徳川家康が今川氏から独立した理由とは?近年の研究からその動向を考察

家康は今川氏から独立して、織田信長と軍事同盟(清州)を結んでいる
家康は今川氏から独立して、織田信長と軍事同盟(清州)を結んでいる
 徳川家康が今川氏から独立した時期について、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの直後と考える方が多いかと思います。しかし、近年の研究によって実際の家康は、しばらく今川氏の配下に留まっていることが指摘されるようになり、今川氏からの独立は桶狭間合戦の翌年と考えられるようになりました。

 そこで本記事では、桶狭間合戦から独立前後の家康は、どのような行動をし、なぜ今川氏から独立することになったのか、近年の研究をもとに考察していきたいと思います。

なお、当時の家康は「松平元康」と名乗っていましたので、以降では「松平元康」と表記します。

今川義元の敗死

 永禄3年(1560)5月、戦国大名今川義元は領国の駿河・遠江・三河から2万余の軍勢を率いて、尾張に侵攻しました。

 この侵攻目的について、以前は義元の上洛のためとするのが一般的でした。ところが近年の研究では、尾張と三河の境目領域の確保、具体的には尾張国鳴海地域(愛知県名古屋市緑区と周辺)の確保のため義元は尾張に出陣したと考えられるようになりました。

 織田氏・今川氏の対立によって、当時の尾張・三河の境目地域は政情が不安定でした。これを安定化するのが今川義元のねらいです。

 織田方の城・砦を次々に落とし、戦局は今川方の有利でした。しかし5月19日、桶狭間山にて休息をとっていた義元の本隊を信長軍が急襲。義元は戦死しました。

 義元敗死に伴い、今川軍は総崩れとなり領国の駿河に退却しました。大高城にいた元康も三河に退却し、松平氏の本城である岡崎城に入りました。

桶狭間の戦いの場所、および、松平の本拠・岡崎城、今川の本拠・駿府の位置
桶狭間の戦いの場所、および、松平の本拠・岡崎城、今川の本拠・駿府の位置

岡崎城に帰還した時の元康の立場

 桶狭間合戦以前の元康は、駿府に在住していたため、今までは岡崎城の入城により、今川氏から独立したと考えられていました。

 しかし、義元の後を継いだ今川氏真は、元康の岡崎城入城を咎めておりません。従来の説ですと、元康は今川氏に無断で岡崎城に戻ったことになります。

 氏真が元康の岡崎城入城を咎め、場合によっては謀反人として討伐されてもおかしくはありません。また岡崎に戻った2ヶ月後、元康は尾張に出陣し織田方に寝返った水野信元と戦っています。

 このことから、近年の研究では岡崎城の元康帰還を氏真は了承しており、元康は独立しておらず、「今川方」として活動していたとみられるようになりました。

 氏真が元康の岡崎帰還を許可した理由としては、桶狭間合戦の敗戦により、さらに政情が不安定化した三河を固めるためとする説、また西三河の戦線を維持するためであったとする説などがあります。

 くわえて、近年の研究によって、元康の岡崎帰還から間もない時期に、駿府に在住していた正室の築山殿と長女の亀姫が岡崎に移ったこと、人質として嫡男信康が駿府に置かれたことが明らかになりました。

 従来の研究では元康独立後に、捕虜との交換で築山殿や子女を岡崎に迎えたとされていました。築山殿・亀姫の岡崎移住は、氏真によって決定された措置と思われます。もし、岡崎城入城と同時に、今川氏から独立していたら、築山殿や亀姫の岡崎帰還はまず認められないでしょう。

 以上をふまえ、近年の研究では「元康の岡崎入城」=「今川氏からの独立」とする従来の説とは、異なる見解が示されるようになりました。

今川氏真の手紙からわかる、元康独立の時期

 それでは、いつ元康は今川氏から独立をし、なぜ今川氏から独立することにしたのでしょうか。

 まず独立の時期については、桶狭間合戦からおよそ1年後の永禄4年(1561)4月12日頃と推定されています。根拠としては、永禄10年(1567)に今川氏真が鈴木重勝と近藤康用に所領を宛行した手紙の一節に

「去酉年四月十二日岡崎逆心」

と記述した箇所があるためです。

 詳しく解説しますと「去酉年」に該当する年が永禄4年になります。続いて「岡崎逆心」とは、岡崎が今川氏に謀反(逆心)に及んだことを意味します。このとき岡崎を治めていたのは勿論元康です。

 現代語訳にすると、「永禄4年4月12日に岡崎の元康が今川氏に謀反した」という意味になります。

 元康視点からみると「独立」ですが、氏真視点からみると「謀反」なので、氏真は「岡崎逆心」と記したのでしょう。ここから、氏真の認識では元康の独立は永禄4年(1561)4月12日であったことが確認できます。また、この氏真の手紙からも、桶狭間合戦直後すぐに元康が独立したわけではないことが窺えると思います。

 それでは、元康は実際にこの時期にどんな行動をしていたのでしょうか。

 近年の研究によれば、元康は4月11日に、今川方の牛久保城を攻撃しており、この行動が「去酉年四月十二日岡崎逆心」に該当するものと思われています。これにより、今川氏との従属関係を解消し、松平氏は完全に独立したのでした。

元康が独立した理由とは?

 それでは、なぜ今川氏から元康は独立したのでしょうか。結論からいいますと、松平家の存続のためと考えられます。

 桶狭間合戦の敗北によって、今川氏の勢威は低迷し、尾張に接する西三河を中心に織田方に転じる勢力が現れるようになりました。元康も当初は今川方の一員として、織田方の水野氏などと合戦を繰り広げていました。このような状況のため、三河国内は不安定な情勢となっていきました。

 これに対して、駿河にいる氏真は三河に軍勢を差し向けることができませんでした。なぜなら、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が関東に侵攻し、今川氏と婚姻関係・同盟関係にある北条氏の本城小田原城を包囲したためです。

上杉謙信は1560~61年にかけて関東遠征を行ない、北条氏の本拠・小田原城を包囲した。
上杉謙信は1560~61年にかけて関東遠征を行ない、北条氏の本拠・小田原城を包囲した。

 今川氏は相模の北条氏と甲斐の北条氏と「三国同盟」を結んでいました。この三国同盟によって、今川氏・北条氏・武田氏は背後を突かれることなく、各々自分の合戦に専念することができました。今川氏の場合ですと、尾張侵攻がこれに該当します。

 同時に「三国同盟」によって、領国の安全が保持されていました。このため、氏真は北条氏への援軍を優先するようになり、三河への対応は疎かになってしまったと、近年の研究では考えられています。

 もしここで「三国同盟」が破綻すると、氏真は三河以外にも懸念材料を抱えることになり、それは今川領国全体の安全を脅かす可能性がありました。しかし、北条氏支援を優先する氏真の方針は、元康からすると主君である今川氏の軍事的な支援が得にくいことを意味しました。

 このような情勢に着目した近年の研究では、元康は松平家存続のため、今川氏との従属関係を見直し、織田氏と和睦したと考えるようになっています。

 元康との和睦は信長にとってもメリットがありました。というのも、父信秀以来の懸念事項であった尾張東部・三河西部における今川氏との対立に一区切りつけることができ、これにより美濃の斎藤氏との戦いに専念することができたからです。

 ここまでをふまえると、元康が独立した要因は、今川氏からの軍事的支援が得られなかったことにあると思われます。つまり、元康は松平家の生き残りのために今川氏からの独立を選択したということです。

おわりに

 本記事では近年の研究を参考に、元康が今川氏から独立した時期と理由について考察しました。

 元康は岡崎城に帰還してすぐに独立したのではなく、当初今川方として軍事的な活動を展開していました。しかし今川氏からの軍事的支援が見込めないことから、松平家存続のため永禄4年(1561)4月に独立しました。

 独立後、元康は今川氏との戦いを繰り広げますが、のちに「徳川家康」と名乗るようになるのは周知のとおりです。やがて氏真は武田との同盟関係が破綻、永禄11年(1568)末には武田・徳川両軍同時に攻め込まれて降伏、戦国大名としての今川氏は終焉を迎えることになるのです。


【主な参考文献】
  • 小川雄「桶狭間合戦以降の三河情勢と「今川・武田同盟」」(大石泰史編『今川氏研究の最前線 : ここまでわかった「東海の大大名」の実像』洋泉社、2017年に所収)
  • 柴裕之『徳川家康-境界の領主から天下人へ ー』(平凡社、2017年)
  • 柴裕之『青年家康―松平元康の実像』(KADOKAWA,、2022年)
  • 丸島和洋「松平元康の岡崎城帰還」(『戦国史研究』76号、2018年)

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  この記事を書いた人
yujirekishima さん
大学・大学院で日本史を専攻。専門は日本中世史。主に政治史・公武関係について研究。 現在は本業の傍らで歴史ライターとして活動中。

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