【家紋】マムシと呼ばれた下剋上大名!「斎藤道三」で有名な美濃斎藤氏の家紋について
- 2020/01/08
戦国時代を象徴するもののひとつに、「下剋上」という言葉があります。下が上を剋する、すなわち下位のものが上位の者を倒してその地位に成り代わることを指しています。家臣が主君を討つ、子が親を退ける、そんな厳しく目まぐるしいパワーゲームの時代と言い換えてもよいでしょう。その規模は大変に大きく、一国の統治者すら下剋上によって交代することも珍しくありませんでした。
なかでも有名な下剋上大名の一人として、「斎藤道三」の名を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。着々と力を蓄えて美濃(現在の岐阜県あたり)の国主「土岐氏」を放逐し、事実上の統治者となった道三はその権謀術数から「マムシ」の異名で知られています。
一方で、織田信長の岳父としての位置づけから語られることも多く、若き信長の将来性を見抜いた先見の明の持ち主というイメージも強いでしょう。伝説に彩られた人物ですが通説と史実には異なる点も多く、近年では新たな「斎藤道三像」が浮かび上がりつつあるようです。
そんな道三による、美濃斎藤氏の家紋についてのお話です。
なかでも有名な下剋上大名の一人として、「斎藤道三」の名を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。着々と力を蓄えて美濃(現在の岐阜県あたり)の国主「土岐氏」を放逐し、事実上の統治者となった道三はその権謀術数から「マムシ」の異名で知られています。
一方で、織田信長の岳父としての位置づけから語られることも多く、若き信長の将来性を見抜いた先見の明の持ち主というイメージも強いでしょう。伝説に彩られた人物ですが通説と史実には異なる点も多く、近年では新たな「斎藤道三像」が浮かび上がりつつあるようです。
そんな道三による、美濃斎藤氏の家紋についてのお話です。
「斎藤 道三」の出自とは
これまで斎藤道三といえば、一介の油商人から身を興して武将となり、やがて美濃一国を手中に収めた人物という伝説が語られてきました。銭の小さな穴を通して油を注ぎ、少しでも油がこぼれたら代金をとらないというパフォーマンスで評判となった、というエピソードが有名ですね。
その技前を惜しまれたことがきっかけで武士に転向し、主家の家督争いに乗じたクーデターで事実上の美濃国主となった……という流れが従来の説でした。
しかし、発見された文書の内容などから「国盗り」は道三一代によるものではなく、その父の代からの事業と考えるのが現在の定説となっています。
まだ不明な点は多いものの、『岐阜市史』によると道三の父「新左衛門尉」は京都・北面の武士の家系でした。一度は僧侶となり、還俗して美濃の国主・土岐氏の家臣であった長井氏に仕えたといいます。
したがって道三もこの父のもと、武士として育てられたものと考えられています。有名な油売りなどのエピソードは、新左衛門尉の事績と混同された部分が大きいという可能性も指摘されています。
新左衛門尉は後に姓を「長井」に改め、その家督を継いだ道三は当初、「長井規秀」などと名乗りました。土岐氏の家督争いのさなか、道三は美濃守護代・斎藤氏の名跡を継いで「斎藤」を称します。
このときは「斎藤利政」などの名が見え、この名乗りが美濃国統治者としての道三の通り名だったと考えられます。
よく知られている「道三」は法名で、最晩年の二年間ほどの名だったようです。まるで蛇が脱皮を繰り返すように、名を変えて主家にとって代わり、こうして「斎藤道三」ができあがっていきました。
美濃斎藤氏の紋について
道三が使用した家紋には、いくつかの種類が想定されています。中でも道三オリジナルと考えられているものが「二頭立波」の紋です。これは菩提寺である「常在寺」が所蔵する道三肖像画の裃に描かれているもので、文字通り波頭と飛沫をデフォルメした図案となっています。道三の出自にはまだ不明な点が多いため、代々使用した本来の紋が何か、あるいは存在したのかということはわかっていません。しかし、道三(美濃斎藤氏)は主家の当主に成り代わる方法でのし上がっていったことから、それぞれの氏族の家紋を時々によって用いたのではと考えられています。
例えば斎藤氏を称する前の長井姓時代には、長井氏の紋である「一文字三星」が使われました。これは中国の毛利氏の紋とよく似ていますが、「一」の部分が毛筆体ではなく長方形となっているのが特徴です。
一方、美濃国守護代であった本来の斎藤氏は「撫子(なでしこ)」の紋を用いていました。しかし斎藤氏の名跡を継いだ道三が撫子紋を使ったという確実な記録が見つかっておらず、先述の二頭立波をメインの紋と位置付けていたと考えられています。
また、道三の嫡男である「斎藤義龍」は「五三桐」の紋を使用しているのが確認され、氏族としての一貫した紋が定着していたわけではないようです。
波の紋に込められた思いとは?
道三が考案したとされている二頭立波の紋が、何に着想を得たものかはわかっていません。しかし、寄せては返す波の様子で戦や兵法の極意を示したものという解釈もあり、独自の哲学を表現したとしても不思議はないでしょう。また、本来の斎藤氏が使用した撫子紋は、花弁の細かい形状を別にすると国主・土岐氏の「桔梗紋」とそっくりなレイアウトとなっています。これは遠目では両者の見分けが困難であったことが予想され、陣中での部隊識別に支障をきたす可能性も指摘されています。
道三はあえてエンブレムを刷新することで自己の存在と部隊の所在を明確にし、新たな統治者であることを示す意図もあったのかもしれませんね。
おわりに
主家に取って代わり、やがては一国を支配するまでの地位に上り詰めた斎藤道三。オリジナルの家紋を創り出したことから、自身の新しい「斎藤家」にも強いこだわりがあったのでしょうか。しかし有名な話では、道三は嫡男の義龍よりも娘婿の織田信長を高く評価し、遺言状に美濃一国を信長に譲る旨を記したとされています。このことから、自身の血縁への家督相続よりも、有能で力のある者が国を統治すべきという信念を持った人物だったとも考えられます。
謀略渦巻く戦国の世を生き抜いた道三は、生粋のリアリストだったのでしょう。紋に描かれた波のように、押し寄せるべき時と退くべき時の「機」を体で理解していたのではないでしょうか。
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【参考文献】
- 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ
- 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研
- 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
- 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
- 『岐阜市史』 岐阜市 1928
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