「光る君へ」『大鏡』が描く七日関白・藤原道兼の最期

 大河ドラマ「光る君へ」第18回は「岐路」。主人公・まひろ(紫式部)の母を惨殺するなど初回より悪役として描かれてきた藤原道兼の死が描かれました。

 道兼が亡くなったのは、長徳元年(995)5月8日のことでした。その年の4月10日には、関白を務めた実兄・藤原道隆が病死していました。それから1ヶ月も経たずに、弟・道兼も亡くなったのです。道隆の死後、道兼が関白に任じられます。ところが関白に就任して短期間で亡くなったことから、道兼は「七日関白」と称されているのです。

 平安時代後期の歴史物語『大鏡』には、道兼の最期が描かれています。同書によると、道兼は関白に任じられた奏慶(官位に叙せられた者が、参内して御礼を申し上げること)に赴く際(5月2日)には、気分が少し優れなかったとのこと。しかし、それも一時のことであろう、これくらいのことで、大切な奏慶を中止することは忍びないと、道兼は体調不良をおして宮中に参じるのです。するとたちまち、体調は悪化。通常のように殿上の間から退出することができず、湯殿の戸口から人に介助されつつ、退出されたのでした。

 邸に戻ってきた道兼は、出かける時とは打って変わって、非常に苦しんでおり、装束の紐も解き放っているような状態。よろめいて車から降りてきた主人(道兼)に、邸の者も大層驚いたようです。人々は内心(これはもしかしたら)と感じていたようですが、その心を押し包むように「大丈夫、やがて治られるに違いない」と言い交わしていたとのこと。当時、都では疫病が流行していましたので、道兼もそれに感染したものと推測されます。

 藤原実資が、亡くなる直前の道兼に対面するシーンが『大鏡』に描かれていますが、道兼は御簾の中で、何やら話しているものの、何を話しているかは殆ど聞き取れなかったようです。それほど病状が悪化していたのです。御簾が風で吹き上げられた際、道兼の面貌が現れますが、顔は青ざめ、かつての面影はなかったとのこと。平安時代の歴史物語『栄花物語』には、病中の道兼を弟の藤原道長が世話をしたとの記述がありますが『大鏡』にはそうした一文はありません。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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