秀吉は家康を危険視していたワケじゃない? ──天下人秀吉が家康の関東移封で求めた役割とは
- 2023/03/17
歴史ドラマや歴史小説の影響で、秀吉は自身に代わって天下を取る可能性がある人物として、徳川家康を危険視していたと、考える方は多数いると思います。このため、秀吉は家康を危険視し自身から遠ざけるために、長年家康の領国であった三河・遠江などの五か国を取り上げ、家康を関東に移封したとする見解があります。
事実、秀吉の死後、家康は豊臣政権内部の権力争い(関ヶ原の合戦)を勝ち抜いて征夷大将軍となり、江戸幕府を創設、大坂夏の陣では豊臣家を滅ぼしています。しかし近年の研究から、秀吉は豊臣政権における「関東・奥両国惣無事」(奥州・関東の大名・国衆の紛争解決や統制)の達成に向けて、それに対する尽力を家康に求めたことが明らかになりました。
そこで本記事では、近年の研究を参照しながら、秀吉が家康に求めた役割について深掘りしていきます。
事実、秀吉の死後、家康は豊臣政権内部の権力争い(関ヶ原の合戦)を勝ち抜いて征夷大将軍となり、江戸幕府を創設、大坂夏の陣では豊臣家を滅ぼしています。しかし近年の研究から、秀吉は豊臣政権における「関東・奥両国惣無事」(奥州・関東の大名・国衆の紛争解決や統制)の達成に向けて、それに対する尽力を家康に求めたことが明らかになりました。
そこで本記事では、近年の研究を参照しながら、秀吉が家康に求めた役割について深掘りしていきます。
秀吉の天下統一の鍵となった、家康の外交関係
天正14年(1586)10月、家康は秀吉に臣従し、豊臣政権傘下の大名となりました。このとき秀吉が家康に求めた役割は、「関東・奥両国惣無事」のための尽力でした。わかりやすく言うと、「奥州・関東の大名や国衆たちの紛争解決、統制は家康に任せたよ!」ということです。これは当時の徳川氏の外交関係に秀吉が着目したためとされています。
例えば、北条氏直には家康の息女が嫁いでおり、家康と北条氏は良好な関係にありました。さらに家康は、隣接する北条氏だけでなく、関東の諸大名・国衆の一部とも、すでに外交関係を構築していたのです。
近年の研究によれば、家康は織田信長の存命中から北関東の皆川氏や水谷氏と関係を構築していたことが指摘されています。
関係が始まった当初、家康は織田氏に誼を通じるための仲介役を受け持っていたとみられています。信長死後は、情勢の変化によって、皆川氏らが家康に紛争解決を依頼するようになりました。一方、秀吉にも太田氏・結城氏・多賀谷氏などが誼を通じるようになり、紛争解決を秀吉に求めるようになります。
こうした背景から、秀吉は、関東の各勢力に対して独自のパイプを持つ家康の外交関係に着目。全国統一にむけて家康に関東・奥州平定のために尽力するように命じたのです。ただし、家康が単独で「関東・奥両国惣無事」に対応していたワケではなく、津田盛月や富田一白など秀吉の直臣も対応にあたっています。
さて、当時、東国で秀吉に従わなかった主な勢力が北条氏です。そのため、家康最大の目標は北条氏を秀吉に臣従させることでした。当初、家康は外交交渉で北条氏に臣従を働きかけていましたが、上野国沼田・吾妻両領の領有をめぐる北条氏との交渉が決裂したため、天正18年(1590)の小田原征伐に至りました。
家康は秀吉から先鋒を命じられて出陣。結果はご存知のとおり、豊臣方の勝利によって北条氏は滅亡に追い込まれています。その後、秀吉は奥州に軍勢を進め、奥州の諸大名を臣従させた上で各大名の領地を確定(奥州仕置)させます。ここに豊臣政権による天下統一が成立となりました。
関東移封の理由は、関東・奥州地方の安定化
北条氏を滅ぼした秀吉は、家康に三河・遠江・駿河など従来の領地5か国と引き換えに、後北条氏の旧領を与えました。その石高は250万石余とされ、全国の大名のなかでトップだったようです。一般に、家康の関東移封は、家康を危険視した秀吉が関東に追いやったものとみられています。しかし、近年の研究では、関東の安定と奥州の抑えの役割を秀吉が家康に求めたため、と考えられています。
これまで家康は秀吉の指示のもと、「関東・奥両国惣無事」(奥州・関東の大名・国衆の紛争解決や統制)の実現に向けて尽力してきました。これが小田原征伐・奥州仕置によって実現すると、今度はその維持も求められます。
つまりは関東・奥州地方の安定化です。家康の関東移封はそうした役割を担うためだったのです。
家康の江戸入部と家臣団の所領配分の特徴
関東に移された家康は江戸城を居城としました。なお、家臣団の所領配分にもいくつかの特徴がみられることが明らかになっています。徳川関東領国の特徴は3つに分けられます。
直轄領
1つ目は家康の「直轄領」です。直轄領の地域は、武蔵南半国・相模東半国・伊豆国でした。家康直轄領は、地方巧者である伊奈忠次・大久保長安などを「代官頭」に取り立て、領国運営をおこないました。
ところで戦国時代の「江戸」は寂れた田舎町というイメージが定着していましたが、近年の研究によって、当時の江戸は江戸湊を拠点とした水陸交通の要地であるとともに、南関東から北関東・奥州へと向かう街道の起点であったことが明らかになりました。つまり、江戸城は関東・奥州の安定化を求められた家康の居城として相応しい立地でした。
一門領
2つ目は家康直轄領の北部と東部に設けられた「一門領」です。北部には武蔵国忍に家康四男の松平忠吉。下総国小金(こがね)のち同国佐倉には穴山武田氏を継承した家康五男の武田信吉。また、縁戚の重臣酒井家次を下総国臼井に配置して信吉の補佐役としました。ついで、家康の異父弟の松平康元を下総国関宿に配置しました。
重臣領
3つ目の特徴は「重臣領」です。主に重臣領は徳川関東領国の外縁部に設けられました。具体的には相模国小田原の大久保忠世、上野国の井伊直政・榊原康政、下総国東部の鳥居元忠、上総国の本多忠勝などが挙げられます。
小田原の大久保忠世は徳川領国の西側の防衛の役割を、上野国の井伊直政と榊原康政は北関東・奥州地方につながる東山道を掌握・防衛する役割を帯びていたと考えられます。
続いて下総国東部の鳥居元忠は、徳川関東領国東北部の防衛を担当し、上総国の本多忠勝は安房の里見氏に対する備えと江戸湾の制海権の維持という役割があったものと思われます。
北条氏と里見氏は江戸湾の制海権をめぐって長年合戦を繰り広げていました。江戸湾の制海権を徳川勢力で固めるのが、本多忠勝の役割であったみられます。
なお、井伊直政・榊原康政・本多忠勝の所領配置については、秀吉の意向・承諾があったことが明らかになっています。近年の研究によれば、3人の所領配置先(井伊直政の箕輪・榊原康政の館林・本多忠勝の大多喜)が徳川領国のみならず、豊臣政権においても重要地であったためと指摘されています。
家康の奥州出陣
関東に移封した家康ですが、新たな領国の経営に専念することがなかなかできませんでした。なぜなら「葛西・大崎一揆」と「九戸政実の乱」が勃発し、奥州の情勢が不安定化したためです。家康はその対応にあたるため、天正19年(1591)7月に江戸を出陣、9月には豊臣秀次とともに奥州平泉まで出馬しています。また、重臣の井伊直政は豊臣方の諸将とともに最前線の九戸城攻めに参加し、同城を落としています。
奥州出陣に際して、秀吉は家康と秀次に蒲生氏郷・伊達政宗の「知行割」を一任しました。知行割とは領地の確定作業になります。家康と秀次は、隣接する蒲生氏と伊達氏の領地の境目について、その詳細を決める権限を秀吉から一任されたとみられます。本来、大名の知行割は秀吉が決定していましたが、今回は秀吉にかわって家康が秀次とともに知行割を行うことになりました。
このことをふまえ、後年に家康は「五大老」として豊臣政権の中枢に位置しますが、その兆しは奥州出陣の頃からあったと近年の研究では指摘されています。さらに、この出陣の間、家康は伊達政宗の移封先となる陸奥国岩手沢に入り、伊達領国の整備に努めたことがわかっています。
このように家康は、秀吉から求められていた役割(関東・奥州地方の安定化)を忠実に遂行していました。
おわりに
秀吉が家康に求めた主な役割とは、天下統一以前は北条氏を豊臣政権に臣従させること、天下統一以後は、関東・奥州地方の安定化であり、それを果たすために関東移封がなされたのです。その後、家康は「葛西・大崎一揆」・「九戸政実の乱」の勃発に際して、自ら奥州に赴いて、奥州情勢の安定化に努め、秀吉の晩年には「五大老」の一人になります。死期を悟った秀吉は、幼少の秀頼が成人するまでの間、秀頼を補佐して政権運営に携わることを家康に求めたのでした。
以上をふまえると、実際のところ、秀吉は家康を危険視していたのではなく、むしろ信頼していたのではないでしょうか。
【主な参考文献】
- 柴裕之『徳川家康-境界の領主から天下人へ ー』(平凡社、2017年)
- 竹井英文「徳川家康江戸入部の歴史的背景」(『日本史研究』628号、2014年)
- 宮川展夫「天正期北関東政治史の一齣――徳川・羽柴両氏との関係を中心に」(『駒沢史学』78号、2012年)
- 村上直「徳川氏の関東入国に関する一考察」(『法政史学』47号、1995年)
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