「光る君へ」『大鏡』が描く七日関白・藤原道兼の最期
- 2024/05/06
道兼が亡くなったのは、長徳元年(995)5月8日のことでした。その年の4月10日には、関白を務めた実兄・藤原道隆が病死していました。それから1ヶ月も経たずに、弟・道兼も亡くなったのです。道隆の死後、道兼が関白に任じられます。ところが関白に就任して短期間で亡くなったことから、道兼は「七日関白」と称されているのです。
平安時代後期の歴史物語『大鏡』には、道兼の最期が描かれています。同書によると、道兼は関白に任じられた奏慶(官位に叙せられた者が、参内して御礼を申し上げること)に赴く際(5月2日)には、気分が少し優れなかったとのこと。しかし、それも一時のことであろう、これくらいのことで、大切な奏慶を中止することは忍びないと、道兼は体調不良をおして宮中に参じるのです。するとたちまち、体調は悪化。通常のように殿上の間から退出することができず、湯殿の戸口から人に介助されつつ、退出されたのでした。
邸に戻ってきた道兼は、出かける時とは打って変わって、非常に苦しんでおり、装束の紐も解き放っているような状態。よろめいて車から降りてきた主人(道兼)に、邸の者も大層驚いたようです。人々は内心(これはもしかしたら)と感じていたようですが、その心を押し包むように「大丈夫、やがて治られるに違いない」と言い交わしていたとのこと。当時、都では疫病が流行していましたので、道兼もそれに感染したものと推測されます。
藤原実資が、亡くなる直前の道兼に対面するシーンが『大鏡』に描かれていますが、道兼は御簾の中で、何やら話しているものの、何を話しているかは殆ど聞き取れなかったようです。それほど病状が悪化していたのです。御簾が風で吹き上げられた際、道兼の面貌が現れますが、顔は青ざめ、かつての面影はなかったとのこと。平安時代の歴史物語『栄花物語』には、病中の道兼を弟の藤原道長が世話をしたとの記述がありますが『大鏡』にはそうした一文はありません。
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