江戸時代、スイーツ好きの江戸っ子たちがつくった和菓子の原型

春ならば花見団子、夏はツルツル喉越しの良いトコロテン、秋はほっこり栗饅頭に冬は熱いお汁粉をフーフー。現在私たちが楽しんでいる和の甘味のほとんどは、江戸時代に原形が形作られました。

昔は京都に一極集中

江戸時代より以前は京の都が和菓子の一大拠点でした。甘味は生きて行くのに必須のものではなく、まず腹を満たす食べ物を摂取し、その後で余裕があれば手を出すものです。喰うや喰わずの生活しかおくれない場所では、発展のしようがありませんでした。

饅頭や羊羹など歴史の古い菓子も、朝廷を中心に京の公家たちの間で愛好されます。原料となる砂糖が極めて高価だったため、一般庶民には縁のないものでした。

ところが江戸時代も中期になると、黒砂糖を原料とした庶民でも手の届く並菓子、今で言う駄菓子がつくられるようになります。団子・干菓子・甘納豆・桜餅と現在でもお馴染みの和菓子が顔を見せ、1804年から1830年の文化文政期以降には、今川焼やかりんとうも登場します。

季節を彩った和菓子たち、長命寺の桜餅

江戸の人たちは四季それぞれの風情を今の私たちよりも身近に楽しんでいました。春になれば「一日の遊びは百年の寿命を延ばす」(寺門静軒著/江戸繁昌記より)と言って、いそいそとお花見に繰り出します。上野の山や品川の御殿山が花見名所でしたが、江戸後期になると隅田川土手に植えられた桜が一番人気となりました。

行楽には当然飲み食いがつきもので、江戸繁昌記が「新生の桜餅は古風な焼き団子に勝る」と称賛しているのが長命寺の桜餅です。三代将軍家光が鷹狩に出かけた折りに、腹痛をおこして近くの寺の境内にある清らかな井戸水を飲んだところ、たちまち治まります。その寺を長命寺と呼ぶようになったとの寺伝が残る長命寺。その門前に店を開いた山本屋の桜餅が評判を取ります。考え出したのは上総国からやって来て、長命寺の門番を務めた山本新六と言う男でした。

「あの葉を捨てるのは勿体無い」アイデアマン新六

隅田川堤に延々と続く桜並木、「あのたくさんの葉が捨てられてしまうのは勿体無い」そう考えた新六、大量の葉の活用法として塩漬けにした葉で餅を巻いて食べてみると、葉の香りとかすかな塩味が餅の味を引き立てて非常に美味い。

最初は墓参りの人たちをもてなす程度に造っていましたが、これが評判となり、享保2年(1717)、山本屋を創業し、門前で売り出します。年を重ねるにつれて向島はもちろん、江戸で知らぬ者が無いくらい有名になりました。

創業300年。現在も長命寺(東京都墨田区向島5丁目)の傍にある「山本や」(出典:wikipedia)
創業300年。現在も長命寺(東京都墨田区向島5丁目)の傍にある「山本や」(出典:wikipedia)

その量産振りは「1年分の桜の葉の漬け込みは31樽、1樽に桜の葉が2万5000枚ほど入っており、しめて77万5000枚になる」ほどでした。餅一つに葉を2枚用いたそうですから、この年だけでざっと38万7500個の桜餅を造っています。その大半が花見の季節に売れました。

江戸で大評判の桜餅ですが、関西人の私に言わせればあれは餅ではなくクレープです。餅と名乗るからには、やはり道明寺粉で造った“お餅”であって欲しいのです。

夏は「ひやっこい、ひやっこい」

現在よりはましでしょうが、江戸の町は人家が立て込み風通しも悪く蒸し暑いものでした。打ち水風鈴とともに暑さをしのぐものとして“冷や水売り”が町にやって来ます。

「ひやっこい、ひやっこい」が売り口上で、冷たい湧水を汲んで来たものへ、白砂糖と寒晒粉、つまり白玉粉で造った団子を入れ、1椀4文で売ります。現在だと80円ぐらいで、いたって廉価なものでした。これに砂糖を多く入れると値段も8文から12文と上がって行きます。すでにピンク色に染められた団子もあり、眼を楽しませます。

江戸時代には果物は水菓子と呼ばれました。もともと“菓子”は間食全般を指す言葉でしたが、人手を加えた甘みのある物限定に使われるようになり、特に果物を水菓子と呼ぶようになります。

江戸では西瓜や真桑瓜(まくわうり)などを板の台に並べて売る店が出ます。西瓜に砂糖をかけて甘みが果肉に回った頃に食べる方法もあるなど、現在より甘みの少ない瓜類でした。

文字通りの冷や水売り

同じ「ひやっこい、ひやっこい」の売り声でも、文字通り水を売る商売もありました。江戸の上水道は地中に埋め込まれた石樋や木樋を通って来ますから、夏になるとどうしても生ぬるい水になります。そこで冷たい湧水を売り歩く水売りが商売になりました。

庶民はこれに“麦粉”と砂糖を入れて暑気払いに飲む習慣がありました。『本朝食鑑』によれば、麦粉とは麦を香ばしく炒って粉に引いたもので、夏冷水を飲む時にこれと砂糖を水に加えて練って服用すれば胃の働きを助けたそうです。水の粉とかはったい粉と呼びました。

麦にはビタミンB1が多いですから、夏バテを防ぐのにも効果がありました。“麦湯”と言って、現代の麦茶に砂糖を入れたものも愛飲されました。

おわりに

花のお江戸は独り身の男が多い街でした。いきおい料理をせずとも手軽に腹を満たせるファストフードが大流行、代表格は寿司・天麩羅・蕎麦ですが、それらにつれてこれらの甘味も大歓迎されました。


【主な参考文献】
  • 磯田道史『江戸の家計簿』(宝島社新書、2017年)
  • 永山久夫『「和の食」全史』(河出書房新社、2017年)

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  この記事を書いた人
ichicokyt さん
Webライターの端っこに連なる者です。最初に興味を持ったのは書く事で、その対象が歴史でした。自然現象や動植物にも心惹かれますが、何と言っても人間の営みが一番興味深く思われます。

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