徳川家康と豊臣秀頼の立場が逆転…徳川家が征夷大将軍職を世襲した経緯とは

『絵本徳川十五代記』に描かれた歴代徳川将軍。初代家康~7代家継(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『絵本徳川十五代記』に描かれた歴代徳川将軍。初代家康~7代家継(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

徳川家康の征夷大将軍任官と江戸幕府の開幕

 慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原合戦後、豊臣政権は瓦解することなく、いまだ健在だった。五大老の筆頭でもあった徳川家康は、幼い秀頼をサポートしていたのである。その一方で、家康は着々と権力基盤を築こうとしていた。

 慶長8年(1603)2月、家康は征夷大将軍に任じられた。伏見城に勅使が携えた宣旨には、家康を従一位・右大臣、源氏長者、淳和・奨学両院別当に任じること、そして牛車、兵仗の許可をすることが書かれていた。

 源氏長者とは、庶流さまざまある源氏一族の氏長者のことを意味する。淳和院は清和天皇の離宮であり、奨学院は大学別曹の一つであった。源氏長者は、淳和・奨学両院の別当(長官)を兼ねるのが通例であった。以後、徳川歴代将軍は征夷大将軍に任じられると、家康にならって源氏長者なども兼ねることになる。

 征夷大将軍は、武家社会の頂点に立つことを意味し、その意義は計り知れないものがあった。その第一義たるものは、諸大名を配下に収める根拠になったことだ。周囲の家康に対する歓迎振りは、同年2月以降の様子からも読み取れる。

 家康は3月21日に二条城に入ると、25日には後陽成天皇に将軍拝賀の礼を行った。家康の二条城滞在中には、征夷大将軍任官を祝うため、諸大名のみならず、親王、諸公家、諸門跡が次々と訪れた。豊臣公儀に代わって、徳川公儀が誕生した瞬間だった。

秀頼より優位になった家康の立場

 こうして家康は征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が成立した。征夷大将軍は武家の棟梁を示すものであり、一連の任官の事実は、豊臣方に大きな衝撃を与えたに違いない。そして、家康の優位な立場が、徐々に鮮明になっていった。それは、諸大名の姿勢に如実にあらわれたのである。

 家康が征夷大将軍に任官される以前、諸大名は歳首を賀するため、大坂城の秀頼と伏見城の家康のもとに伺候した。訪問する順番は、まだ幼少の秀頼のほうが先で、家康が後だった。諸大名の意識の中では、家康よりも豊臣公儀を重んじる空気が支配的だったのである。

 それどころか、家康自身も歳首を賀するため、秀頼がいる大坂城へ伺候していた。このことは、家康が秀頼に臣下の礼を取っていたことを意味する。家康は関ヶ原合戦で勝利し、実力は秀頼より上だったが、形式的には下に位置していたのだ。

変化した諸大名の姿勢

 慶長8年(1603)2月以降、諸大名の姿勢はどのように変化したのだろうか。その後も諸大名が歳首を賀すため、秀頼のいる大坂城を訪問することは継続された。それは、豊臣恩顧の加藤清正、福島正則らはもちろんのこと、島津家久、前田利常、上杉景勝といった外様大名も同様である。

 家康が征夷大将軍に就任した時点においては、さほど家康への伺候は意識されていなかったのだろう。諸大名からすれば、秀頼訪問はむしろ自然な形で行われたと考えてよい。また、家康と秀頼との間は、別に対立した様子は見られなかった。

 問題は家康が征夷大将軍に就任して以降、秀頼のもとに伺候することがなくなったことである。この事実は、家康が徳川公儀の確立を意識し、将軍になったことで新たな権威を獲得したことを意味しよう。

 家康は自身が将軍に任官した以上、もはや秀頼への伺候は不要と考えたのである。武家の棟梁の地位を獲得した家康の威光は、徐々に諸大名へ浸透した。そのことを決定付けたのは、家康の子の秀忠が後継者として征夷大将軍に任官し、将軍職が世襲されたことだった。

秀忠の征夷大将軍継承

 慶長10年(1605)4月、家康はわずか2年余で三男の秀忠に将軍職を譲った。同時に秀忠は、正二位・内大臣に任官した。秀忠による将軍職の継承は、徳川公儀の永続性を意味したので、豊臣方は大きなショックを受けたに違いない。

 ちなみに官職では、右大臣に任官した秀頼のほうが上位だったが、周囲の見方は大きな変化を遂げていた。そのことは、将軍任官のため、江戸から京都に向かう秀忠の軍勢の姿にあらわれていた。次に、その点を確認しておこう。

 同年2月、秀忠は10万あるいは16万といわれる軍勢を率いて、上洛の途についた。軍勢の陣容は、松平忠輝ら徳川一門、榊原康政といった譜代大名はもちろんのこと、親家康派の伊達政宗を筆頭に東北・関東方面の有力な外様大名が従っていた。

 関東方面には家康に近しい大名が配置されていたが、彼らは秀忠に率いられていた。その数もさることながら、多くの有力大名が従ったことは注目される。威風堂々たる軍勢は、3月に京都に入ると、そのまま伏見城に入城した。

 入京した壮麗なる秀忠の軍勢は、都の人々を驚かせた。わざわざ大坂から見物に訪れる者があったという。それほど市中には、大きな評判を呼んだのである。しかし、京や大坂の人々よりも、一番驚愕したのは、大坂城の秀頼であったに違いない。同時に、西国に拠点を持つ豊臣系の諸大名も、圧倒されたことであろう。秀忠のパフォーマンスは、秀頼を威圧するのに十分な効果を発揮したに違いない。

逆転した徳川家と豊臣家の立場

 このとき家康は、故秀吉の妻である北政所を通して、秀忠の将軍職を祝うため、秀頼に上洛するように促した。しかし、この報に接した秀頼の母・淀殿の態度は、激烈なものであった。淀殿はそのようなことがあれば、自ら秀頼を殺害し、自身も自害する覚悟であると、上洛の命令を拒否したのである。

 淀殿からすれば、家康の依頼は到底許しがたいような大きな屈辱であったと考えられる。結局、このときは家康の配慮により、家康の六男・忠輝を大坂城に遣わした。秀頼はこれを歓待し、事態は収拾したという。

 ところで、秀忠が将軍になって以降、諸大名が秀頼に伺候することを控えだした。このことは、家康が秀頼への伺候を止めるよう命令したわけではない。空気を読み取って、自粛したと考えたほうがよい。

 徳川家と豊臣家との関係は、非常に微妙なものがあった。しかし、諸大名の捉えかたでは、明らかに家康が上位に位置していた。ただ、家康は秀頼を一気に潰すことなく、それなりの配慮を行いつつ対処した。慎重な姿勢は、一向に崩さなかったのである。

 こうして徳川家は征夷大将軍職の世襲だけでなく、豊臣家に優越した地位を獲得したことを天下に知らしめたのである。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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