天平随一のグルメ長屋王…鮑も食った、オンザロックも飲んだ!

長屋王の肖像(南法華寺蔵、出典:Wikipedia)
長屋王の肖像(南法華寺蔵、出典:Wikipedia)
 天平(729~749年)の世に正二位左大臣として大いに権勢を振るった長屋王(ながやおう)。この方は結構なグルメでもありました。まだ獣肉食禁忌もそれほど厳しくなかった当時、どのような物を召し上がっておられたのでしょうか?

大賑わいの平城マーケット

 和銅3年(710)、日本の都となった奈良平城京、市司(いちのつかさ)が管理する東の市と西の市は大いに賑わいます。米・穀物・海産物・野菜果物・酒など食品はもちろん、織物・日用品から武器・装飾品まで80余りの店が並びあらゆる生活用品が買えました。庶民だけではなく、寺院や貴族たちも、余剰品を売ったり物々交換をしたりと市を利用します。さて、どんなものが並んでいたのでしょうか?

 鮑の生肉を薄く細長く切り揃えて乾燥させた“長鮑(ながあわび)”、後世の“熨斗鮑(のしあわび)”の原型ですが、神饌としてだけでなく保存も効き、美味と酒の肴に持ってこいです。鮫の肉を細切りにして塩干した“鮫の楚割(すわやり)”、楚割とは魚肉を細く裂いて塩干した物の総称です。“鹿脯(しかほしじ)”は鹿の干し肉、“鹿膾”は鹿肉を細切りにして酢に浸したものです。“鮭鮨”や“ 鯛春鮨(たいつきずし)”は米飯の間に魚肉を漬け込んだ馴れ鮨ですし、塩辛や“堅魚煎汁(かつおのいろり)”など魚醤系もあります。生姜や瓜の粕漬など酒好きが涎を垂らしそうなものばかりです。

長屋王への献上鮑

 もちろん長屋王の下へはこれらの極上品が献上されてきます。平城京に隣接した6万平方メートルにも及ぶ邸宅跡からは、多くの献上品納品札の木簡が出土しており、それによると全国30以上の産地から山海の豊かな食材が運び込まれていました。

「長屋親王宮 鮑大贄十編」

 出土した木簡の一片ですが、献上された干し鮑十束に付けられていたものです。この干し鮑はまことに美味で貴族たちの大好物、おまけに精力増強・長生不老の妙薬と信じられていました。平安時代の医学書『医心方』では「秦の始皇帝が不死の薬を東海に探させたのは、あるいは鮑を指すのであろうか」と推理しています。

 木簡文字の“大贄”(おおにえ)は本来、天皇への献上品に使われるべき言葉です。それが長屋王への献上品にも使われるのは、王の権力がいかに強かったかの証です。

酒はオンザロックで

 良い肴が届けば良い酒が欲しくなるもの。貴族は“清酒(すみざけ)”と呼ぶ濁り気のない高価な酒を飲みます。酒と糟の分離がなされており、布で濾した上澄みのみで作られました。

 長屋王はこれを冬は広い庭園で搔き集めた落ち葉を燃やして燗を付け、夏は氷のかけらを浮かべたオンザロックで楽しみます。長屋王は自家専用の氷室を所有していました、それも2ヶ所も。氷室の名は“都祁氷室(つげひむろ)”と言い、現在の奈良県天理市福住町と奈良市都祁の両所で、これに関する和銅5年(712)2月の木簡が見つかっています。

 この氷室から長屋王の屋敷までは約20km、必要なのは当然夏ですから溶けぬように夜の山道を馬に積んで走り抜けます。氷室は本来は宮廷専用とされており、それを個人所有しているとは長屋王の力の強さが見て取れます。女性の来客には甘葛(あまずら)と言うつる草から採った蜜をかけたかき氷が供されます。

「削り氷(ひ)に甘葛ら入れて、あたらしき金鋺(かなまり)に入れたる」

 清少納言も枕草子で書いていますね。

長屋王が楽しんだ様々な酒

 奈良時代は現代に負けないぐらい高価な物から庶民向けのものまで、多くの種類の酒が飲まれていました。

事無酒・笑酒(ことなぐし・えぐし)

 『古事記』の応神天皇の中に出てきますが、大陸からやって来た酒造りが醸した酒を大層美味いと褒めたもので、事無酒は“事和酒(ことなぐくし)”の略で平和な酒と言う意味です。「くし」は酒を意味しており“笑酒”は自然に笑みがこぼれるような酒だと言っています。これは酒の種類ではなく褒めているんですね。

濁酒(にごれるさけ)

 これは清酒のように糟を取り除かずそのまま残してある酒です。酒をこよなく愛した大伴旅人が「値無き宝といふとも一杯の濁れる酒にあに益さめやも」と詠んでいますが、旅人にとっては最高の酒だったようです。

新酒・和佐々酒(わさささけ)

 新酒はその年に新しく醸した酒、和佐々酒は新酒またはまだ濾していない糟混じりの酒です。

醴酒(こさけ)

 平安時代の『和名抄』に「和名古佐介」とあり「一日一宿酒也」と説明しています。米を少なくし麹を多くして造った酒で、甘酒の事と思われます。

辛酒(からさけ)

 アルコール発酵の進んだ酒、あるいは酸味が強くなった酒の事で、アルコール分が強く水で割って飲みます。雇人に支給される酒で、辛酒一升に水四合を混ぜて一人当たり三合づつ2日に1度配ると決まっていました。それほど上等な酒ではありません。

糟湯酒(かすゆさけ)

 酒の搾りかすを湯に溶かしたもので、安価で下級階層の者が酒代わりに飲んで居ました。ただ酒の搾りかすと言ってもそう安くはなかったようです。これで思い出されるのはもう『貧窮問答歌』ですね。

 「風まじり雨降る夜の雨まじり」と謳い出します。「糟湯酒うちすすろひてしはぶかひ」と続く山上憶良の歌です。“堅塩”を肴に飲んで居ますが、これは土器で海水を煮詰めて造った塊の塩です。にがりが除かれておらず不純物も多く黒い色をしていますが、白い精製塩よりもミネラル含有量は多く酒の肴には良く合います。

体のためには乳製品も

 長屋王は牛乳も好んで飲んでいました。次のような木簡も出土しています。

「牛乳持参人米七合五夕」

 牛乳を納めに来た者に米七合五勺を与えるように、と言っています。「牛乳人一口」の木簡もあり、これは牛乳を煮沸殺菌してから飲んでいたものと思われます。牛乳を煮詰めた“蘇(そ)”も好んだようで、その製法は平安時代の『延喜式』に載っています。

 「作蘇之法、乳大一斗煎、得蘇大一升」つまり一斗の牛乳を煮詰めると一升の蘇が得られると言うのです。10分の1まで煮詰めるのですね。これを試した人が居て、極めて味の良い濃厚で甘美で上品なチーズケーキかミルクキャラメルのようなものが出来たそうです。甘い味の乏しかった奈良時代にあっては極めて貴重な品だったでしょう。

おわりに

 長屋王がこのような豪奢な暮らしが出来たのも、広大な荘園から得られる莫大な収入があったからです。しかし権勢も長くは続きませんでした。敵対勢力であった藤原四兄弟の恐怖と猜疑の対象となった長屋王は、謀反の疑いをかけられ邸宅を囲まれます。

 天平元年(729)2月、こう言って一戦も交えることなく一族ともども自害して果てました。

「罪無くして刑殺されんよりは死を選ばん」


【主な参考文献】
  • 永山久夫「「和の食」全史」河出書房新社/2017年
  • 森公章「奈良貴族の時代史」講談社/2009年

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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