城や武家屋敷の瓦葺き・角材の利用はいつから? 戦国時代の建築
- 2022/08/11
安土桃山時代、信長の安土城築城のころから城郭に本瓦がよく用いられるようになりました。整然と並ぶ瓦は見事なものですが、戦国時代の武家の生活空間である屋敷のほうでは、大規模な建築であってもほとんど瓦は用いられていませんでした。また、大型建築に角材が用いられ始めたのも室町中期ごろ。
建築様式が寝殿造(主殿造)から書院造へと移り変わっていく時代、同じく屋根と用材も変化の途上にあったのです。
建築様式が寝殿造(主殿造)から書院造へと移り変わっていく時代、同じく屋根と用材も変化の途上にあったのです。
屋根の葺き方
日本に瓦が伝来したのは飛鳥・奈良時代ごろ。飛鳥寺など、当初は寺社の屋根に使用されていましたが、やがては都の宮殿にも用いられるように。しかし平安時代になると瓦葺きよりも檜皮葺の建築がぐっと増えます。災害が多い国であったのも一因とされています。また、同じ宮殿内であっても公的な場と私的な場では屋根も異なりました。天皇が暮らす私的な場である紫宸殿、清涼殿などは檜皮葺の屋根が用いられています。貴族の屋敷も同様でした。
檜皮葺
そういうわけで、寝殿造の流れにある武家の屋敷に使われていたのは基本的に檜皮葺の屋根でした。檜皮葺の屋根は、檜の樹皮を何層にも重ねてふきあげる日本古来の伝統的な工法で、大陸から伝来してきた瓦と違って、他の国では例がありません。国の重要文化財にもよく使われており、現在でも寺社仏閣で美しい檜皮葺の屋根を見ることができます(厳島神社、銀閣寺など)。
本瓦こそ丈夫で美しく、権力者は瓦葺きを好んだ、と思うかもしれませんが、檜皮葺の屋根はやわらかで重厚な美しさがあり、寺社や堂宇だけでなく武家の屋敷にも好んで採用されていたのです。
戦国時代から少し時代が下った江戸初期、たとえば書院造の大型建築・二条城の二の丸御殿は現在瓦葺き屋根ですが、創建当初は火を扱う台所や清所などのほかは檜皮葺だったのではないかと考えられています。
瓦葺き
対して、安土桃山時代から城郭には本瓦葺きが用いられるようになりました。これは信長の安土城築城(天正4年(1576年))からだと言われています。そもそも、瓦は高価なうえに重量があり、何重にもなる天守の屋根材としては不向きでした。七重天守の安土城に瓦を使用できたのは、それまでの瓦よりもかなり軽いものを作らせたから。ちなみに、安土城の軒瓦の前面には金箔が貼られていたそう。豪華絢爛だったことがうかがえます。
そのほか
瓦葺きが普及する以前の一般的な屋根材は、こけら葺き、草葺きなど。こけら葺きは「板葺き」「とんとん葺き」とも呼ばれます。小さく薄い板をふきあげ、石をのせて重石とすることもありました。金閣寺の屋根もこけら葺きが用いられています。また、草葺に使われるのは葦・茅・藁など。世界遺産の白川郷の合掌造は茅葺屋根です。
角材の登場
同じころ、その屋根を支える木材にも変化がありました。角材が登場したのです。それまでは「丸太」が使用されていた
室町中期ごろまでの日本建築では、主に「丸太」と呼ばれる丸柱が用いられてきました。奈良や京都の大きな寺社も柱を見ると丸柱であることが多いです。同じころの、中国の紫禁城なども同様でした。角材にする技術がないというわけではありませんでしたが、木材に楔を討って製材する方法は能率が悪く、広く普及することはなかったのだと思われます。
大鋸(おが)の伝来
中世の日本では木の葉形の鋸が主流でしたが、この鋸は木材に対して横方向から引く仕組みで、製材の能率は悪かったといいます。それが室町時代中期以降、中国から大鋸が渡ってきました。それまでの鋸に比べて大型で、二人がかりで木材をひく鋸。大きな丸太を縦に切断でき、その木材を手斧(ちょうな)や槍鉋(やりがんな)を使って角材にしました。瓦・板張りの一般への普及は近世以降
大鋸がもたらされたことにより、角材だけでなく平板の量産も可能になりました。これによって日本で急激に板張りの壁・床が普及しはじめ、一般にまで広まるのは近世以降です。そして板の間から畳へ。今日の「日本らしい」建築が完成されるのは、だいたい17世紀の江戸初期ごろを待たなければなりません。
【主な参考文献】
- 西ヶ谷恭弘『戦国の風景 暮らしと合戦』(東京堂出版、2015年)
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