「義姫」伊達政宗の母は定説通りの鬼女ではなかった!?

伊達政宗の母「義姫」のイラスト
伊達政宗の母「義姫」のイラスト
善人が悪人で、悪人が善人ということがあるなどは今に始まったことではない。特に歴史上の人物ともなれば、史料の記述1つで悪人とされてしまうことすらある。

伊達政宗の母・義姫(よしひめ)もその1人であるようだ。今回はその真相に斬り込んでみたい。

兄は最上義光

義姫は最上義守の娘として、出羽国に生まれた。かの名将・最上義光は実の兄である。義姫と義光は仲がよく、遣り取りした手紙が多数現存するという。

また、勝ち気で男勝りな性格であったと言われ、体格も大柄であったようだ。そのため陰では「奥羽の鬼姫」と呼ばれていたという噂すらある。


伊達輝宗の正室に

義姫は永禄7(1564)年前後に伊達輝宗の正室となったとされる。

永禄10(1567)年、義姫は待望の嫡男を産む。この嫡男こそ、後に奥州の覇者と称せられた伊達政宗である。その後、小次郎を産み、更に二女を設けたとされるが二女は共に夭逝したと言われる。

輝宗と梵天丸のイラスト
政宗は小さい頃に天然痘にかかって右目を失ったことで、母の義姫に疎まれるようになったという。

ちなみに最上家の姫である義姫が伊達家に嫁いだのには理由があった。そもそも、最上家は伊達家の介入にさらされていたのであるが、義光の代になると独立の機運が高まったようだ。


話は最上義定の代までさかのぼる。

永正9(1512)年、義定は庄内地方での内紛を警戒し、寒河江に進軍する。そんな最中の永正11(1514)年、伊達軍が寒河江に侵攻し、義定は長谷堂城での戦いに敗北。結局、伊達稙宗の妹を義定が娶ることで和睦が成立する。

ところがその後、義定は後継男子の無いまま死去してしまう。この際、最上家は庶流中野氏からわずか2歳の義守を当主と定めた。そこには当然伊達稙宗の意向があったわけであるが、これ以降最上家は事実上伊達家の支配下に置かれることとなったのである。

伊達稙宗の婚姻策。黒線は婚姻関係、青破線は養子縁組
参考:伊達稙宗の婚姻策。黒線は婚姻関係、青破線は養子縁組。稙宗は政略結婚や養子縁組を巧みに利用し、他勢力を取り込んでいった。

ところが天文11(1542)年に伊達稙宗・晴宗父子の間で内紛が勃発。いわゆる天文の乱であるが、義守はこの機に乗じて稙宗方として出兵し、長谷堂城の奪還に成功したのである。

最上の重要な防御拠点である長谷堂城を奪還したということは、伊達からの独立を達成したということだ。
そんな頃の天文15(1546)年に嫡男義光は生まれたのである。

彼にとって伊達からの独立は至極当たり前のことに思えたろう。伊達との諍いはその後も繰り返されたという。その状況に変化が見られるのは、永禄8年(1565)年、比較的穏健派として知られる輝宗が伊達家の当主となってからであった。

輝宗はその前年、最上義守の娘である義姫を正室としていたが、これは伊達との融和を図るための婚姻だったと思われる。義姫は、おそらく伊達と最上の架け橋としての役割を十分自覚していたろう。

例えば天正6(1578)年、輝宗が上山満兼と組んで義光を攻めたことがあった。この戦いで義光が不利な状況に陥るや、義姫は夫・輝宗の元に駆けつけ猛烈な勢いで抗議したと伝わる。これには輝宗も折れて、兵を退いたという。

心中複雑な立場だった義姫

天正12(1584)年、政宗が伊達家の家督を継ぐ。政宗は奥州の覇者を目指しただけあって、その戦いぶりは激しかった。

当主となって間もなくの天正13(1585)年、政宗は蘆名領に侵攻し、小手森城での戦いでは敵兵を皆殺しにする撫で斬りを行っている。

これは近隣諸国への見せしめであったと言われているが、この苛烈な戦いぶりに肝を冷やしたのであろうか、畠山義継は和議に応じる。しかし、安堵された所領に不満だったのか所領安堵の件等の礼に来た際に、輝宗を拉致するという暴挙に出た。

その頃、政宗は鷹狩りの最中であり、輝宗拉致の報を聞くや急遽戻り、義継を追跡したという。輝宗を盾にして抵抗する義継に、政宗は鉄砲を放ち、輝宗もろとも皆殺しにしたのである。政宗にとっては苦渋の選択だっただろう。

ところが、これには異説も存在する。政宗の鷹狩りの手勢が鉄砲で武装していたからである。このことから、これを父を無きものにしようとする陰謀があったという説がある。ただ、これは一次史料には記述が見られないので何とも言えない。

抜け目ない政宗のことだから鷹狩りには必要ない鉄砲を念のため手勢に持たせただけ、ということは考えられるだろう。何せ最上義光は早くから鉄砲に注目しており、その鉄砲隊は精強で知られていたからだ。いつ何時最上や蘆名の軍勢が侵攻してきてもおかしくないという警戒感があったのかもしれない。しかし、義姫の心中は複雑だったのではないか。

政宗に疑念を抱くまでではないものの微かな不快感を持った可能性はある。奥州平定を目論む政宗にとって敵が最上と血縁であろうが無かろうが頓着しなかった。

最上の遠縁である塩松氏や、本家筋にあたる大崎氏にも平然と兵を進める政宗を目の当たりにした義姫の心境はいかなるものであったろう。奥州平定という野望を否定はしないが、最上と伊達の架け橋としての責務は果たさねばならないというのが義姫の思いではなかったろうか。

このことがもっとも現れているのが、天正16(1588)年の大崎合戦であろう。
この合戦では政宗と義光が激突し、政宗は一時窮地に立たされる。義姫はこの戦を止めるべく、何と輿で戦場に乗り込み停戦を促したと言う。両軍は80日間の休戦を経て和睦している。

政宗毒殺未遂

歴史ドラマ等では、義姫は政宗を疎ましく思っていたという設定の筋書きが多いように記憶しているが、実のところは違っていたのではないだろうか。そういう前提で考えると、義姫が起こしたとされる「政宗毒殺未遂事件」の見立ても変わってくると思われるのだ。

『貞山公治家記録(ていざんこうちけきろく)』には、事件のあらましが次のように記されている。

1590年4月5日小田原参陣に先立ち、政宗は母・義姫から陣立ちの祝いに招かれた。そこでの膳に箸を付けた途端、急に具合が悪くなったが解毒剤を飲み一命を取り留めた。二男・小次郎に伊達家を継がせるため毒殺を謀り、しかも、その背後に義光の陰謀があると感じた政宗は4月7日、小次郎と傅役・小原縫殿助を手打ちにし、義姫はその晩、最上家に出奔した。

1987年の大河ドラマ『独眼竜政宗』でもこの筋書きが採用されていたと記憶している。『貞山公治家記録』が割と信憑性のある史料であったために、その記述が長いこと定説となっていたのだ。ところが、政宗の書状の研究が進むにつれて「貞山公治家記録」の記述に矛盾があることがわかってきた。

例えば、政宗毒殺未遂事件の後も義姫は政宗と親しげに手紙のやりとりをしているという。そこにはわだかまりが感じられないため、事件は捏造ではないかという説も出始める。

さらに今から20年ほど前に、注目すべき史料が発見された。文禄3(1594)年11月27日に虎哉和尚が大有和尚にあてた手紙である。そこには、「政宗の母が今月4日の夜に出奔した」と記されていたというのだ。

これは、天正18(1590)年の毒殺未遂事件直後に出奔した、という定説を覆すものであった。この事件が捏造だとすると、小次郎は手打ちとならなかったのではないか。

そう思いさらに調べると、興味深い史料にたどりついた。

東京あきるの市にある大悲願寺には、元和8(1622)年8月21日付海誉上人宛政宗書状が現存する。この書状の包み紙の内側には「大悲願寺の15代目住職の秀雄は伊達政宗の弟である」と記されているという。

問題なのはこれを誰が書いたかであるが、江戸中期の住職・如環だと言われていて、もしこれが本当ならば小次郎は手打ちになったと見せかけて匿われた可能性が高い。政宗毒殺未遂事件は捏造であるという可能性が更に高まってきたのである。

政宗がこのような大芝居を打ったとすれば、その背景としては2つの点が考えられる。

1つは、当時伊達家は政宗派と小次郎派に分裂していたらしいという点である。この裏には義光の陰謀があった可能性があろう。

次に、この時期は小田原征伐が既に始まっており、惣無事令違反も含めて政宗の立場は非常に危ういものとなっていた。

この危機を打開するため、義姫と小次郎とも共謀して毒殺未遂事件を捏造したのではないか。これにより小次郎派を一掃し、小田原征伐への遅参の言い訳にする策であった可能性がある。私は義姫が政宗を毒殺しようとしたことにするよう進言したのは義姫自身ではないかと考えている。

最上家改易

義姫が文禄3(1594)年の11月4日に出奔し、最上家に向かった可能性が高いことは前述した通りである。義姫はかなり長い間最上家に滞在していたようだ。

慶長5(1600)年には慶長出羽合戦が勃発。政宗は義光から援軍を要請された際に、義姫からも援軍を急かす書状を受け取っている。戦後、義姫は政宗に援軍を送ったお礼の書状を送ったという。

慶長19(1614)年には仲の良かった兄・義光が没する。名将義光の死は最上家にかなりの影響を及ぼしたようだ。義姫は周囲に「兄の死後家中はすっかり変わってしまった」とこぼしていたと伝わる。

義姫をさらなる不幸が襲う。元和8(1622)年、内紛によって名門最上家が改易されてしまったのだ。齢70を過ぎて行き場を失った義姫は政宗を頼り、元和9(1623)年、その居城である仙台城へ入った。

息子の元に戻って安堵したのであろうか、その年の7月16日義姫は永眠する。享年76と伝わる。

あとがき

大河ドラマ『独眼竜政宗』を見たとき、私は義姫のキャラクターにかなりの衝撃を受けたのを覚えている。それはもちろん政宗毒殺未遂事件の場面においてであった。実の母が当主となった息子の毒殺を謀るなど、前代未聞だと思ったからだ。

しかしながら、真祖はかなり違ったものであるようだ。義姫自身が悪役を買ってでたというのは私の勝手な見立てであるが、もしそれが本当なら、彼女のお陰で伊達家が守られたとは言えないだろうか。

昨今、自分の立場を守るために、虚偽によって自己保全を図る輩が後を絶たないようにおもう。義姫の爪の垢でも煎じて飲んだほうが良かろうと思う次第である。


【主な参考文献】
  • 佐藤憲一『伊達政宗と母義姫-毒殺未遂事件と弟殺害について-市史せんだい』27号 2017年
  • 遠藤ゆり子『戦国時代の南奥羽社会』吉川弘文館 2016年
  • 『<伊達政宗と戦国時代>鬼女か慈母か 母・義姫の政宗への愛憎 』 (歴史群 像デジタルアー カイブス) Kindle版 2014年

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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