「お万の方(長勝院)」世知辛い戦国女性の序列事情?家康側室としてなかなか認められず…
- 2023/03/09
大河ドラマ「どうする家康」も順調に進んでいますが、その中で家康の女性事情に関する話は意外と多くなっています。「どうする家康」では家康が ”決断” を迫られた出来事を重視しており、女性関係はその重要な要素と考えられているのでしょう。
家康には同父兄弟がいなかったため、血縁の少なさから多くの子どもが求められました。それでも、正室である築山殿が認めた女性以外は側室と認められないのが戦国時代の女性社会です。側室にも序列は存在し、女性を仕切るのは家康ではなく、築山殿でした。
そのために最も辛い思いをしたのが「お万の方(おまんのかた)」という女性です。彼女は次男である結城秀康の母でありながら、しばらく側室として認められない存在でした。今回はそんなお万の方が過ごした世知辛い女性の序列についても触れつつ、その生涯を考察していきたいと思います。
家康には同父兄弟がいなかったため、血縁の少なさから多くの子どもが求められました。それでも、正室である築山殿が認めた女性以外は側室と認められないのが戦国時代の女性社会です。側室にも序列は存在し、女性を仕切るのは家康ではなく、築山殿でした。
そのために最も辛い思いをしたのが「お万の方(おまんのかた)」という女性です。彼女は次男である結城秀康の母でありながら、しばらく側室として認められない存在でした。今回はそんなお万の方が過ごした世知辛い女性の序列についても触れつつ、その生涯を考察していきたいと思います。
お万の方の出自について
お万の方は天文17年(1548)に生まれたと伝わっています。母親は不明ですが父親は永見志摩守吉英と伝わっています。永見氏は知立神社(愛知県知立市)の神官を代々務めつつ、知立城の領主でもありました。天文16年(1547)には織田と今川の対立の中で、今川氏の戸田宣光が知立神社の社殿を焼いています。松平家臣としても一時活動していますが、松平氏が今川氏に従うとともに今川氏に従属。永禄3年(1560)5月の桶狭間合戦の際には、今川義元が知立神社に滞在しました。ちなみに義元はその2日後に桶狭間で討たれています。
お万は最初、家康の正室である築山殿の「奥女中」であったと言われています。奥女中とは簡単に言えばお世話係であり、築山殿の側で仕えていたのでしょう。立場的に松平家臣に近い立場だったので、そういう役回りになっていたと推測されます。家康が今川から独立した後も築山殿を補佐する1人だったのが推測されます。
築山殿と信康の死後、側室に認められる
家康に気に入られたお万は天正2年(1574)に息子である於義伊(のちの結城秀康)を産みます。於義伊は2月生まれとも4月生まれとも伝わっています。産んだのは浜名郡宇布見(静岡県浜松市西区)と伝わりますが、異説もあります。しかし、この子が家康に認知されるのはかなり後になってからです。それは築山殿がお万の方を側室と認めなかったためと言われています。
この「認めない」の解釈は時代によって変化していますが、そもそも奥女中だったお万が側室になるのは、職務を疎かにしたという見方もあります。築山殿の嫉妬など諸説はありますが、確かなことはお万が浜松城内に住むことは許されず、本多重次の下で過ごしたことです。
『松平記』によれば、 天正6年(1576)に松平信康(家康の嫡男)のとりなしにより、於義伊と家康は対面したと伝わっています。同時代史料ではこの件は確認できませんが、天正9年(1579)には家康が於義伊を知っているので、何かしらの情報が家康にもたらされているのは間違いないでしょう。
この天正9年はお万にとって大きな影響のある年でした。それは築山殿と信康の死です。この事件で家康の子は、於義伊と生後5カ月の三男・長松(のちの徳川秀忠)のみとなりました。
跡継ぎ不在を恐れた家康は、この事件をきっかけにお万と於義伊の認知をしたと考えられます。つまり、お万が側室として認められたのは、築山殿が亡くなったからということです。
息子の於義伊が秀吉の養子に
本能寺の変の後、家康は信長の天下統一事業を引き継いだ羽柴秀吉と対立。両者は天正12年(1584)に小牧・長久手の戦いで激突します。この戦いで、家康は寡兵ながら善戦。当時の秀吉はまだ佐々成政、四国の長宗我部氏、紀伊の雑賀衆などの敵を抱えていたのもあって、和睦を提案します。この際、家康の男子を人質にという条件が提示されました。9月には秀吉が条件として提示し、12月14日付織田信雄書状にも一子の希望が記されています。
家康はこの人質に於義伊を選びました。三男の長松は母親が西郷氏出身で三河では名家です。尾張の神社の神官の娘より家格が高く、嫡子として5歳の長松が選ばれたと考えていいでしょう。
ただ、秀吉は於義伊では人質にならないことに気づいていました。翌年6月2日の書状では秀吉が於義伊を人質と見ず、新しい人質について言及しています。この和睦と書状の期間中、家康側近の石川数正が出奔して秀吉方に転じています。数正の出奔によって、於義伊が本来家康の子として認知されてすらいなかったことが秀吉に知られてしまったのかもしれません。
ただ、家康と秀吉はこれ以上は対立しませんでした。天正13年(1585)に畿内を襲った天正大地震などの影響もあり、秀吉は妹を正室として家康に嫁がせ、徳川家を従属させたのです。その後、秀吉は於義伊を養子とし、豊臣姓を与え、羽柴秀康とさせています。
この時期、秀吉にはまだ実子がいなかったため、秀康は他の養子と同様に育てられたと推測されています。お万は家康の領内に留まったらしく、この時期の養育は秀吉によって行なわれたようです。
結城秀康とともに
秀吉の実子・鶴松が誕生した後、小田原征伐の行われた天正18年(1590)に秀康は結城氏に養子に出されました。これは他の養子も同様で、鶴松誕生後は鶴松を後継者としたため、障害となる前に秀吉の後継者から排除されたと考えられます。三上一夫氏によれば、結城氏への養子入りは数日で行われています。実際、7月29日に家康が黒田官兵衛宛に送った書状で「結城跡目の儀、三河守(秀康)に仰付らるる段、かたじけなく」と記しています。そして、8月6日には秀康が結城氏を相続しているのです。家康の書状は秀康の結城氏相続を承知した返信で、その1週間後には継承が決まっています。三上氏は、結城氏から相談を受けてから3日程で家康への連絡にいたっている、と主張しています。秀吉が鶴松のために結城氏の相談に飛びついた様子が推測できます。
この結城氏入りにお万は同行したようで、以後は結城の領内で生活することになります。なお、家康も同時期に関東入りをしています。正室となった秀吉の妹・朝日姫や後継者となった秀忠の母・お愛の方がいる奥に居場所がなかったのかもしれません。
その後、関ヶ原の戦い(1600)で勝利した家康は、結城秀康に福井藩67万石を与えると、お万も福井に移住しました。ところが、秀康はお万より先に慶長12年(1607)に亡くなってしまいます。お万はこれを悲しみ、家康の許可もなしに出家しました。本来であれば、出家は夫である家康の許可が必要ですが、家康はこれを黙認したそうです。
お万は「長勝院」と名乗るようになります。長勝院は秀康の正室だった江戸鶴子と烏丸大納言光広の再婚を斡旋しています。そして、元和5年12月(1620)に亡くなりました。
おわりに
お万の生涯を振り返ると、その立場はかなり難しかったことがうかがえます。正室である築山殿との関係や、息子の秀康の立場等がその原因でしょう。戦国時代の女性は正室を頂点とした支配があり、そこには夫でさえ立ち入るのは難しかったと言われています。とはいえ、家康の側室とされたために難しい立場を強要され続けたお万は、果たして幸せになれたのでしょうか。家康の ”決断” が不幸にした女性は、意外と多いのかもしれません。
なお、『松平記』には、秀康の立場の難しさがうかがえるものが残っています。
ある日、結城秀康が江戸に向かった際、碓氷峠の関所で鉄砲の持ち込みを関所の役人に咎められたそうです。しかし秀康はそれを無視して関所を突破しました。この報告を受けた当時の将軍で弟の徳川秀忠は、「越前は制外制外」と言い、お咎めなしだったそうです。
これは難しい立場になった兄への配慮だったように思えます。長男の信康も秀康に配慮していた様子がありますので、案外、秀康自身は大胆に振舞っていたのかもしれませんね。
【主な参考文献】
- 『愛知県史』(2014年)
- 『岡崎市史』(2002年)
- 『結城市史』(1980年)
- 三上一夫『福井藩の歴史』(1982年、東洋書院)
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秀康が双子であった為、忌避されたとの説もありますよ。
双子の片割れは永見氏を継いでいます。
2024/01/25 11:32