徳川家康の神号「東照大権現」。神格化され、人神として祀られた家康の姿とは?

日光東照宮のイラスト(ACイラストより)
日光東照宮のイラスト(ACイラストより)
江戸幕府の初代征夷大将軍・徳川家康は、死後「東照大権現」として、栃木県にある日光東照宮へ祀られました。全国にある「東照宮」と名のつく神社は、日光東照宮から勧請して(神の分霊を迎えて)建てられたものです。

日光山に祀られた東照大権現。それは一体、どのようなものだったのでしょうか。この記事では、家康の死後に成立した東照大権現の神格を追いながら、人として神に祀られた家康の姿に迫ります。

病床についた最晩年の家康

家康の死への旅路は、元和2年(1616)の正月から始まりました。

当時、家康は数え年で75歳。10年ほど前に子息の秀忠へ将軍職を譲り、駿府城(静岡県)へ移ったものの、大御所として政治を主導していました。

同年1月22日、駿河国田中で病に倒れてからは、一進一退の病状だったといいます。4月に入り、ますます体調が悪化した家康は、各方面へ遺言を告げました。

家康の遺言は伝聞で複数残されており、その解釈については現在でも議論されています。よって、いずれかが正しいとは言い切れませんが、大まかにまとめると、以下のような内容となります。
(『徳川家康の神格化』から要約)

  • 最初は久能山へ埋葬する
  • 葬礼は増上寺(江戸/徳川家の菩提寺)にて行う
  • 位牌は大樹寺(三河国/徳川家の菩提寺)に立てる
  • その後、日光山へ小さな堂をたてて勧請(もしくは改葬)する
  • 八州(関東八州もしくは本州)の鎮守となるだろう

これらの遺言を聞いたのは、家康お抱えの宰相である以心崇伝(臨済宗)と、同じく宗教政策などの要となっていた天海(天台宗)などでした。

さて、こうして示された家康の遺言は、願いどおりに叶えられたのでしょうか?

死した家康、神と祀るか仏の化身となるか

家康は、元和2年(1616)4月17日にこの世を去ります。死因については、現在では胃癌という説が主流です。

久能山へ運ばれ、吉田神道にて祭祀が行われた家康の遺体は、神道的に見ると「神」という立場になりました。そこで、次に必要なのは神号(神としての称号)です。

神号には明神、権現、天神などがあるため、どの神号をつけるべきか、秀忠は朝廷へ使いを出して検討していたようです。ちなみに権現とは、神仏習合の思想から生まれたもので、「仏の化身」という意味を持ちます。

家康の神号が決定する前、先の遺言を受けた以心崇伝と天海の間では揉めごとが起こっていました。

当時、以心崇伝は、久能山から日光山へ改葬する(遺体を移す)場合も、久能山の時と同じく吉田神道にて祭祀を行うつもりでいたようです。

吉田神道は、豊国神社にて「豊国乃大明神(豊臣秀吉)」を祀っているため、家康の神号も「大明神」とすることが望ましいと考えていました。

それに対して天海は、豊臣家が衰退したことをふまえて「大明神」よりも「大権現」の方がふさわしい、と反論したようです。

こうした論争をよそに、同年7月13日、朝廷からの知らせが届きます。それは、家康の神格化が認められ、神号は「権現」とする、というものでした。

その後は朝廷から秀忠へ、権現の前につく神号の案が出されます。「日本」「東光」「東照」「霊威」という4つの案から、秀忠が選んだ神号は「東照」でした。

東照大権現とは何なのか

こうして決まった家康の神号。東照大権現とは、ざっくり説明すると「東方を照らす仏の化身としての神」です。では、「東方を照らす仏」とは何だったのでしょうか。

『東照社縁起』では、家康の父・松平広忠が子授けに薬師如来へ祈願したところ、家康が生まれたという説話が記されています。そこから東照大権現の本地仏(本体の仏)を薬師如来と定めたというのが、現在の定説のようです。

薬師如来の浄土は浄瑠璃世界と呼ばれ、東方にあるとされています。これに加え、家康の誕生地から見て日光が東方であることや、東は五行思想だと春であり、万物が生まれることなどが関連づけられたようです。

東照社本殿に祀られているのは三社で、中央に家康の御神体、左に摩多羅神(またらじん/阿弥陀如来の守護神)、右に日吉山王(ひえさんのう/天台宗比叡山の護法神)が勧請されているということです。

家康を神へと祀りあげた人びと

東照大権現・家康の威光は、その後も周囲の人びとによってパワーアップしていきます。

家康の遺言をめぐる以心崇伝と天海の論争は、天海が日光山での祭祀を指揮したことで一応の決着を見たようです。そして天海は、家康の神格をさらに高めるべく動いていました。

天海が著した『東照社縁起』では、家康は「必ず山王(一実)神道を守り他流を交ふべからず」と述べたと伝えています。この山王(一実)神道は、秀忠が病没した寛永9年(1632)以降、家康を強く敬愛していた三代将軍家光のもとで定義されました。

家光が祖父・家康を崇拝していた理由。それは家康から跡継ぎとして寵愛を受けていたことが背景にあるようです。実際に、家康は死の直前、家光の元服を後見すべく手配していたと伝えられています。

そして寛永13年(1636)年、家光は日光東照社の大造営を行いました。現在の日光東照宮の絢爛豪華なイメージは、この時にほぼ完成されたとのことです。

正保2年(1645)になると、家光は日光東照社を「日光東照宮」とするように朝廷へ願い出て、これが認められます。それまで「宮」と名付けられたのは天皇と関わりのある神社だけで、人が神として祀られている神社では北野天満宮のみでした。この時すでに天海は没していましたが、きっと草葉の陰で喜んでいたことでしょう。

次に、庶民から見た家康のイメージとして、家康にまつわる民話を紹介します。

歴史上の偉人には地名由来や寺社縁起などの話がつきものですが、それは家康も同様でした。埼玉県八潮市若柳では、関ケ原の合戦前に家康が地面にさした箸から柳の芽が出て、村人たちは家康が天下を取ったと喜び、地名の由来となったといいます。

三方ヶ原の戦いでは、敗走の際に村へ逃げ込んだ家康が、その地の人に親切にしてもらって感謝し、後に褒美を与えたという話が静岡県の諸地域に多く伝わっています。

また、かつて三河国だった愛知県豊田市小原町の賀茂原神社には「家康の腰掛石」があり、天正4年(1576)に小原を訪れた家康が腰掛けたとされています。

このような民話が生まれた理由は、親しみやすい施政者としての家康像が、民衆の間に広まっていたとも考えられるのではないでしょうか。

おわりに

かつての日本には、北野天満宮の菅原道真のように、人が転じた悪霊を神として災いを鎮める思想がありました。

民俗学者の小松和彦は、この「祟り神」の概念から、生前の業績を称えて祀られた「顕彰神」が派生したと説いています。これは、同じく民俗学者の宮田登が提唱した、存命中の人物が神となる「生き神信仰」とは表裏一体の信仰でした。

最後に、家康の遺言を思い出してみましょう。「日光へ小さな堂をたてる」という家康の希望はだいぶ大仰に叶えられたようですが、それも家康の神格化を盛大に行いたいという周囲の願いゆえだったとも思えます。

そしてこの後、日光東照宮は明治政府によって二社一寺へと分立されてしまいますが、今でも東照宮には多くの参拝客が訪れ、パワースポットとして愛されています。

戦乱の時代へ幕を引き、天下を統一した徳川家康の人生と功績は、これからも語り継がれることでしょう。


【主な参考文献】
  • 仏書刊行会編『大日本仏教全書 第140巻 本光国師日記 第3(崇伝撰)』(仏書刊行会、1922年 ※国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 平田職忠、職在『平田職忠職在日記』(宮内庁書陵部、新日本古典籍総合データベース)
  • 中野光浩「民衆が祀る東照宮の歴史的性格について」『論集きんせい24号』(近世史研究会、2002年)
  • 日本史史料研究会、平野明夫『家康研究の最前線』(洋泉社、2016年)
  • 及川祥平『偉人崇拝の民俗学』(勉誠出版、2017年)
  • 野村玄『徳川家康の神格化』(平凡社、2019年)
  • 小松和彦『神になった日本人』(中央公論新社、2020年)
  • 日光東照宮HP
  • 久能山東照宮HP
  • 八潮市HP 八潮のむかしばなし(九話)
  • 小原観光協会HP おばらのパワースポット

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  この記事を書いた人
なずなはな さん
民俗学が好きなライターです。松尾芭蕉の俳句「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」から名前を取りました。民話や伝説、神話を特に好みます。先達の研究者の方々へ、心から敬意を表します。

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