関ヶ原合戦と宇喜多秀家の苦境…西軍として出陣した宇喜多軍は、非正規の牢人衆が主力だった

関ヶ原の戦いにおける宇喜多秀家陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)
関ヶ原の戦いにおける宇喜多秀家陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)

宇喜多秀家の来歴

 天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐が終わり、大戦争の時代は終わった。その後、国内の大規模な戦いがなくなったので、牢人の活躍の場が失われた。ところが、慶長3年(1598)8月に秀吉が亡くなると、その2年後に関ヶ原合戦が勃発した。関ヶ原合戦にチャンスを求めて、数多くの牢人たちが参陣したのである。

 関ヶ原合戦で牢人が軍勢に加わった大名としては、宇喜多氏を挙げることができる。天正年間以降、宇喜多直家は備前・美作などを領する大名として台頭した。もともと直家は毛利氏に与していたが、最終的に織田方に寝返って毛利氏と敵対した。

 天正9年(1581)に直家が没すると、子の秀家が家督を継承した。秀家の運命を変えたのが、翌年に勃発した本能寺の変である。変で信長が明智光秀に討たれると、代わりに台頭したのが羽柴(豊臣)秀吉だった。

宇喜多秀家と豪姫の像
宇喜多秀家と豪姫の像

 のちに秀家は、秀吉の養女・豪(前田利家の娘)を妻に迎えると、信じがたいスピードで出世した。秀家は四国、九州征伐や朝鮮出兵にも出陣し、豊臣政権内で重用された。秀吉の晩年には、前田利家(のち前田利長)、毛利輝元、小早川隆景(のち上杉景勝)、毛利輝元らとともに、五大老に任じられたのである。

 ところが、後ろ盾の秀吉が亡くなると、秀家の立場は不安定になった。秀家は石田三成ととともに豊臣政権を支え、反家康の姿勢を明確にした。緊迫した情勢の中で、秀家の足元を揺るがせたのが、「宇喜多騒動」という御家騒動だった。

宇喜多騒動の勃発

 宇喜多騒動が勃発したのは、慶長4年(1599)末頃である。当時、秀家のもとには中村次郎兵衛が仕えていた。もともと次郎兵衛は、前田家に仕えていたので新参だったが、秀家に重用された。ところが、次郎兵衛は譜代の家臣を差し置いて、専横な振る舞いをしていたという。

 秀家は鷹や能楽に興じて散財し、検地によって農民から過酷な年貢の収奪を行うなど、極めて評判が悪かったという。また、日蓮宗を信奉する家臣とキリスト教を信仰する家臣との間には、対立があったといわれている。

 秀家が遊興(能、鷹)に耽ったとか、苛烈な検地を行ったとか、あるいは家臣の宗教上の対立については、編纂物に書かれたもので否定的な見解が占めている。

 宇喜多氏を支える家臣は、戸川氏のように1万石以上の大身の者が多かった。彼らは宇喜多氏の家臣とはいえ、一領主としての性格を持っていたのである。秀家は官僚制を整備するため、中村氏のような出頭人を起用したが、一方で古参の家臣との軋轢が生じた。

 こうして慶長4年末頃、大坂の宇喜多氏の屋敷で宇喜多騒動が勃発した。徳川家康の仲介により、騒動は収まったものの、重臣の戸川氏らは次々と宇喜多氏家中を去ったのである。宇喜多騒動で多くの家臣が去ったので、宇喜多家中は弱体化することになった。

牢人が主力だった宇喜多軍

 こうした状態で、宇喜多氏は慶長5年(1600)9月に関ヶ原合戦を迎えた。吉川広家は、宇喜多秀家と小早川秀秋の両中納言を若輩者と断じたうえで、その軍勢は「区々」つまり「ばらばらでまとまりがない」と切り捨てた(「吉川家文書」)。

 宇喜多氏は関ヶ原合戦に際して、備前・美作の配下の領主などから人質を徴集していた(「新出沼元文書」)。秀家は人質を徴集しなくてはならないほど、家臣との信頼関係は崩れていたのだ。これでは、一致団結した行動が取れないはずである。

 宇喜多氏の率いる軍勢は兵が少なく、重臣が去ったこともあり、往時の勢いを失っていた。不足した軍勢を補うため、秀家は牢人を募ったのである。同年8月、秀家のもとに残った明石掃部は、かつての盟友の戸川達安に書状を送った(「水原岩太郎氏所蔵文書」)。

 書状の内容で重要なのは、戸川氏のさまざまな不安をよそに、宇喜多軍は上方(大坂)で牢人衆を招いたので、万全の態勢だと掃部が述べたことである。軍勢不足は牢人を雇うことで補ったが、宇喜多軍の厳しい内実をあえて隠したのだ。

あっけなく崩壊した宇喜多軍

 宇喜多軍は「組」を編成して合戦に臨んでおり、本来は統率が取れていたと考えられる。しかし、いかに牢人で補強したとはいえ、宇喜多軍の軍勢はばらばらでまとまりがなかった。牢人は勝ち戦ならは威力を発揮したかもしれないが、崩れ出すとすぐさま逃げ出したのではないだろうか。

 案の定、宇喜多軍は合戦が開始すると、早い段階で総崩れとなり、ついに戦局を挽回することができなかった。秀家は戦線を離脱し、のちに島津氏を頼って薩摩へと落ち延びた。晩年は流人第1号として、八丈島で生涯を終えることになった。

 宇喜多氏のように家中が崩壊した場合は、十分な軍勢を確保できなかったため、牢人に頼らざるを得なかった。当時、合戦に出陣して、仕官の機会をうかがおうとした牢人は、相当いたと考えられる。しかし、非正規軍である牢人の占める比重が高くなると、軍勢の一体感が失われ、勝利することが難しくなったのである。

八丈島にある宇喜多秀家の墓
八丈島にある宇喜多秀家の墓

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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