関ヶ原合戦後、牢人の扱いが大きな社会問題に… 諸大名、牢人たちがそれぞれ直面した苦境

関ヶ原合戦が生み出した牢人

 慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原合戦は短時間で東軍の圧勝に終わった。東軍に与した大名の多くは加増されたが、態度が不鮮明な大名や西軍に与した大名は、改易もしくは所領が大幅に削減された。

 たとえば、上杉景勝は会津120万石から米沢30万石へと削減された。また、土壇場で東軍についた毛利輝元は、安芸など120万石から長門など37万石へと減らされた。ほかにも挙げたらキリがないが、多くの西軍大名が家康から厳しい処分を受けた。

 西軍の大名が減封、改易になるのに伴い、大量に発生したのが居場所を失った牢人たちである。なかでも、改易され主君を失った配下の武士は、必然的に牢人にならざるを得なかった。

 牢人とは「主を失った武士」のことで、近世以降は「浪人」と表記された。主家を失った牢人は再仕官を志すことになるが、その道は極めて厳しかったといえる。その一例として、宇喜多氏の配下にあった美作の江見氏を取り上げてみよう。

美作江見氏とは

 江見氏は美作国瀬戸村(岡山県美作市)に本拠を保持しており、室町幕府の外様衆を務めたこともある名族だった。文禄・慶長年間に活躍した人物として、江見景房という人物がいた。景房は宇喜多氏に従って文禄・慶長の役で朝鮮に出陣したのち、諸国を周遊して武者修行に励んでいたという(「江見家系譜」)。

 おそらく、その後は関ヶ原合戦にも宇喜多氏の配下として出陣していたと考えられる。その結果、宇喜多氏は敗北を喫し、景房は牢人の身となったのだろう。やがて、景房は大きな決意をすることになった。

 景房は兄の秀清とその子秀綱から「金子十両」「先祖の系図」「赤松氏や浦上氏に宛てられた先祖の証文」を借り受けた。とりわけ「先祖の系図」「赤松氏や浦上氏に宛てられた先祖の証文」は、家の歴史を語るうえで非常に貴重なものである。

 代わりに、景房は「瀬戸村の田畠と家来五郎右衛門」の支配を秀清らに任せ、「長船忠光の大脇差」を預けた(「江見家文書」)。

仕官活動の旅に出た景房

 なぜ、景房は金銭のみならず、先祖代々から伝わる系図や古文書を借り受け、田畠などの支配を秀清らに任せたのだろうか。

 その理由は、景房が仕官活動をするためであり、それが叶えば「金子十両」などを秀清らに返却し、預けた「瀬戸村の田畠」なども返してもらう予定だったと考えられる。すでに、関ヶ原合戦後には主家の宇喜多氏が改易されており、江見氏は武士身分で生き残ることができるか否か、ちょうど瀬戸際にあったのだろう。

 景房は決死の思いで、秀清から系図などを借り受け、再仕官するための旅に出た。景房が系図などを持っていたのは、それが一種の履歴書であり、先祖の軍功を物語るからである。こうした例はほかにもあり、決して珍しいことではない。

実現しなかった仕官

 その後の景房の動きは、詳しくわかっていない。結論を言えば、景房の仕官は実現しなかった。

 「江見家系譜」には、「老年におよんで勝田郡下山村(美作市)に住み、子孫も同所に住んでいる」と記されており、最終的に景房は帰農の道を選択したことがわかる。結局、景房の夢は叶わず、故郷に戻って農業に従事したのである。

 景房の仕官活動が失敗したのには、もちろん理由があった。すでに大戦争の時代が終結し、各大名家は必要以上に武士を召し抱える必要がなくなった。それゆえ、いくら景房が努力しても、無駄だったということになろう。

 こうして文書や系図を携えて、仕官の道を探った大名は江見氏だけではない。たとえば、東国大名の家臣の文書が西国に残されていることがあり、甲斐武田氏の文書が中国地方で発見されることも珍しくない。

 つまり、彼らは再仕官のため東国から西国へと渡り歩いたが、結局あきらめて同地に居を構え、文書がそこに残ったということになる。むろん、中には仕官に成功した者もいたことであろう。

苦境に喘ぐ大名

 一方、大幅に知行を削減された大名は、苦境に喘いでいた。問題は知行が大幅に減らされたにもかかわらず、家臣の数が変わらないという点にあった。つまり、財政が逼迫していたのである。会津に移った上杉氏は、もとの4分の1の30万石になったが、それでも家臣の数を減らさなかった。時代の進行とともに財政は厳しくなり、近世に至って会津藩の財政状態は深刻化した。

 一方で、減封となった大名は召抱えた家臣を解雇しないために、家臣の知行を削減するという手段を用いるところもあった。

 毛利氏の場合も、石高が約3分の1の37万石に大幅減となり、財政は厳しくなっていた。毛利氏は財政問題を解消すべく、1人あたりの知行地を大幅に減少して対応した(「毛利家文書」)。まさしく苦渋の決断だった。こうした措置により、毛利氏はできるだけ牢人を出さないように配慮したのである。家臣からは不満が噴出したであろうが、仕方がない対応策だった。

 上杉氏や毛利氏の例に限らず、大幅に減封された大名は、同じような問題を抱えていた。それでも、牢人問題は解決することがなかった。牢人は家を借りることすら困難で、各地を徘徊していた。そんな牢人が最後の戦いの場に選んだのが大坂の陣だった。

 多くの牢人は豊臣方に結集し、再び仕官できることを念願とした。しかし、慶長20年(1615)5月、豊臣秀頼は徳川家康に負け、豊臣家は滅亡した。牢人たちは大坂城を退去し、再び牢人生活を余儀なくされたのである。

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  この記事を書いた人
渡邊大門 さん
1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書(新刊)、 『豊臣五奉行と家 ...

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