家康の楯となり、討死した夏目広次(吉信)に忠誠の心を見る
- 2023/01/13
元亀3(1573)年末、家康の身代わりとなり、ひとりの武将が戦死した。三河以来の譜代衆家臣でありながら、一度は徳川を裏切ったものの、彼の忠心は徳川への帰参を可能にし、そして今、敵前から主君を逃がし、必死の防戦の末の死を迎えたのだ。
もし彼がいなかったら、徳川幕府は存在しなかったかもしれない。家康は、彼のために石碑を立てている。彼の名は、夏目広次(なつめ ひろつぐ)。
もし彼がいなかったら、徳川幕府は存在しなかったかもしれない。家康は、彼のために石碑を立てている。彼の名は、夏目広次(なつめ ひろつぐ)。
家康に仕える
夏目広次(なつめひろつぐ)が誕生したのは、永正15(1518)年。父は夏目吉久。広次は別名を「吉信」、通称を「次郎左衛門」という。夏目氏は、信濃国夏目村の清和源氏村上氏の流れを汲み、のち三河に移り、松平(徳川)に仕え、譜代衆となった。夏目広次が、松平家に仕え始めた頃、家康はまだ今川家の人質となっていた。しかし、永禄3(1560)年の桶狭間の戦いで、今川義元が敗れると、家康は今川家からの独立に向け動き出している。永禄4(1561)年、家康は三河長沢城を攻め落としているが、この時に広次は軍功を上げたとされている。
翌永禄5(1562)年、八幡村城攻めにおいて、今川氏の猛攻に合った家康側は、総崩れとなった。このとき広次は最も危険とされる殿(しんがり)を務め、敵を何度も踏みとどまらせるほどの働きを見せた。
この功績によって家康から名刀工備前長光の脇差を賜っている。彼は勇猛果敢な忠義者と認められたのだ。
三河一向一揆
三河国内にある今川方の城を次々と攻め落とし、ほぼ平定した家康は、永禄6(1563)年7月、今川義元から与えられた元康という名を改め、家康と名乗った。これで名実ともに、今川家からの独立を果たしたのである。ところがそれからわずか2ヶ月後、家康は思いがけない反乱にあう。三河一向一揆の勃発だ。当時の三河は、一向宗が盛んで、佐崎の上宮寺、野寺の本証寺、針崎の勝鬘寺(しょうまんじ)が、三河三ケ寺と呼ばれ、大きな勢力を持っていた。
今川からの独立を図っていた家康は、それまで優遇されていた一向宗の寺院に対し、特権を廃止し、支配を厳しくしようと考えていた。一向宗徒や一向宗寺院の家康への不満は、日に日に募り、ほんの少しのきっかけで暴発してもおかしくないほどに膨らんでいた。
三河一向一揆が、家康にとって大きな痛手となったのは、徳川家臣団にも多くの一向宗徒が存在していたことだ。夏目広次もその一人だった。一向宗の団結は、徳川家臣のそれに勝るとも劣らないほど強固なもので、徳川家臣から一揆側へ寝返った者も少なくなかった。
信仰を取るか、忠義を取るか
一揆側へ付いた家臣の中には、のち家康の腹心となる本多正信の他、蜂谷半之丞貞次、松平家次ら、そして夏目広次がいた。彼らは一揆勢として戦いながらも、忠義と信仰の板挟みに苦しんでいたのだ。この一揆は、激しい戦いが長期間続いたため、家康も戦場へ赴いていた。特に激戦となったのは、永禄7(1564)年正月11日の上和田の戦いである。徳川方が苦戦を強いられる中、家康は単騎、戦場を疾駆していた。そこで敵の猛攻にあい、たちまちのうちに危機に陥ってしまう。
一揆側にいながら、主君の危難を見過ごせなかった土屋重治という武士は「地獄に落ちても構うものか」と叫び、一命に代えて家康を救った。帰陣した家康が甲冑を確認すると、2発の銃弾が残っていたという。
槍の名手と言われた蜂谷半之丞は、戦場で家康の姿を見つけると逃げ出していたらしい。夏目広次が家康に遭遇したという史料はないが、やはり彼も主君への忠心捨てがたく、苦しんでいたに違いない。
捕らわれた広次
夏目広次は、乙部八兵衛らとともに、野羽城(一説には六栗城とも)に籠り、一揆勢として戦っていた。しかし、乙部が内通したため、徳川方の松平伊忠(これただ)軍が城内になだれこんできた。広次は捕らわれたが、乙部の助命嘆願によって一命は助けられ、以後は伊忠の付属となった。のち、広次は一揆以前の忠義を認められ、伊忠の嘆願により、正式に徳川への帰参が叶っている。同年7月3日、三河・遠江両国の郡代となった。
三方ヶ原の戦いにて
元亀3(1573)年、徳川家康は大きな危機を迎える。武田信玄との戦いである。信玄軍が雪崩を打って徳川領へ進撃してきたのだ。果敢に迎え討つ家康だったが、総勢2万7,000人を超える武田軍に対し、徳川軍は最大でも1万5,000人、実際には約8,000人だったと言われている。信玄の巧みな戦術により、三方ヶ原に誘い出されたような形で、戦は続いた。
以下は『寛政重脩家譜』をもとに意訳したものである。
夏目広次は、このとき浜松城を守っていた。しかし、味方が、そして主君が劣勢となる様子を目の当たりにし、直ちに騎乗、戦場を目指した。家康のもとへ行くと、夏目はすぐに退却するように進言する。だが家康は動かない。すでに討死を覚悟し、討って出ると言う。夏目は必死で言った。
「殿はまだ死んではなりません。殿が命を長らえさえすれば、いずれまた時が来ます。今はまず無事に帰城し、もう一度武運を開くのです」
それでも戦う姿勢を崩さない家康。夏目は主君の説得をあきらめた。馬から下りた夏目は、主君の馬の轡(くつわ)を持ち、叫んだ。
「私がここで敵を防ぎます。殿がどうしても討ち死にするというなら、私が代わりに討ち死に致します。どうか、どうかお逃げください」
家康の馬を強引に浜松城の方角へ向け、馬尻を刀の峰で3回叩くと、馬は浜松城へ向かって走り出した。これを見た武田軍は、大軍を向かわせる。夏目広次は、わずか25騎あまりでこれに向かい、十文字の槍で敵兵2名を刺殺。そして見事な討死を遂げた。享年55歳。
家康は広次の忠義の死を悼み、三河国額田郡山中法蔵寺に石碑を建立させ、寺に月拝供養を命じている。夏目広次の号は「信誉徹忠」という。
広次の墓所
夏目広次の墓は、額田郡の明善寺と岡崎市の法蔵寺に存在している。法蔵寺は、家康が幼少の頃に手習いなどの学問にはげんだ寺院とされており、家康ゆかりの品や家康の父・松平広忠の墓もある。額田郡の明善寺には、夏目氏三代の墓があり、その一つが夏目広次の墓である。ただ墓所の看板には、夏目氏の墓は幕末頃に整備されたものとあり、法蔵寺とは別に、明善寺に私葬されたと書かれている。
夏目氏のその後
広次の嫡男吉忠は、家康より伊豆韮山(にらやま)一万石を賜ったが、後継ぎが無かったために断絶している。広次の三男信次は、家康側近として仕え、子孫は代々旗本とだったと伝わる。五男吉次は、口論となった同僚を切り殺したため、出奔し、のちに名を変えて徳川に仕えた。関ケ原の戦直後に素性がばれたが、家康は、広次の忠節を考慮して許している。
大坂夏の陣の後、吉次は家康に呼ばれ「今こうしていられるのも、すべてお前の父広次の忠節のおかげだ。感謝している」と言われ、徳川秀忠の家臣となっている。(『寛政重脩家譜』より)
もし家康のこの言葉を、夏目広次が聞いていたら、きっと感激して叫んでいるはずだ。「殿のもとで働いたことを誇りに思います!」 …と同時に、我が息子のふがいなさを嘆いていることだろう。
子孫にはあの人が?
実は、吉次の二男吉尚の子・夏目吉之の子孫が、あの夏目漱石だという説がある。しかし、確かなことはわかっていない。たまたま名字が同じだったことから、後世になってこじつけられた可能性もある。ただ、もしも本当なら、広次の嘆きも少しはおさまるかもしれないと思った。おわりに
今更だが、戦国時代の主従関係とは、なんと強固なものなのだろう。夏目広次は、一度は家康を裏切った男なのだ。ところが、見事に徳川家臣として復活し、家康の身代わりとしてまたまた見事な最期を迎える。これは広次の忠義心がすごいのか、家康の懐の広さ、主君としての魅力のたまものなのか。徳川家康が、無事に江戸幕府を成立することができたのは、彼自身の魅力とともに、運の強さ、そして夏目広次をはじめとする家臣の忠節という大きな貢献があったからではないだろうか。それこそが、天下を取れなかった信長・秀吉に足りなかったものなのかもしれない。
【主な参考文献】
- 『徳川家康の秘密』 宮本義己 1992年
- 『寛政重脩家譜』 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『日本史小辞典』 山川出版社 2001年
- 『歴史群像シリーズ 徳川四天王』 学研 1991年
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