江戸250年を経て、徳川家康の子孫・末裔たちはどうなった?

 徳川家康が開いた江戸幕府を大政奉還によって終焉させた最後の将軍徳川慶喜が、大正時代まで生きていたことは、慶喜ファンであれば知っていることであろうと思う。しかしながら、御三家をはじめとする一族についてはあまり聞いたことが無いのではないだろうか。

 今回は宗家だけではなく、御三家や御三卿などの末裔についても述べてみたい。

徳川宗家のその後

 徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開いて以来、その家系は「徳川将軍家」と呼ばれようになる。江戸幕府は三代家光の頃にその体制が盤石となったわけであるが、巧みな政策によって260年を超える長期政権を布いたことは、日本史の授業などでも触れられるメジャーな事実である。

15代目・徳川慶喜

 その最後の将軍が「徳川慶喜」。慶喜は以下、3つの点で他の将軍と際立った違いがあることで知られる。

  • 将軍に在任中、一度も江戸城に入城しなかったのは慶喜のみ。
  • 唯一水戸徳川家生まれの将軍であった。
  • 歴代将軍の中で最も長寿(77歳)。

 江戸幕府は15代将軍で終焉を迎えたわけであるが、慶喜がいったんは幕府軍を率いて挙兵したものの、その後は新政府に恭順して謹慎したため、かろうじて徳川家は存続を許されたとされる。

 一説によると、英国公使パークスが「恭順し、謹慎している慶喜を討ち取ることは万国公法に反する。」と圧力をかけたため慶喜に対する処分及び、江戸城総攻撃が見送られたという。ともかく、江戸城は無血開城となり徳川宗家は存続を許されたのである。

16代家達

 徳川宗家16代当主は家達(いえさと)である。慶喜の隠居後、御三卿の一つ田安徳川家から宗家の養子となった家達は、静岡藩70万石を新たな領地として与えられ、明治2年(1869)に静岡知藩事となる。

 廃藩置県により免職となった後に東京へ移住した家達は、イギリス留学を経て明治10年(1884)公爵を授けられる。

 明治23年(1890)帝国議会が開設されると貴族院議員となり、明治36年(1903)には貴族院議長となり、以後31年の長きにわたって貴族院議長の職にあった。

17代家正

 家達の嫡男である17代当主家正(いえまさ)は明治17年(1884)に生まれた。東京帝国大学法科大学政治科を卒業後は、外交官として活躍したという。公爵を授けられてからは貴族院議員となり、貴族院議長に就任してからは、貴族院が廃止されるまでその職にあった。

18代恒孝

 徳川宗家18代当主の徳川恒孝(つねなり)氏は、昭和15年(1940)会津松平家の一門に生まれた。程なくして恒孝氏は徳川宗家の養子となる。昭和38年(1963)、17代家正が死去したため、第18代当主として家督を継ぐこととなる。

 昭和39年(1964)、恒孝氏は日本郵船株式会社に入社し、以後当主としての務めと会社員としての職務を両立させる生活となった。日本郵船勤務時代には加賀前田家18代当主の前田利祐(まえだ としやす)氏と同じ部署だったことがあるそうである。その当時の上司は怒鳴ることで有名だった人物で、「前田!徳川!ちょっと来い!などと呼びつけたのは太閤以来、俺だけだ」と言っていたという逸話が残されている。

 2003年には「徳川記念財団」を設立。その理事長に就任している。

次期当主・家広氏

徳川恒孝氏はご健在であるが、長男の家広氏が次期当主となることが決定している。

 徳川家広氏は昭和40年(1965)、東京に生まれた。小学1年生から3年生までアメリカで過ごし、その後は学習院高等部を経て慶応義塾大学経済学部に進学する。卒業後は、ミシガン大学で経済学修士号を、コロンビア大学で政治学修士号を取得。NHK放映の『英雄たちの選択』などへの出演で知られる評論家宮崎哲弥氏は、慶応大学時代に同じゼミに属していた家広氏のことを「私の大学時代の親友」と述べている。

 現在は執筆活動や翻訳を行う傍ら、徳川宗家次期当主としての活動もおこなっており、その活動領域は文化活動やプロデュース活動にまで及んでいる。2019年1月には北海道知事選への出馬が期待されたが、残念ながら2月20日に出馬を断念したことは記憶に新しい。

御三家のその後

 徳川御三家は徳川家康が、徳川家が断絶しないよう一族をプールするために創設したものと言われている。
また、室町幕府の吉良氏・石橋・渋川氏を「御一家」とし、足利将軍家に跡継ぎが不在となった際に、家督を継承させた制度を参考にしたという説もある。

 徳川御三家となったのは尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家である。「御三家」と言いながら、将軍家が跡継ぎ不在になったときには尾張家か紀州家から養子を出すという慣例となっていたようである。

 さて、それでは徳川御三家のその後を見てみよう。

尾張徳川家

 徳川家康の九男義直を藩祖とする尾張徳川家は、石高62万石と御三家で最も多い石高を有していた。にもかかわらず、尾張徳川家から将軍が出ることはなかった。その理由としては、その後御三卿が創設されたことが大きいとされている。

 しかし、私は藩祖義直の「政治思想」がかなり絡んでいるのではないかと思っている。義直は死去する際に「王命に依って催さるる事」と遺言している。要は幕府と朝廷に諍いがあれば、天皇に味方するようにとの命令である。このことは秘伝として代々伝えられていたというが、幕府方はこの秘伝を知っていたのではないか。というのも水戸徳川家でも同様の家訓があったからである。

 水戸徳川家からは15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が出ているが、これは養子先である一橋家から将軍家に入ったのであり、水戸徳川家から将軍が出たわけではない。「勤王家」からは将軍を出さないという不文律があった可能性はある。

 尾張徳川家は大政奉還後の戊辰戦争では官軍につき、その後も一貫して新政府に協力し続けた。これは、「勤王家」であることはもちろんのこと、将軍を1人も出せず養子ばかり押し付けられた扱いに不満を募らせた結果のことでもあるらしい。

 尾張藩最後の藩主は16代徳川 義宜(よしのり)である。義宜と父の慶勝(よしかつ)は戊辰戦争の際、新政府軍の先鋒として江戸に向けて進軍したとされる。

 義宜が明治8年(1875)18歳で夭折すると、14代当主であった父慶勝が17代当主として返り咲いたという。

 18代当主・徳川義礼(よしあきら)の代の明治17年(1884)には候爵の位を授けられた。明治23年(1890)には貴族院議員となる。

 一時期、芸妓に入れ込むなどの不品行が旧尾張藩士たちの不評を買ったという話が残されている。やり付けない遊びにはまってしまったというところだろうか。名門の「武家」の価値観としては「けしからん」という気持ちもわからないでもないが、ご愛敬の範疇ではないかと私は思う。

 実際、その後義礼は明治33年(1900)名古屋に明倫中学校を設立するなど精力的に活動する。その功績により、明治39年(1906)には旭日小綬章を授与されている。

 19代当主徳川義親(よしちか)は越前松平家からの養子であった。父は幕末に四賢候の1人であった松平春嶽である。義親は愛知県の土地などの財産の処分を行い、昭和6年(1931)には財団法人徳川黎明会を設立する。財産整理・処分の名人であったらしく、徳川家だけでなく佐竹家などの家政整理にもかかわり、「投出しの尾張侯」「理財の天才」と称されたという。

 学究肌の人物としても知られ、大正7年(1918)に徳川生物学研究所、大正12年(1923)に徳川林政史研究所を設立する。「熊狩り」や「虎狩り」を好んだことから、「熊狩りの殿様」「虎狩りの殿様」と称されたことでも知られる。戦後は政治活動にも身を投じ、昭和31年(1956)に名古屋市長選に立候補するも落選している。

 長男の徳川義知(よしとも)は昭和51年(1976)に義親が死去すると第20代当主となる。義知は成人するとイギリスに留学し、帰国後は昭和10年(1935)東京帝室博物館、日本赤十字社を経て、昭和21年(1946)には財団法人徳川黎明会の会長に就任。昭和26年(1951)には日英協会の理事となり、その功績により、昭和42年(1967)英国女王エリザベス2世から名誉大英勲章を授与されたことでも知られている。

 21代当主は徳川義宣(よしのぶ)である。平成4年(1992)義知が死去したことにより家督を相続することとなった。昭和31年(1956)学習院大学政経学部経済学科卒業後は東京銀行を経て、平成5年(1993)には財団法人徳川黎明会会長となる。徳川美術館長にして美術家という肩書も持ち、旧大名家の家宝を精力的に収集したことでも知られる。

 現当主は義宣の長男徳川義崇(とくがわ よしたか)氏。学習院大学経済学部経済学科卒業後の平成5年(1993)徳川黎明会理事に就任する。2005年義宣の死去に伴い、義崇氏は徳川美術館館長、次いで22代当主となった。

 翌2006年には徳川黎明会会長に就任。2015年には徳川美術館のキャラクター「トクさん」がミュージアムキャラクターアワード第一位となるが、「トクさん」のモデルが義崇氏であることは有名である。

紀州徳川家

 家康の十男頼宣を藩祖とする紀州徳川家は御三家で唯一将軍を出している家系である。明治維新後は最後の藩主・徳川茂承(もちつぐ)が和歌山藩知藩事となる。

 明治11年(1878)には自己資金10万円を拠出し、徳義社を設立。貧困にあえぐ士族の援助や育成に尽力したことでも知られる。茂承は「武士たる者は、政府の援助など当てにせず、自らの力で自立しなければならない。」と語っていたという。

 明治17年(1884)侯爵を叙爵し、貴族院議員となる。16代当主・徳川頼貞(よりさだ)の代には、紀州徳川家は日本でも有数の財産家として知られていたという。頼貞は学業が得意でなく、学習院高等科を退学した後は家庭教師の指導による教育を受けた。

 一方で、実業の才には恵まれ、昭和8年(1933)3月には南葵産業を設立し、新興産業に続々参入し成功を収めるなど、その手腕を発揮する。ところが、金遣いの荒さも天下一品であった頼貞は中々その金銭感覚が改まらず、度々家財を売り払って危機を潜り抜ける始末であったという。

 そのような折に昭和恐慌が起こる。この恐慌の影響で、終戦前には紀州徳川家の財政は事実上破綻していたと言われている。さらに、戦後の昭和21年(1946)に実施された財産税課税によって、残った財産も処分せざるを得ない状況となる。

 一方で、政界への進出は順調に進んだ。昭和22年(1947)、第一回参議院選挙に立候補して、トップ当選を果たしたのである。

 17代当主徳川頼韶(よりあき)は42歳で早世。その際に実子がなかったため、義弟にあたる徳川剛が頼韶の母為子の養子となり、18代として紀州徳川家を継ぐこととなる。ところが、剛は妻の宝子(とみこ)が開いたレストランの経営に失敗し、徳川家を離籍後に消息不明となってしまう。

 現在は、徳川宜子(ことこ)氏が家督を継いで19代当主となっている。早くから建築に興味を持ち、文化学院で建築を学び、卒業後は大成建設に入社。1985年、石橋利彦と株式会社石橋徳川建築設計所を設立している。

水戸徳川家

 家康の十一男徳川頼房を藩祖とする水戸徳川家は代々「勤王家」として知られる。水戸藩最後の藩主は11代徳川昭武(あきたけ)である。

 明治維新後の版籍奉還により水戸藩知事となる。廃藩置県後の明治7年(1875)、陸軍少尉に任じられる。12代当主の徳川篤敬(あつよし)が42歳で早世すると、徳川圀順(くにゆき)が13代当主となる。

 明治39年(1906)には、2代藩主光圀が編纂を始めた『大日本史』がようやく完成し、明治天皇に献上したという。昭和42年(1967)、財団法人水府明徳会を設立し、初代会長となる。

 現在は、徳川斉正(なりまさ)氏が15代当主である。斉正氏は東京海上日動火災保険株式会社執行役員の職にある傍ら、徳川ミュージアム理事長などを務めている。

御三卿家のその後

 御三卿(ごさんきょう)とは、御三家とともに徳川の血筋をプールし、徳川将軍家の跡継ぎを絶やさないために創設された「家」である。実際には、御三家の後継者を輩出することも多かったようである。

田安徳川家

 田安徳川家は江戸幕府第8代将軍吉宗の次男宗武を家祖とする家系である。廃藩置県によって田安藩は廃藩となる。10代当主徳川 達成(とくがわ さとなり)は東京帝国大学出であり、日本海軍の技術補佐となったという。

 現在は德川宗英(むねふさ)氏が11代当主である。慶應義塾大学工学部卒業後、石川島重工業に勤める。1995年に石川島播磨重工業を退職した後は、著作家として活躍。多数の著作があることで知られている。

一橋徳川家

 一橋徳川家は江戸幕府8代将軍吉宗の四男宗尹を家祖とする家である。廃藩置県後は田安家同様廃藩となり、知藩事には任じられなかった。明治17年(1884)華族例により伯爵の位を授けられる。

 12代当主徳川宗敬(とくがわ むねよし)は東京帝国大学農学部出の林学者であった。昭和22年(1947)には森林愛護連盟を結成し、緑化運動に尽力したことでも知られている。

 現在は徳川宗親(むねちか)氏が14代当主である。

清水徳川家

 清水徳川家は江戸幕府9代将軍家重の次男重好を家祖とする家である。版籍奉還の際に当主不在だったため、清水藩は置かれなかった。

 7代当主徳川篤守(あつもり)は明治17年(1884)華族令により伯爵を授けられる。明治31年(1898)篤守は経済的に行き詰まり、債権者に訴えられたという。これが原因となり、翌年爵位を返上することとなる。

 8代当主徳川好敏(よしとし)は陸軍で航空分野を主導したことで知られ、この功績により男爵を授けられた。

 現在は徳川豪英(たけひで)氏が9代当主を務めている。

その他の末裔

 その他の系統としては越前松平家、会津松平家、越智松平家、高松松平家などがある。この中で現在の当主について確認できるのは、会津松平家や高松松平家など数家である。

おわりに

 江戸時代の最高権力者であった徳川氏だけに、その血統はしっかり受け継がれていることが確認できたと思う。1つ気がついたことは、学術的分野や著述において活躍している方が多いという点である。

 徳川家康はかなりの学問好きとして知られているが、やはりその血の影響は大きいのかもしれない。「初代の魂末代まで」と言ったところであろうか。


【主な参考文献】
  • 小田部雄次 『徳川義親の十五年戦争』 青木書店 1988年
  • 佐藤朝泰『門閥──旧華族階層の復権』立風書房 1987年
  • 本田靖春『現代家系論』文藝春秋社 1973年
  • 齋藤肇『大猷院徳川実紀(寛永元年)』 Kindle版 2019年
  • 『歴史REAL徳川一族500年史』 洋泉社MOOK 2018年

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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