情報伝達の手段「狼煙(のろし)」とは?

「狼煙(のろし)」とは、日本の軍事的合図方法として古くからあるものです。藁や芝などの植物に火をつけて煙を出し、それを遠方に合図を送る方法として使用。人が直接馬を走らせて手紙を運ぶよりも、視認するだけで素早く情報伝達をすることができるため、戦略でよく使われました。古代中国にもあった方法で、秦の始皇帝が築いた万里の長城にもそれらしい跡が見られます。

ただし、煙を上げるだけなので伝えられる情報量が少ないのが欠点。基本的には攻撃の合図を知らせるなど、単純な情報の伝達手段に使われますが、夜間は煙が見えないため、火そのものを代替手段として用いることがありました。

本稿では戦国時代にもかかせなかった狼煙の歴史についてみていきます。

日本では『日本書紀』の時代から

日本では、『日本書紀』に記述があることからすでに奈良時代には狼煙が利用されていたことがわかっています。

『日本書紀』の巻第27「天命開別天皇 天智天皇」の項目に、「於対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国等、置防与烽」という記述があります。「烽火(とぶひ)」というのが狼煙のことで、古来はこの名が使われていました。「対馬・壱岐島・筑紫の国などに、防人と烽火を備えた」という内容。天智天皇3年(664年)のことです。

内容を見るとわかりますが、どの地も西の国境にあたる地域です。対馬や筑紫などは朝鮮半島や中国と一番近い場所であり、ここに狼煙台を設置して防人を置いて入寇に備えたのです。火急の知らせを中央に伝える仕組みとして機能していました。

狼煙の名はいつから?

「狼煙」という字が使われるようになったのがちょうど中世の武家社会のころからです。鎌倉時代から南北朝までの戦乱を描いた軍記物語『太平記』にその記述が見られます。

巻第15の「東坂本責むべき評定の事」の項に、「奥州の国司北畠源中納言顕家卿の方へ、狼煙の時をたがへず攻め合はすべき……(後略)」とあります。別の巻にも狼煙の記述があり、民家を焼き討ちして合図としていたことがわかります。

狼のフンを使う狼煙

そもそもなぜ「のろし」を「狼の煙」と書くのでしょうか。これは、狼煙に狼のフンが利用されたからです。

古代中国のころから、狼のフンは煙がまっすぐ立ちのぼるということからのろしとして使われていました。ただ、排泄物とはいえ狼のフンは貴重なものです。これだけを燃やすのではなく、別のものと混ぜて使用していたようです。

なぜ狼のフンを使うとまっすぐ煙が上がるのか。それは狼が肉食動物であり、動物性たんぱく質を食料としていたことが理由であるとか。

風や雨、湿気など自然に左右され、正確に狼煙を上げるのは困難です。あちらこちらに煙がちりじりになってしまっては合図の意味を成しません。まっすぐ立ちのぼるという狼のフンは重宝したのでしょう。

ニホンオオカミが絶滅した今となっては確かめようもないことですが、狼のフンは時間の経過によって煙の色が変わるという話もあります。まだ水分を多く含むフンは赤っぽいとか、日数が経って乾燥したフンは白いとか。煙を上げるという単純な合図ですが、色にバリエーションがあれば伝達できる情報量も格段に多くなったのではないでしょうか。

狼のフンの色で合図を使い分けたかどうかはわかりませんが、燃やす燃料によって煙の色を変えることはあったようです。

狼煙台

源平合戦のころとは違い、戦国時代にもなると戦のスタイルはゲリラ戦より集団戦になっていきます。戦が複雑になり、それに合わせて合図も多様化していきました。笛、旗、鐘など。しかし、目視で遠方まで伝達できる狼煙は欠かせないものでした。

戦国時代の各地の城を見てみると、狼煙台を設置していた跡がある城が多いのです。戦に備え、領土内の各城には狼煙台が設置されました。場所としては、見渡しやすい峰の上などが適した場所として選ばれました。特に大規模な山城では欠かすことのできない設備だったようです。常設の狼煙台には交代で数十人が警護にあたり、遠方との連絡役を担っていました。

山梨にある武田の狼煙台
山梨にある武田の狼煙台

短時間で長距離を渡る情報

のろしは、人が馬で駆けるよりもずっと短い時間で情報を伝達できる手段でした。実際にどれくらいの時間でどこまで伝えられたかというと、武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いでは、上杉軍の進軍の知らせを海津城から信玄の住まう屋敷がある躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)までの距離をわずか2時間で伝えたとされています。

海津城があるのは現在の松代城で、長野県長野市。一方躑躅ヶ崎館は山梨県甲府市。隣り合う県ではありますが、156kmの距離があります。現代で車を走らせてやっと2時間で着くかという距離。当時は当然のことながら車ほどの速度の乗り物はないので、人馬では到底不可能です。

狼煙は、領地の各狼煙台にリレーのバトンを渡すようにして、このように短時間で遠方まで情報を伝えたのです。戦乱の世には欠かすことのできない武備でした。


【参考文献】
  • 西ヶ谷恭弘『戦国の風景 暮らしと合戦』(東京堂出版、2015年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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