伊達政宗の弟・伊達小次郎は生きていた!? 小次郎の死の真相とは

 伊達政宗が「10年早く生まれていれば天下を狙えた」と言われる器量の持ち主であることは多くの人が賛同することでしょう。情勢的にも地政学的にも難しかった部分はありますが、混沌とした奥州で広大な領土を獲得し、最後は奥州最大の外様大名として徳川幕府でも重視された大大名となったのが伊達政宗です。

 そんな政宗ですが、「伊達小次郎」という同母の弟がいました。一説には元服して「正道」または「政道」という説もありますが、同時代の史料にはありません。その小次郎は、政宗が天正18年(1590)の小田原攻め中の豊臣秀吉の元に向かう直前に急死しました。その死因は不明ですが、仙台藩の編纂した『伊達治家記録』の1つである『貞山公治家記録』には母である義姫との確執が理由として記されています。

 しかし、近年出てきたある文書によって、伊達小次郎が実は生きていたという説が浮上しています。今回はそんな小次郎の死の真相について考察していきたいと思います。

伊達小次郎とはどんな人物か

 伊達小次郎は永禄11年(1568)に伊達輝宗と義姫の間に生まれました。

 生年については天正2年(1574)と天正6年(1578)説があります。後述しますが、筆者は小次郎の生年を天正2年(1574)ではないかと推測しています。小次郎は聡明だったものの、思ったことは誰が相手でも口にする子だったという記録があります。

 兄の政宗は痘瘡の影響で失明していましたが、義姫の元で健康に育った小次郎は蘆名盛氏の元に養子に出される予定でした。なお、この内容が記された手紙は年月不詳(内容的には1576年以降、1580年以前)ですが、その後も小次郎は蘆名盛隆が殺害された天正12年(1584)の後に蘆名氏に養子で送りこもうとされています。また、小田原で政宗が佐竹氏との戦いについて弁明した際も、佐竹氏が約束を破って養子を送りこんだと弁明しています。

 そうした中、小次郎は天正18年(1590)に急死しました。『貞山公治家記録』によれば、政宗が義姫に毒殺されそうになり、その罰を母である義姫に与えられなったため、小次郎が手討ちになったというものです。

奥州戦国史は血縁と中人制の影響が強かった

 小次郎が何故、死ななければならなかったのかを知るために、知っておくとよい歴史用語があります。それが「中人制」というものです。

 中人制は室町時代に成立したもので、紛争が起きると当事者に仲介者となる領主が間に入って調停するものです。戦国時代には全国的に崩壊していたのですが、東北地方だけは残っていたようです。相馬氏と田村氏が揉めたら二本松氏が仲裁するといった形です。むしろ、山田将之氏は「およそ天文年間(1532〜55)頃から始まった」と南奥羽戦国史研究会での報告で指摘しています。

 この時期は、伊達氏は伊達稙宗・晴宗父子(政宗の曾祖父と祖父にあたる)による天文の乱(1542~48)と呼ばれる内乱がありました。この内乱は稙宗の婚姻制作によって奥州全体に養子が溢れたにもかかわらず、さらに稙宗が越後の上杉氏にまで介入しようとしたことで晴宗が反発して始まっています。

 結果として稙宗は隠居させられ、上杉氏に養子入りする予定だった伊達実元も伊達氏に残っています。しかし、この頃から領主同士の争いに伊達稙宗の血縁をもつ領主が中人として調停する風習が始まるのです。天文末期といえば天文24年(1554)に毛利元就が陶晴賢を破った厳島の戦いや、武田信玄と上杉謙信が川中島で戦うようになった頃です。奥州がいかに戦国時代らしからぬ状況だったかがわかります。

 その後も血縁関係が伊達氏の勢力拡大を阻みます。伊達稙宗の死後、その居城だった丸森城が相馬盛胤に奪われ、政宗時代まで続く争いが始まっています。相馬盛胤は稙宗の娘を母にしており、政宗の父・輝宗の従兄弟にあたります。そのため相馬氏が劣勢になると度々対立しています。

 さらに、輝宗は家督相続後に父晴宗とも対立。元亀元年(1570)には晴宗の影響力排除のため、重臣の中野宗時・牧野久仲父子を追放しています。

 このように、政宗以前の伊達氏が血縁関係に大きく影響され、中人制もあって伊達氏の勢力拡大は遅れたといえます。こうした背景から政宗は現代ならば親族といえる6親等内であっても敵対した領主は許しませんでした。実際、伊達氏は二階堂盛義(母が稙宗娘)とも対立し、二階堂氏は政宗によって滅ぼされています。

義姫と政宗の微妙な関係は本当なのか

 義姫は従来、実の息子である政宗を嫌い、殺害しようとした烈女として創作でも有名でした。しかし、小次郎の死が『貞山公治家記録』のウソであれば、その前にあったとされる毒殺騒動もウソだったと考えた方が良いでしょう。

 また、『貞山公治家記録』では義姫が小次郎の死の翌日には最上氏の山形城に帰ったと記されていますが、残された記録から実際に山形に帰ったのは4年後であることがわかっています。

 これらの事実から、義姫の人間性を再評価しようという動きは研究者の間で数年前から出てきています。佐藤憲一氏は豊臣秀吉による李氏朝鮮への出兵時も政宗が手紙を出していたことから、「無事に日本に帰って、もう一度お会いしたいと繰り返す政宗の手紙には、母を慕う子の心情がにじみ出ている」と指摘しています。山形城に帰った母との関係が良好なことが伺えます。

小次郎の死亡時の日本の状況

 小次郎が死亡した頃、豊臣秀吉の天下統一は終わりを迎えようとしていました。秀吉の惣無事(秀吉が大名間の私闘を禁じた法令)に従っていないのは政宗と北条氏のみでした。秀吉による小田原攻め(北条攻め)が開始され、伊達氏には豊臣政権への服属として小田原に参陣するよう催促がきていたのです。

 伊達輝宗の代から伊達氏と北条氏と同盟関係にあったため、政宗は秀吉と戦うべきか、小田原参陣すべきか、迷っていたといいます。一方で義姫の実家・最上氏は早々に秀吉に従っており、当主で義姫の兄・最上義光は政宗より遅れて小田原攻めに参加したのですが、一切咎められていません。

 こうした事態に伊達家中が動揺している中で、もし小次郎が仙台に残っていれば、どのような動きが起こるのか想像がつきませんでした。

 政宗の家臣が記した『伊達天正日記』では、小次郎の死の前後は切り取られて失われています。そして、小次郎の傅役・小原縫殿助の手討ちのみが記されているのです。しかし、小次郎と小原縫殿助の墓がある宮城県登米市津山町横山の長谷寺の記録では、小原縫殿助はこの地で切腹したと伝わっています。

 どちらが正しいかは不明ですが、小原縫殿助の兄である小原元網はその後、今の仙台市泉区にある松森という地を預かる526石の家臣となっています。この松森は伊達氏代々が野初(狩り始め)という儀式を行う重要な地となっているのです。

 政宗自らが手討ちにした家臣の兄がそれほど重要な地を任されるでしょうか? 小原縫殿助は小次郎の死を偽装するための動きで犠牲となったのです。小原縫殿助とその兄は、伊達氏への強い忠義をもった一族だったと見ていいでしょう。

生き残った小次郎

 小次郎が預けられたのは東京都あきる野市にある大悲願寺です。この寺の住職は海誉上人という人で、叔父が観智国師源誉という人物です。この観智国師源誉は徳川家康の帰依を受けていた人物であり、一連の流れに徳川家康が関与したのはほぼ間違いありません。

 伊達氏と徳川氏はこの頃からかなり密接な関係を持っていました。のちに政宗の長女・五郎八姫が家康の忠輝に嫁いで石田三成と揉めたり、家康の五女・市姫は政宗の嫡男・忠宗と婚約しています。そうした事情もあって、3代将軍の徳川家光も政宗を信頼していた部分があるのは間違いないでしょう。

 小次郎は「秀雄」という名前でこの地で僧として過ごしたと思われます。この人物について大悲願寺では『金色山過去帳』という記録に残っており、本人の記述と思われる内容で政宗の弟であることが記録されているのです。

 ここで小次郎の生年の推測ですが、この頃の記録に秀雄はまだ元服前と見られる記述が散見されており、小次郎誕生で有力視されている永禄11年(1568)説では年齢が高すぎると考えられます。また、蘆名盛氏(1580年没)との手紙のやり取りでその存在が確認できることから、天正6年(1578)説も厳しいかと。よって、蘆名への養子入りを考えて少し元服を遅らせていた天正2年(1574)生まれが一番無理がないと筆者は考えています。

 また、政宗はこの寺に茶壷を贈っており、定期的にこの寺に来ていたことが伺えます。最上氏が改易になる前の元和8年(1622)8月にもこの寺を訪れていたようです。

 そして年8月21日には、大悲願寺の海誉上人(本文では誰宛てか不明瞭な書き方になっている)に対して手紙を出しています。この手紙は大悲願寺では元和9年(1623)としていますが、この時期に政宗は江戸にいなかったためここでは元和8年(1622)と判断します。

 その内容は「御庭之白萩一段見事候キ所望致候」というもので、庭の白萩がとても美しかったから仙台に持ってきてくれないかという内容です。

 わざわざ東京の花を仙台まで持ってきてくれなどと頼むことはあるでしょうか。実は8月21日は、最上氏が改易となって義姫の実家がなくなってしまった日でした。おそらく実家が滅んで失意の義姫に、小次郎と会う時間をつくってあげようという政宗の配慮があったのではないでしょうか。

 小次郎こと秀雄はその後、海誉上人の後に第15代の住職となっています。その後、寛永13年(1636)5月24日、秀雄は「藤原政宗」の供養を行っているのです。

 この藤原政宗とは伊達政宗のことです。そして、この日は政宗が亡くなった日でした。江戸で亡くなったとはいえ、当日のうちに供養ができたということは、徳川や伊達の一部家臣には公然の秘密だったのかもしれません。

 秀雄は政宗の死後、東京都中野区にある明王山宝仙寺の住職になって寛永19年(1642)7月26日に亡くなりました。兄より長生きした彼は、最後穏やかに終えることが出来たのでしょうか。

おわりに

 伊達政宗は、隠居後に自身の居城に「萩と鹿」を描いた屏風を用意させ、萩にまつわる源通光の和歌を書き加えて手元に置いていたそうです。傍にいられない白萩の元にいる弟を、少しでも身近に感じたかったのかもしれません。

 伊達政宗だけでなく、祖父や父の時代から家族のいざこざが続いた伊達氏。その悲劇の中で、せめて息子の、そして弟の命だけは守ろうとした義姫と政宗親子の情の厚さを感じてしまいます。


【主な参考文献】
  • 『伊達治家記録』(1978年、宝文堂)
  • 『津山町史』(1989年)
  • 小林清治『伊達史料集』(1965年、人物往来社)
  • 佐藤憲一『伊達政宗の手紙』(2010年、洋泉社)
  • 佐藤憲一『素顔の伊達政宗―「筆まめ」戦国大名の生き様』(2012年、洋泉社)
  • 佐藤憲一「伊達政宗毒殺未遂事件と弟小次郎手討ち事件の真相」(2018年放送のラジオ番組)
  • 南奥羽戦国史研究会『伊達政宗 戦国から近世へ』(2020年、岩田書院)
  • あきる野市公式「郷土の古文書」より 『白萩文書』

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  この記事を書いた人
つまみライチ さん
大学では日本史学を専攻。中世史(特に鎌倉末期から室町時代末期)で卒業論文を執筆。 その後教員をしながら技術史(近代~戦後医学史、産業革命史、世界大戦期までの兵器史、戦後コンピューター開発史、戦後日本の品種改良史)を調査し、創作活動などで生かしています。

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