっては全く異なった評価が記されていることがわかる。

 綿谷雪・山田忠史編 『武芸流派大事典』によれば、氏真は塚原卜伝に新当流の剣術を学んだとされ、仙台藩の剣術「今川流」の開祖は氏真ではないかとも言われているという。このことから、少なくとも氏真の剣術の腕前は相当なものであった可能性が高いと思われる。

 また、和歌にも堪能で蹴鞠の名人でもあり、特に蹴鞠は信長の前で披露して称えられるほどの腕であったという。つまり、氏真は武将としての教育をしっかり受けた人物と言ってよいのではないか。

 合戦においても、氏真が特別失態を犯したという記録は見当たらない。領地経営についても、あの織田信長よりも早く楽市令を布くなど、革新的な一面も見せている。

 総合的に考えると、徳川家康などと比較すると見劣りするものの、戦国大名としての標準的なスペックは備えていたものと考えてよいのではないだろうか。

男子の多かった氏真

 武将としては一流とは言い難かった氏真であるが、「生き残る」ということに関しては超一流であったようだ。身の振り方が実にうまいのである。

 桶狭間で義元が敗死すると、武田に駿河を追われ掛川城に籠城するが、こちらも徳川家康の侵攻を受ける。氏真は堪らず、妻の実家である北条氏のもとに身を寄せる。その後、北条氏政が信玄と和睦すると、身の危険を察知した氏真は何と、かつて配下の将であった家康に庇護を求めたのである。

 戦国大名にとって生き残ることは、領土拡大に勝るとも劣らず重要なことであるが、氏真はこの点に関しては極めて優秀であったようだ。この辺り、どこか織田信雄と同じ匂いがすると感じてしまうのは私だけだろうか。

 そしてもう1つ氏真には有利な点があった。それは、男子が4人もいたということである。子供の数自体は父義元と同じ5人であるが、義元には男子が2人しかおらず、そのうちの1人は出家してしまったことは前述した通りである。氏真には男子が4人もいたお陰で、後継者に困らなかったのである。

 義元以降の今川家の略系図は以下のとおり。


 さて、まずは氏真の男子の系統を見てみよう。

今川範以の系統

 今川範以(のりもち)は氏真の嫡男である。父氏真が駿河を逐われ、小田原の北条氏の元に身を寄せていた元亀元年(1570)に生まれたとされる。その後、一時的に徳川家康の元に身を寄せるが、氏真とともに京都に移り住んでからは、冷泉家や山科家などの公家と親しく交際し、連歌の会などの常連であったという。

 範以は氏真に似て、和歌や学問に教養人であったようだ。しかしながら慶長9年(1604)4月、冷泉為満邸での和歌会を最後に、範以の消息ははっきりしなくなる。範以は慶長12年(1607)に京において、38歳の若さで病没する。

 範以には男子が1人おり、範以の死後は氏真に養育されたという。この男子が範英(のりひで)である。彼はのちに直房と名を改め、氏真の所領500石を継承し高家となる。

 直房は朝廷との交渉が得意で儀礼についての知識も豊富であったらしく、いくつかの功績を残している。
寛永13年(1636)4月には徳川家光が日光東照社に参詣するが、このとき直房は吉良義冬とともに衣紋の役を勤めたという。朝廷と関係が深い高家今川氏の当主として、宮中の作法をしっかりマスターしていた様子が窺える。

 また、徳川家康が死去した際に朝廷は東照大権現の神号を与えていたが、三代将軍家光は家康のさらなる神格化を狙って宮号宣下を朝廷に願い出ていた。ところが、朝廷は禁中並公家諸法度を定め、天皇および公家たちの締め付けを図った家康を快く思っていなかったらしい。

 そのこともあり、交渉は意外にも難航する。家光は朝廷と良好な関係を築いていた直房に目を付け、大老酒井忠勝とともに武家伝奏の菊亭経季(きくてい つねすえ)との交渉に当たらせたのである。

 家光の狙い通り、交渉は上手くまとまり家康の宮号宣下が実現し、直房は大いに株を上げることとなった。この功績により、直房は500石を加増され、1000石の家祿となる。直房は四代将軍家綱の時代にも活躍し、左近衛少将の位を与えられたという。

 戦国大名今川氏としては最大勢力であった義元ですら官位は従四位下治部大輔に留まっていることを考えると、破格の官位だと言ってよいであろう。

 その後、範以の血脈は14代氏堯で途絶える。氏堯は範以と氏真娘の両方の血脈を受け継いでいたが、子女はなかったためである。

品川高久の系統

 品川高久(しながわ たかひさ)は氏真の次男である。慶長6年(1601)、上野国碓氷郡内に1000石を拝領する。

 当初は今川姓を名乗っていたが、今川宗家は兄の今川範以が相続していたため、「天下一苗字」という徳川秀忠の意向に従い、姓を品川と改めたという。

 高久には男子が2人おり、長男高如(たかゆき)は高家旗本となる。一方、次男の高寛(たかひろ)は品川家分家を立て、旗本となる。なお、高寛の子・今川氏睦は前述の系図にあるように養子として高家今川家を継いでいる。

 品川本家は3代伊氏(これうじ)の時に、高家肝煎の役職を賜ったことで石高が1500石まで加増されたのであるが、これで今川宗家を超える石高というから驚く。なお、高家今川家の血脈は15代氏睦をはじめ、16代・17代は伊氏の子が務めるなど、途中から品川高久の系統となる。

 高家品川家は12代氏恒(うじつね)のときに明治維新を迎える。氏恒は慶応4年(1868)3月に高家職を辞したが、養子の銀次郎が跡を継いだという記録はなく、その後の消息は不明である。

明治時代まで続いた今川宗家

 代々高家として徳川幕府に仕え、江戸時代を生き抜いていった今川宗家。血脈をつないで23代当主・今川範叙(のりのぶ)のときに明治維新を迎える。維新後、範叙は新政府に従い、中大夫という身分となり、500両を賜ったという。

 ちなみに歴代当主の中で高家職に就いたのは、13代直房、15代氏睦、19代義泰、20代義彰、21代義用、23代範叙の6名である。他の当主は官位をもたない高家、いわゆる "表高家" であったらしい。

 明治20年(1887)に範叙は死去するが、嫡男淑人が早世していたため、ここに今川宗家は断絶する。ただし、直系は途絶えたものの、女系や傍系にも義元・氏真の血脈が幅広く受け継がれていることから、現在も多くの子孫がいるとみられている。

氏真の女子の系統は?

 氏真には女子が1人いて、長じて吉良義定(よしさだ)の正室となったとされる。この正室が産んだ義弥(よしや)が吉良家を相続するのであるが、義弥の孫が忠臣蔵で有名な吉良上野介義央(よしお)である。つまり、吉良上野介には義元の血が流れているということになる。

 さらには、吉良上野介の長男綱憲(つなのり)が米沢上杉家の養子として4代藩主となったため、義元の血は上杉家にも入り込んだというわけだ。この綱憲の娘である豊姫は秋月藩黒田家に嫁ぐが、彼女の孫が、かの有名な上杉鷹山である。

 上杉家に入った義元の血はその後も受け継がれ、現在の当主は17代邦憲(くにのり)氏だ。邦憲氏は宇宙工学者で、惑星探査機「はやぶさ」の開発プロダクトマネージャーとして知られる。

義元の傍系はどうか

 義元には兄弟が数名いたことが史料から確認できる。当初は長男の氏輝が家督を継いだものの、24歳という若さで死去する。病弱であったと言われているため、病死とされることが多いが、奇妙なことに次男彦五郎も同日に亡くなっていることから暗殺説も根強く残っている。

 義元を含む残りの男子もことごとく出家していたため、正室の子であった義元に白羽の矢がたったというわけなのだ。よって、義元の兄弟たちの子孫は残っていない。

 では、義元の姉や妹についてはどうであろうか。

瑞渓院(ずいけいいん)

 瑞渓院は生年が不明なため義元の姉であるか妹であるかは不明であるが、北条氏康の正室となったことは確からしい。瑞渓院は跡継ぎの氏政をはじめ、5人の男子に恵まれるがこのうち五男の氏規(うじのり)は豊臣秀吉の小田原征伐の後、許されて河内狭山城主となる。

 氏規の長男氏盛の代には1万1千石を拝領し、北条家は大名に返り咲いたのである。狭山北条家は明治維新以降も存続するが、11代藩主北条氏燕(うじよし)が他家から養子をとったため、義元の血脈はここで途切れる。

氏真の傍系はどうか

嶺松院(れいしょういん)

 嶺松院は氏真の妹である。天文21年(1552)に甲相駿三国同盟の一環として、武田義信と結婚したことが、武田家臣駒井政武の『高白斎記』に記されている。後に義信が廃嫡となったことで、駿府に戻されるが、義信との間には一女を儲けたのみで母娘共々出家したため、今川義元の血脈はここで絶えた。

あとがき

 私自身、今川義元が優秀な武将だったという話は、結構前から知ってはいた。しかし、凄みすら感じるほどの器量を持った武将だとまで感じるに至ったのは宮下英樹氏のマンガ『桶狭間戦記』を読んでからかもしれない。

 宮下氏は緻密な史料分析を積み重ねた重厚な歴史漫画の第一人者であるが、このような今川義元像は未だかつてなかったものだろう。義元がこのような武将であったなら、暗愚な者を後継者にはしないであろうという点からも、私の氏真に対す評価が変わったのである。

 さて、徳川家康は乱世がもう少々続くと判断したなら、誰を後継者にしたのだろうか。興味が尽きないところではある。


【主な参考文献】
  • 小和田哲男編『今川義元のすべて』新人物往来社 1994年
  • 小和田哲男『戦史ドキュメント 桶狭間の戦い』学研M文庫 2000年
  • 黒田基樹 『戦国 北条一族』 新人物往来社 2005年
  • 佐藤正英訳『甲陽軍鑑』ちくま学芸文庫 2006年
  • 戦国人名辞典編纂委員会編『戦国人名辞典』吉川弘文館 2006年
  • 宮下英樹『センゴク外伝 桶狭間戦記』講談社ヤングマガジンコミックス 2008年
  • 山田邦明 『日本史のなかの戦国時代』 山川出版社 2013年

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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