鶴御成 鶴は美味しい?…将軍家から天皇陛下への献上品
- 2024/07/26
徳川家康は鷹狩りが好きだったことでよく知られています。鷹狩りというのはしつけた鷹を獲物に向かって飛ばし、捕まえさせるというもので、その鷹の飼育係を鷹匠(たかじょう)と呼んでいました。
鷹匠は決して武士の中では高い身分ではなかったのですが、家康の参謀を務めた本多正信は鷹匠の出身であったことから佐渡1国以外はすべて拝辞して受けつけませんでした。息子の正純にも、「決して佐渡以上に知行を望んではならない」と言い聞かせていたそうです。何故なら鷹匠という低い身分で大国を頂くと、他の武士の怨嗟を買うからです。事実、正純は大国の知行を受けたばかりに、結果的に失脚しています。
しかし家康が去り、平和な江戸時代が始まると、将軍家では鷹狩りの風習は途絶えてしまいました。5代綱吉のころは「生類憐みの令」もあり、鷹狩りなどもってのほかでした。しかし意外や意外、9代家重の時代には鷹狩りが復活します。それが 「鶴御成(つるおなり)」という行事でした。鷹匠が再び、日の目を見る時が来たのです。
なぜ、家重が鶴御成を始めたのかは分かりません。ですが、これには意外に知られていない日本の食文化が関係しているようなのです。
鷹匠は決して武士の中では高い身分ではなかったのですが、家康の参謀を務めた本多正信は鷹匠の出身であったことから佐渡1国以外はすべて拝辞して受けつけませんでした。息子の正純にも、「決して佐渡以上に知行を望んではならない」と言い聞かせていたそうです。何故なら鷹匠という低い身分で大国を頂くと、他の武士の怨嗟を買うからです。事実、正純は大国の知行を受けたばかりに、結果的に失脚しています。
しかし家康が去り、平和な江戸時代が始まると、将軍家では鷹狩りの風習は途絶えてしまいました。5代綱吉のころは「生類憐みの令」もあり、鷹狩りなどもってのほかでした。しかし意外や意外、9代家重の時代には鷹狩りが復活します。それが 「鶴御成(つるおなり)」という行事でした。鷹匠が再び、日の目を見る時が来たのです。
なぜ、家重が鶴御成を始めたのかは分かりません。ですが、これには意外に知られていない日本の食文化が関係しているようなのです。
鶴御成の手順
まず現在の江戸川区葛西にあったお狩場(将軍家専用の狩場)に鶴がやってきます。すると狩場の担当者は餌をやって鶴を手なづけます。一方、鳥見役という役人が手なづけた鶴の肉付きの具合を見て “頃合いだな” と思ったら江戸城に知らせ、閣僚の間で鶴御成の日が定められます。鶴御成は徳川将軍が自ら狩りをするので、道中にあたる家はすべて「煙止め」といって火を使うことを禁じられます。また外出も一切禁止です。さらに家の戸には目張りを張り、のぞき見ができないようにする必要がありました。さらに道筋にあたる家は、男性はみんな土間に座って土下座、女性は床の上で土下座です。家の戸はすべて開け放ち、誰も隠れていないことを示す必要もありました。
さて、お狩場につくと鷹匠が目標の鶴を確認して準備にかかります。そして将軍の合図で鷹が放たれ、鶴に襲いかかります。鶴は驚いて飛び立つので鷹と鶴が空中戦を繰り広げる訳です。すると鷹匠、鳥見役、供の者は全員、その鶴を追いかけ、地上から「上意!上意!」と大声を出して従うよう命じます。
もちろん、鶴はそんなことは知ったことではありませんので鷹を追い払おうと頑張ります。鷹の形勢が危ないと見れば、鷹匠は第二・第三の鷹を放ち、さすがに3対1となっては鶴は勝てずに、ついに地上に落ちてきます。
その後、鷹匠は捕らえた鶴を将軍の目の前で横腹を裂き、臓物を捨てて塩を詰め、腹を閉じます。そして江戸城に戻ると、樽酒が開けられ、鶴の血を滴らせた酒が皆に振舞われました。一方、塩付けの鶴は東海道を下り、京都まで運ばれて天皇陛下に献上されます。天皇陛下は鶴を吸い物にして召し上がられるのが通例でした。
以上が鶴御成の手順です。しかし何か不思議な感じがしないでしょうか?
というのも、まず鶴は現在では食用にはしませんし、そもそも食べられるということすら知られていません。しかし家重は、それが食べられる鳥であり、しかも「非常に美味」であることを知っていたと思われます。そうでなければ鶴御成という恒例行事をしようとは思わないですし、ましてや天皇陛下に献上なんてもってのほかでしょう。
では鶴というのは美味しいのでしょうか?
元禄時代の名優、坂田藤十郎の逸話
坂田藤十郎といえば歌舞伎の名門です。元禄時代(5代綱吉の時代)、坂田藤十郎が大津で銀10枚で鶴を一匹買い、普段のお吸い物に使っていたという話が『西鶴置土産』に書かれています。実は当時の松前藩(北海道を所領とする藩)では鶴の塩漬けを生産しており、主に輸出品としていました。なんでも「鶴の姿漬け」だったそうで、なかなか見ごたえある品物だったようです。
この松前藩の鶴の姿塩漬けは、外国だけでなく、大阪や江戸にももたらされ、主に上流階級に食べられていたようです。江戸時代きっての一流料亭「八百善」のメニューで、吸い物のトップは鶴肉の吸い物だったとか…。
案外に食べられていたのですね。八百善の記すところによると、鶴の血と肉は非常に香ばしい香りがし、肉はとても美味なのだそうです。鶴御成の最後に血を滴らせた酒が振舞われたのも、その血が生臭いものではなく、とても香ばしかったからなのです。
なるほど。香りが良い食材は確かに「お吸い物」が最も適した料理法であり、鶴肉の特性を良く生かしたものだったのですね。それで坂田藤十郎も「お吸い物」にして食べていた、という訳です。
ちなみに上流階級では生肉も賞味されていたようで江戸城でも大奥では鶴の肉が出されることも、よくあったのだそうです。だから家重も知っていたのです。
ただ、9代将軍・徳川家重というと、愚鈍の人物という一般評であり、とてもそんな粋な行事を始めそうなイメージはありません。しかし彼が鶴御成を始めたことに対し、私は特に違和感を感じていません。というのも、家重は身体的な問題は抱えていたものの、実は頭脳は非常に優秀な人物だった、と私は考えているからです。
鶴にも色々と種類がある
私達は鶴というと、すぐに頭がぽちっと赤い「丹頂鶴」を思いうかべますが、鶴にも色々な種類があり、主に食用にされていたのは「ナベヅル」という、からだが灰色の鶴でした。丹頂鶴は不味いのだそうです。松前藩産の塩漬けだけでなく、鶴御成が終われば、武士階級は鶴狩りをしても良いことになっていたので、盛んに狩られ、年末の贈答品などに使われていたそうです。ちなみに以前は誰でも鶴狩りをして問題はなかったのですが、8代将軍吉宗が “武士以外は鶴を狩ってはならぬ” という決まりを作ったため、それ以降は武士階級の鷹狩りの目標として鶴は狩られました。狩られた鶴は「鶴は千年、亀は万年」と言われるように、いかにもご利益がありそうなので、薬効のある贈り物とお歳暮品として盛んに使われていたのです。
吉宗は一般人の鶴狩りを禁止しましたが、武士階級には「文武両道の一環」として鷹狩りをおおいに奨励していたため、案外に冬の江戸市中には鶴肉が飛び交っていました。しかし一般庶民が口にできるものではなく、わずかに高級料亭の八百善などで食べられる程度だったようです。
八百善の四代目・善四郎が著した『料理通』の「会席すまし吸物の部」で、春の筆頭に「つる」が挙げられています。また、元禄に刊行された食物事典『本朝食鑑』には「黒鶴」と書かれ、賞味されるのはたいてい黒鶴・白鶴・真鶴で、中でも黒鶴が最も美味とされており、丹頂鶴の肉は硬くてまずいので、観賞用に飼われるだけとの記述も見えます。
つまり上流階級にはおなじみの食材であったという訳です。
現代の感覚とは違いすぎて逆に戸惑ってしまうところですが、数々の記録を見ると、どうやら「ナベヅル」は非常に美味しいようです。そうなるとぜひ、一度食べてみたいと思うのが人情ですが、現代では鶴肉を食べさせてくれるところはありません。
終わりに
さて、ここまで事情が分かってきますと、鶴御成の意味がはっきりとしてきます。つまり、鶴御成とは「鶴の解禁」を意味しているのです。ですので、その年に取れた最初の鶴は天皇陛下に献上し、あとは自分達で狩って食べていたわけです。もちろん松前藩はこの限りではありませんが、松前藩は江戸からあまりにも遠く、鶴御成を気にする必要はなかったのではないかとも思われます。
鶴を食べる習慣というのは、中国を含めた外国でも現在では無いようです。しかし肉食禁制と思い込んでいた江戸時代ですが、案外にこんなたんぱく源があったのですね。
ちょっとした雑学でした。
【主な参考文献】
- 稲垣史生『考証歴史奇談』(河出書房新社、1987年)
- 松井今朝子『料理通異聞』(幻冬舎、2019年)
- 井原西鶴『西鶴置土産 現代語訳』(小学館、1997年)
- 人見必大『本朝食鑑』(平凡社、1976年)
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