「宇喜多直家」稀代の梟雄と評される武将は実はかなりの苦労人!?

中国地方の三大謀将と呼ばれる武将がいるのをご存じであろうか。尼子経久、毛利元就、そして宇喜多直家(うきた なおいえ)である。

このうち尼子経久と毛利元就は割とメジャーであるが、宇喜多直家はどちらかと言うとマイナーな存在である。息子の秀家はかなり名が知られているにも関わらずである。そのためアクの強い所ばかり強調されてしまっているという側面はあるだろう。しかし、史料を調べていくと稀代の梟雄に意外な一面があることがわかる。

それでは宇喜多直家の実像を史料の中に求めてみよう。

没落寸前

宇喜多直家は享禄2(1529)年、宇喜多興家を父として生を受けた。

そもそも宇喜多家は赤松氏の守護代浦上家に仕える家柄であったという。ところが享禄4(1531)年、権勢を誇った浦上村宗が室町幕府の要請により畿内への東上作戦を遂行中に敗死する。

この混乱の最中に直家の祖父、能家が暗殺され、宇喜多家の家督は宇喜多大和守(能家の弟にあたる国定)家に移された。このことにより、興家・直家父子は放浪生活を余儀なくされたという。まだ幼少であった直家にとって、この体験は強烈であったと思われる。


そして更なる悲劇が直家を襲う。父の興家が島村家との論争が元で横死してしまったのだ。

およそ戦国武将らしからぬ死を遂げた興家であるが、事の次第を調べてみると、どうやら少々難ありの人物であったようだ。というのも、横死の原因となった論争というのが島村一族の、しかも元服前の少年たちとの間で起こったものだと言われているからである。

一度は宇喜多家の家督を継いだ立場の人間の立ち振る舞いとしては、いかがなものか。論争の結果、殺害されてしまったというのだから残念な武将と言われても致し方無いようにも思える。

『常山紀談』にも興家は愚かであったという記述がある。もっとも、『常山紀談』は史料としての信憑性は高くない。どちらかというと説話集に近いと言われているので、鵜呑みにするのは少々危険かも知れない。

しかし、説話とは「人々の間に語り継がれてきた話」という意味があるようである。それを鑑みれば、少なくとも興家の人物評があまりよろしくなかったのは事実だろう。

ともかく、没落寸前の境遇となった直家はしばし雌伏の時を過ごすこととなる。

浦上政宗との死闘と家督奪還

当時、宇喜多氏が仕えていた浦上氏も、尼子氏への対応を巡って家中を二分する対立が起きていた。直家は浦上政宗の弟である宗景に国衆として与した。

『古今武家盛衰記』によれば、直家は容姿端麗にして知勇に優れていたという。そのため、宗景は直家を重用したと伝わる。直家は宗景と敵対する政宗側に繰り返し攻撃を仕掛け、その功により頭角を現わしていく。

ところで、直家が政宗を敵対視したのは何故だろうか。その大きな理由は宇喜多大和守家が政宗方についていたからだと思われる。

祖父・能家の代までは宇喜多家の家督を引き継いできたのが直家の系統であるだけに、直家は家督の奪還を目論んでいたようである。

直家は謀略に優れた武将でもあった。永禄4(1561)年、龍口城主・穝所元常の攻略に際し、戦上手で知られる元常が男色であるとの噂を得るや、家臣の中で美少年の誉れ高い岡剛介を刺客に送って暗殺したという。

いきなり城主が暗殺されるという大事に城内は大混乱に陥る。直家は労せず龍口城を手に入れたのだ。同じ頃、自らが海賊になることで周囲の海賊を一掃したとも伝わる。

永禄6(1563)年、こうした直家の活躍もあり、浦上政宗と浦上宗景が和睦する。10年以上もの対立を経ての和睦であった。直家は返す刀で宇喜多大和守家をも制圧し、悲願の家督奪還を果たす。

領土拡大

永禄9(1566)年2月、直家は当時まだそれほど普及していなかった鉄砲を使い、美作国へ進出してきた三村家親を暗殺したという。暗殺は阿波細川家の浪人であった遠藤俊通・遠藤秀清兄弟に依頼。美作の光善寺で家臣と評議中であった家親を短筒の火縄銃で狙撃したと伝わる。

永禄10(1567)年、暗殺された三村家親の後継者である元親は2万もの大軍で宇喜多方の明善寺城を攻めた。直家の軍勢は明石景親・岡家利らわずか5千であったが、巧みな挟撃策でこれを撃退する。

この明善寺合戦により、備前西部まで進出していた備中勢をあらかた駆逐することができ、主家である浦上家を凌ぐ勢力となった。

さらには、金川城主・松田元輝や、岡山城主・金光宗高など、姻戚関係を結んでいた者たちを謀略を用いて没落させ、領土を拡大していく。それと同時に直家はかなりの悪名を背負うことになったのである。

しかし『和気絹』によれば、これらの者たちはいずれも直家の手に余るものであり、とりあえず身内に取り込んで安心させ、タイミングを見て暗殺・謀殺したとの記述がある。

戦国時代は殺すか殺されるかのギリギリの局面が多いことを考えると、致し方ないという側面も多いように感じる。これほど非情な振る舞いに出たもう1つの理由は、主家・浦上家からの独立と言う大きな目標ができたからではないだろうか。

永禄12(1569)年、直家は織田信長、赤松政秀と連合し、浦上宗景を打倒すべく挙兵する。しかし、政秀が黒田職隆・孝高(官兵衛)父子に敗北し、信長の援軍も越前征伐のために兵を引いてしまう、という事態に陥ってしまう。

これを好機と宗景は、疲弊した赤松方の龍野城を攻撃しこれを降伏させてしまう。完全に孤立した直家は、あっさり宗景に降伏する。

驚いたことに宗景は、今回は特別と思ったのか直家は助命されて帰参まで許されている。直家にしては若干策が拙いような気もするが、負けて降伏すれば宗景は自分を許すに違いないという読みがあったのだろう。

実力者となっていた直家を降伏させ、配下に置けば自分の地位は盤石だと宗景は考えるに違いないと直家は判断したのではないか。それに加えて宗影は男色を好み、美少年であった直家を寵愛していた時期があるのだ。

天正2(1574)年、直家は再び宗景からの独立を目指して動き出す。前回の敗北から実に5年を費やしており、前回得られた教訓を基に緻密な策を繰り出したのである。

まずは手始めに浦上政宗の孫・久松丸に目を付け、小寺政職に久松丸の備前入りを願い出た。これは当時久松丸が小寺家預かりになっていたからであるが、かつて備前を支配していた政宗の孫を担ぎ上げて大義名分を得ようという策であった。今や備前随一の勢力を誇るまでになった直家が久松丸を擁立するとなれば、宗景方の家臣の切り崩しは比較的容易と踏んだわけだ。

この読みは的中する。小寺政職の許可を得た直家は久松丸を擁立し、政宗に反旗を翻すや宗景方の離反が続々と起こったのだ。直家はこの機を逃さず、次の手を打つ。宗景とは険悪な関係であった毛利と結び、軍事力の拡大に成功する。

天正3(1575)年、直家は遂に明石行雄を始めとする宗景方も重臣達を寝返らせることに成功した。形勢不利と見た宗景は播磨の小寺政職を頼り、退却したのである。

これにより、直家は備前・備中・美作の一部にまで支配権を拡大することとなった。この後も旧浦上家臣の残党が勢力を残しており、その蜂起に多少てこずったが、宗景を陰から支援していた美作鷲山城主・星賀光重討ってからはその領内の安定統治がなされるようになる。

信長への臣従

直家は当初、第三次信長包囲網に参加するなど、反信長の立場であったようだ。しかし、天正5(1577)年に信長の中国征伐が開始され、羽柴秀吉が侵攻して来ると状況は一変する。

天正7(1579)年には信長方に内応した三星城主・後藤勝基を大軍をもって撃破するも、信長の勢力の大きさを目の当たりにしたのか、同年10月には毛利との同盟を破棄して信長に服属したのである。

織田信長のイラスト
この頃の信長は既に大きく勢力を広げ、天下人に最も近い存在だった。

私は、直家が秀吉の戦いぶりや人となりを見て「これは到底かなわない」と判断したのではないかと勘ぐっている。これ以降、織田方として美作・備前各地を転戦し、毛利との戦いに明け暮れたのであった。

直家は、天正9(1581)年2月14日、中国征伐の最中に岡山城で死去する。死因は「尻はす」という病によるものであったという。

「尻はす」については『備前軍記』に、「或説に、直家の腫物は、尻はすといふものにて、膿血出づることおびただし。是をひたし取り、衣類を城下の川へ流し捨つるを、川下の額が瀬にて、乞食共度々拾ひけるに、…」とある。

どうやら出血を伴う腫物(皮膚の病変)であることはわかるが、詳しいことは判明していない。ひょっとすると皮膚癌なのかもしれない。

あとがき

直家が中国地方の三大謀将の1人に数えられていることは冒頭でも述べた。その中でも直家の評は「悪逆暴戻」や「資性奸佞」など、はっきり言って酷いの一言である。

中にはサイコパス的性格という評すらあることには驚かされる。それはおそらく姻戚関係にある者まであっさり暗殺してしまうところから来ているのだろうとは推察できる。しかし、史料を調べると暗殺を命じた古参の家臣を使い捨てにしないことがわかり、その実像は少々異なるのではないかと感じた。

また、自分の城が飢えると言う事態になると、自ら食を断って食糧の維持に努めるなど、名君とも取れる振る舞いを見せている。これが、謀殺を繰り返しながらも、家臣に背かれなかった理由ではないか。

同じく梟雄と呼ばれた斎藤道三の最期と比べると、非常に興味深く感じられるのは私だけだろうか。


【主な参考文献】
  • 森本繁『<宇喜多直家と戦国時代>毛利元就になれなかった備前の梟雄 』(学研プラス、2014年)
  • 渡邊大門 『戦国期浦上氏・宇喜多氏と地域権力』(岩田書院、2011年)
  • 柴田一 『新釈 備前軍記』(山陽新聞社、1986年)

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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