「やあやあ我こそは!」戦における名乗りは戦国時代どう変化した?

戦では、武将が「やあやあ我こそは○○の住人、●●なり!~により~参った」といった感じで自分の名前や出身地、主君の名前などを大音量で名乗ってから切りかかるというルールがありました。

この暗黙の了解の作法はいつからいつまであったのか、どういう意味があったのかを紹介しましょう。

「名乗り」の役割

TVドラマなどで「やあやあ我こそは!」と戦場で高らかと名乗り上げるあの行為。現代的感覚からすると「そんなことしてる間に攻撃されるでしょ?」とツッコミを入れたくもなりますが、昔は武士の作法として広く行われており、名乗りの口上中は攻撃してはならないというルールがありました。

この名乗りにどんな役割があったのでしょうか?

実は大音量で自分の名前や出身地を名乗ってから戦うことで、戦場で誰が誰を討ち取ったのかを明らかにするという意味がありました。討ち取った相手が大物であるほど多額の恩賞を与えられるため、ちゃんと自分が討ち取った証が必要だったのです。

その証を示すだけなら短くてもいいのですが、長いものでは自分の姓名や出身地、主君、大義名分だけでなく、家系まで長々と語ったのだとか。

証拠づくりだけでなく、自分のこれまでの戦功や武勇を高らかに語って敵に知らしめ挑発したり、味方の士気を上げる役割もありました。

鎌倉時代ごろまでは主流だった

この名乗りは平安時代から鎌倉時代ごろまで主流でした。当時の戦は規模が小さく、大勢が入り乱れるようなことがなかったのも大きいかもしれません。戦の日取りを決め、両軍がそろってから戦の開始を宣言、軍の代表が前に進み出て名乗ったら戦を開始、という手順でした。先手必勝、というよりも武士の作法や誇りを守ることを大切にしていたわけです。

平安末期、源義経は度重なる奇襲攻撃で次々と勝利していきましたが、あれほど強かったのは当時の武士の決まりをことごとく破ったというのが大きいのです。義経の戦い方は奇襲戦で、海戦では武器も持っていない漕ぎ手(もちろん武士ではない)にも躊躇なく攻撃したとか。

源義経の肖像画(中尊寺所蔵)
源義経の肖像画(中尊寺所蔵)

こういう型破りな人物が現れたこと、戦い方が変わっていったことで戦のルールも変わっていきます。

元寇の際は文化の違う敵に一騎打ちを挑んだ

もうひとつ、武士のルールが通用しなかった例があります。元寇の際の戦いです。

これも笑い話として有名な話ですが、日本の武士たちは自分たちのルールに則って名乗り、一騎打ちをしようとしたが、蒙古軍はそんなのお構いなしに攻撃してきた、というもの。どこまで本当だったかは定かではありませんが、それを示すであろう資料があります。

歴史の教科書にも載っている有名な資料がありますよね。弓矢を持つ蒙古軍と、騎馬で挑む武将の絵。『蒙古襲来絵詞』または『竹崎季長絵詞』と呼ばれる絵巻ですが、ここに描かれている竹崎季長はおそらく騎馬で一人名乗りを上げて突っ込んでいったと思われます。勇ましく先駆けて飛び出したはいいものの、描かれているのは蒙古軍の大量の矢で血を流す姿です。

『蒙古襲来絵詞』文永の役で蒙古兵と応戦する竹崎季長
『蒙古襲来絵詞』文永の役で蒙古兵と応戦する竹崎季長

従来のやり方が敵に通用せず、苦戦したといわれる理由の一つです。

集団戦への移行で徐々に廃れる

上記のような理由のほか、室町から戦国時代にかけて戦のスタイルが随分変わってしまったことも、戦のルールの名乗りが廃れていった理由と考えられます。

鎌倉時代ごろまでは戦の規模が小さく奇襲戦が多かったのですが、徐々に集団戦へと移行していきます。人数が増え、鉄砲を使うようになり、戦の規模はどんどん大きくなっていきました。それだけ大規模になると名乗りの口上程度では誰が誰を討ったのかもはっきりしません。

また、鉄砲が主な武器となったことで、敵との距離も遠くなっていきました。もはや名乗り合うほどの距離ではなくなったのです。

戦国時代の名乗り

戦国時代には、一騎打ちで名乗りを上げるということはなくなっていったようですが、名乗りの文化は一応少ないながらも残っていたと思われます。味方の士気を上げたり、上司へのアピールのために行っていたようです。

首級や耳を持ち帰る

手柄を示す証としての役割の代用となったのは、首級です。

討ち取った敵の首を切り落として持ち帰り、主君に差し出したり首実検をしたりしてチェックし、恩賞を得ました。数が多い場合は耳を削いで首級の代わりとしました。少しでも恩賞を上げるために、討ち取った相手をそれなりの人物に見せるために首化粧を施す文化もありました。

戦国時代には実際に名刺を配った武将も?

番外編として紹介したい人物がいます。名乗りではありませんが、自分の名前を記した名刺を配り歩いた戦国武将がいました。それが塙団右衛門(ばん だんえもん/もしくは塙直之)です。

彼の出自はよくわかっておらず、不明な点も多い人物ですが、有名なのが旗印に自分の名前を書いて知らしめたとか、夜襲の際に名前を書いた札をばらまいたとかいうエピソードです。

塙 団右衛門(落合芳幾作)
塙 団右衛門(落合芳幾作)

大河ドラマ『真田丸』でも、大阪城内で会う人会う人に「塙団右衛門参上」という木札を配り、「こういう者です」と自己紹介するシーンが印象に残っています。

名乗りの文化こそ廃れていたのでしょうが、無名の武将はこうでもしてアピールしなければ出世できなかったともいえますね。

現代にも名乗りの名残が

さて、名乗りは戦国時代においても過去の産物であったことを紹介しましたが、実はこの文化は現代にも残っています。それが戦隊ヒーローモノや魔女っ娘モノの変身後の登場シーンです。

ヒーローの登場シーンのイメージ

仮面ライダーでも、プリキュアでも、変身しながら必ず名乗りますよね。そして敵はその間攻撃もせずにじっと待っている。これは戦の名乗りの口上を取り入れているとされています。

やはり変身して名乗っている間に攻撃されるのでは?と思ってしまいますが、これが日本アニメや戦隊もののお決まりのスタイルであり、一種の様式美なのです。こんなところにも武士のルールは残っていたというわけです。


【主な参考文献】
  • 西ヶ谷恭弘『戦国の風景 暮らしと合戦』(東京堂出版、2015年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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