【愛知県】岡崎城の歴史 徳川家康が生まれた出世城の変遷と歴史をさぐる
- 2023/01/07
三層五階の復興天守が建つ岡崎城は、岡崎公園として市民に親しまれています。また天下人・徳川家康生誕の城としても知られ、家康の出世にあやかりたいと訪れる人が少なくないとか。2023年大河ドラマ「どうする家康」の主要な舞台にもなっていますよね。今回はそんな岡崎城の歴史について、城や城下町の変遷とともにご紹介したいと思います。
家康が生まれ育った岡崎城
岡崎城は矢作川と乙川の合流点に位置し、この付近は古くから交通の要衝とされてきました。岡崎城跡の発掘調査では縄文~中世まで各年代の土器などが出土し、利便性の良い河岸段丘上で生活の営みがあったことがうかがえます。さて、室町時代に三河守護となったのが仁木氏ですが、守護代を務めた西郷氏は東矢作に居館を構えていました。江戸時代中期に編纂された『龍城古伝記』によれば、西郷頼嗣が享徳元年(1452)に岡崎城を築城したとされています。
頼嗣が居館を移した形跡がないため、当時の岡崎城は砦程度の規模だったと考えられます。のちに頼嗣は出家して清海と号しますが、本丸の北にある空堀に「清海堀」という名が残っていますね。
やがて応仁の乱ののち、加茂郡松平郷から興った松平氏の勢力が強まり、西郷氏と縁戚関係を結んだ松平光重が岡崎城へ入りました。これが岡崎松平氏とされる系統で、それ以降3代続いていきます。
しかし16世紀になると、同族の安祥松平氏が台頭して勢力を伸ばし、大永4年(1524)には松平清康が岡崎城を奪取。その勢いで三河地方を掌握しました。清康は岡崎城を整備・拡張し、現在の本丸から二ノ丸にかけて城域を広げたと考えられます。
ところが清康の最期はあっけないものでした。天文4年(1535)に尾張森山の陣で家臣に殺害されてしまい、そこから松平家は苦難の道を歩むことになります。清康の嫡男・広忠が跡を継ぎますが、東は今川、西は織田に挟まれて苦境に陥りました。そんな最中、岡崎城で誕生したのが竹千代こと、のちの家康です。現在でも旧板谷曲輪の中央には水をたたえた「産湯の井戸」が残り、往時を偲ばせています。また家康が生まれた場所を意味する「康生町」という地名がありますね。
その後、桶狭間の戦いを契機に独立した家康は、岡崎城を本拠に三河統一を果たしました。そして元亀元年(1570)に浜松城へ移ると、嫡男・信康を岡崎城主に任じます。岡崎城は天正18年(1590)に家康が関東移封になるまで、三河を束ねる本城となっていました。天正期における岡崎城は現在よりもっと小さく、軍事機能が本丸に集約され、二ノ丸に居館機能があったと考えられます。
田中吉政の時代に大拡張された岡崎城
家康が関東へ移ったのち、新たに岡崎城主となったのが田中吉政です。吉政は近世岡崎城の原型を作り上げた人物で、この時期に城は大拡張されて城下町の整備が進められました。吉政は羽柴秀次の家老だったこともあり、近江・八幡山城の築城や近江八幡の町づくりにも深く関わっています。つまり、城を中心とした都市計画プランを実現できるだけの能力と実績を持っていたのです。
『岡崎歴代記』『岡崎雑記』によれば、岡崎城へ移った翌年には大改修に着手し、曲輪の拡張や総構の築造、矢倉門の設置などを大々的におこなっています。
また、最近の歴史研究によると、岡崎城では最初の天守も吉政が造営した可能性が高いとのこと。同じ東海道沿いにある浜松城・掛川城・吉田城には豊臣系大名が配置され、いずれも天守を築いていることから、吉政が岡崎城天守を築いたと考えてもおかしくないところでしょう。
こうして拡張された城の周囲には侍屋敷や町屋などを配し、それを総構で取り込むことで内外を区別しました。さらに城の北にあった天神山を切り崩して土を運び、沼田を埋めて新しい居住地を作っています。また、山から切り出した材木で町屋を作ったことから、現在でも「田町」や「材木町」といった地名が残っているそうです。
これら新しい城下町には、近在の矢作宿から町人や商人を呼び込んで活性化を図りました。もちろん諸役免除や地子免除といった特権付きですから、どんどん人が移住してきます。さらに特筆すべきは、東海道をわざわざ城下町へ引き込んだことでしょう。
それまでの東海道はかなり南側を通っていたのですが、これを思い切って城下へ導き入れました。確かに城の防衛にあたって不都合な面はありますが、有事の際に出入り口を閉鎖することで問題をクリアにしたのです。こうして岡崎城と城下町の基礎は出来上がり、近世の岡崎へと繋がっていきます。
江戸時代に繁栄を遂げた岡崎城下
関ヶ原の戦いで戦功を賞された田中吉政は、筑後柳川32万石を与えられて移封となり、代わって岡崎城主となったのが譜代大名の本多康重です。この本多氏4代の頃に近世城郭としての形が整えられました。城域の整備・拡張もさることながら、もっとも特徴的といえるのは白山曲輪・西馬出・搦手門といった西側の防衛力強化です。これは明らかに「西方面 = 豊臣氏」を意識したものであり、西からの脅威に対処したものでしょう。また、東海道に対して城の防衛を固めるため、家康の命によって大林寺の南に巨大な郭堀を掘削しています。
かつて田中吉政が造った天守も本多時代に大改修が加えられたようです。元和3年(1617)、本多康紀によって三層五階の望楼型天守が完成しました。この天守は明治の廃城令によって解体されますが、戦後になってから再建されています。その姿はかつての岡崎城天守を模したものだったとか。
正保2年(1645)、本多氏より家臣を多く抱える水野忠善が入封したことから、侍屋敷の拡張が行われました。また城下への出入り口となる籠田総門・松葉総門の整備、さらには城下周辺に下級武士の組屋敷が設けられています。忠善の時代で城下町の整備はおおむね完了し、ここに近世岡崎の城と城下町が完成したのです。
さて、江戸時代における岡崎の繁栄ぶりは際立っていたようです。まず城下には江戸と上方を結ぶ東海道が通り、人や物資の往来がありました。また、三河湾から内陸へ向かう矢作川は水運・河川交通の要として機能し、物流の一大拠点となっていたようです。つまり陸と川を扼することで一大商業圏を形成したわけですね。そのため岡崎の城下町は名古屋に次ぐ経済都市へ成長したといいます。
また、岡崎特有の名産品も生み出されました。城の石垣に用いられている花崗岩が豊富に採掘されたため、墓石や手水鉢・灯篭などに加工されましたし、矢作川の伏流水から作った八丁味噌も三河名物となっています。それから近隣で栽培される綿から作った三白木綿などは、品質の良さから全国ブランドとなりました。
こうして岡崎は宿場町としての機能のみならず、商工業の中心地としても大きく繁栄を遂げたのです。
廃城後の公園化と戦後の動き
明治2年(1869)、本多忠直が最後の岡崎城主となりました。その後、廃藩置県によって忠直が免職されると城内には額田県庁が置かれ、裁判所をはじめとする公的機関が曲輪内に設置されていきます。そして明治6年(1874)に廃城令が出されると、城内にあった建造物は取り壊されて民間に払い下げられました。現在、城内に近世以前の建物が見当たらないのはそのためです。それから2年後のこと、荒廃していく岡崎城を憂いた多門伝十郎ら旧藩士たちが中心となり、城址の保存運動を展開しています。その甲斐あって県から公園化の許可が下り、旧本丸と二ノ丸の区域が城址公園として整備されました。
また、大正6年(1917)には「洋式公園の父」と呼ばれる本多静六教授によって、岡崎公園の設計案が完成しています。これを基に植樹や市立図書館・運動場などの整備が大々的に行われました。
太平洋戦争では戦災を受けた岡崎公園ですが、戦後は岡崎を代表する市民の憩いの場となります。公園内には動物園が設置され、桜の木もたくさん植えられました。そして昭和34年(1959)に復興天守が完成したことで、名実ともに街のシンボルとなったのです。ちなみに天守内部は歴史資料館となっていますね。
おわりに
現在の岡崎城は憩いの場として、そして春には花見のメッカとして、また歴史を学ぶ史跡として、たくさんの人々から親しまれています。とはいえ岡崎城は何といっても徳川家康が生まれた城。城内にある3体の家康像をそれぞれ見ていくと、まるで家康の人生を表しているかのように思えるから不思議です。補足:岡崎城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
享徳元年 (1452) | 三河守護代・西郷頼嗣によって築城される。 |
室町時代中期(文明年間) | 西郷氏の娘婿となった松平光重が岡崎城主となり、岡崎松平氏を興す。 |
大永4年 (1524) | 松平清康が岡崎城を奪取し、そののち三河地方を掌握 |
天文4年 (1535) | 「森山崩れ」によって清康が死去。松平広忠が跡を継ぐ。 |
天文11年 (1542) | 竹千代(のちの徳川家康)が岡崎城で誕生。 |
天文18年 (1549) | 松平広忠の死去に伴って今川氏の城代が置かれる。(今川氏の三河支配) |
永禄3年 (1560) | 松平元康(徳川家康)が岡崎城へ入り、今川氏から独立を果たす。 |
元亀元年 (1570) | 家康が本拠を浜松城へ移したことに伴い、嫡男・信康が岡崎城主となる。 |
天正7年 (1579) | 松平信康が自害。それ以降は城代が置かれる。 |
天正18年 (1590) | 家康の関東移封に伴って田中吉政が入城。この時に岡崎城と城下町が整備される。 |
慶長7年 (1602) | 吉政の筑後移封によって、譜代の本多康重が城主となる。 |
元和3年 (1617) | 本多康紀によって既存の天守が改修され、三層五階の望楼型天守が完成。 |
正保2年 (1645) | 本多利長の改易に伴って水野忠善が入封。そののち城の拡張と城下町の整備が完了。 |
明治7年 (1875) | 廃城令によって城内の建造物が取り壊される。 |
明治10年 (1877) | 旧藩士・多門伝十郎らの請願によって、岡崎城址は「岡崎公園」となる。 |
大正6年 (1917) | 岡崎公園の設計を本多静六教授・田村剛氏に依頼する。 |
昭和20年 (1945) | 岡崎大空襲。城内にあった図書館・市民病院が焼失。 |
昭和34年 (1959) | 鉄筋コンクリート造りの復興天守が完成。 |
平成2年 (1990) | 岡崎公園が「日本さくら名所100選」に選ばれる。 |
平成18年 (2006) | 岡崎公園が「日本の歴史公園100選」に選ばれ、岡崎城が「日本100名城」に選出される。 |
【主な参考文献】
- 中井均ほか「東海の名城を歩く 愛知・三重編」(吉川弘文館 2020年)
- 南條範夫・奈良本辰也「日本の名城・古城辞典」(ティビーエス・ブリタニカ 1989年)
- 長浜城歴史博物館ほか「秀吉を支えた武将 田中吉政」(サンライズ出版 2005年)
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