「光る君へ」孫を天皇と皇太子にした藤原兼家の絶頂エピソード

大河ドラマ「光る君へ」第12回は「思いの果て」
大河ドラマ「光る君へ」第12回は「思いの果て」

 大河ドラマ「光る君へ」第12回は「思いの果て」。花山天皇が出家、退位され、新たに一条天皇(父は円融天皇。母は藤原兼家の娘・詮子)が御即位になられました(986年)。一条天皇は、僅か7歳でした。

 一条天皇の東宮(皇太子)は居貞親王(後の三条天皇)になります。居貞親王は、冷泉天皇の第2皇子。冷泉天皇が同母弟の円融天皇に譲位され(969年)、上皇となられてからの子でありました(976年生まれ)。親王の母は、藤原超子。超子の父は誰か?そう、あの藤原兼家(道長の父)であります。ちなみに超子の母は、兼家の正室・時姫です。つまり、超子は、兼家の男子(道隆・道兼・道長)と同じ母のもとに生まれたのです。

※参考:一条天皇の略系図(戦国ヒストリー編集部作成)
※参考:一条天皇の略系図(戦国ヒストリー編集部作成)

 ところが、超子は、我が子・居貞親王が東宮になる4年前に死去(982年)。超子が亡くなったのは、庚申待(庚申の日に、神仏を祀り徹夜をする行事)の日でありました(平安時代の歴史物語『栄花物語』)。庚申待の夜には、歌を詠む者、碁双六の勝負に興じる者などがいたようです。明け方、超子は脇息に寄りかかり、お休みになっていたようですが、全然起きてこない超子を心配した者が起こしに行くと、既に冷たくなっておられたとのこと。兼家はその報せを聞くと、大いに驚き慌て、超子の身体を抱き抱えて、泣いたようです。

 話を一条天皇の御即位の時に戻しましょう。

 さて、藤原兼家は、ついに天皇の外祖父となったわけです。そんな兼家の振る舞いについての逸話が『大鏡』(平安時代後期の歴史物語)に掲載されています。兼家は、参内に牛車を用い、北の陣まで入ると、ある行動をします。御所まではそれ程遠くもないのに、装束の紐を解いて寛いでいたというのです。

 それなどはまだ良い方で、7月の相撲の際には、一条天皇そして東宮もいらっしゃるのに、兼家は更に大胆な振る舞いをしたとのこと。それは装束を全て脱ぎ去って、汗取り1枚の姿になったというのです。『大鏡』はこの事を「恐れ多いこと」と書いています。

 更に更に、『大鏡』は兼家の振る舞いを列挙していきます。兼家は自邸(東三条殿)の西の対を清涼殿に似せて造ったということです。内部の装飾まで真似て造ったと同書には書かれています。「兼家の振る舞いは、僭上が過ぎるのではないか」と問題にもなったようです。孫2人がそれぞれ天皇そして皇太子となったのですから、兼家の得意気な顔が想像できます。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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