「三条天皇」長い皇太子時代、道長の猛烈なアツ 貴族から総スカン

三条天皇像(出典:wikipedia)
三条天皇像(出典:wikipedia)
 第67代・三条天皇(さんじょうてんのう、976~1017年)は藤原道長の全盛期、従兄弟の一条天皇から皇位を継ぎますが、5年ほどで退位に追い込まれました。一条天皇の皇子を即位させたい道長の猛烈なプレッシャーを受けたのです。また、先代の一条天皇への対抗心から独自性にこだわったことが裏目に出て、多くの貴族の支持を得られなかったことも影響しています。本来は天皇家の嫡流だったはずが、自身の皇子に皇位を継承できず、負け組に転落した悲劇の天皇と言えます。

年下・一条帝の皇太子25年 36歳で即位

 冷泉天皇の第2皇子で、名は居貞(いやさだ/おきさだ)。異母兄に花山天皇がいます。天元5年(982)、7歳のときに母・超子(とおこ)が急死し、その父で摂政・関白だった藤原兼家も永祚2年(990)に病没。それでも兼家の長男・道隆や五男・道長が政権を継いでおり、摂関家との関係が切れたわけではありません。

※参考:藤原兼家・道隆・道長らの略系図
※参考:藤原兼家・道隆・道長らの略系図

兼家が後ろ盾 11歳で元服

 寛和2年(986)、11歳で元服、東宮(皇太子)となります。即位した一条天皇は4歳下。居貞親王(三条天皇)は皇太子として25年過ごし、即位したときは36歳になっていました。その間に4人の妃を迎えました。

 当初は藤原兼家の強い後ろ盾があり、最初の妃は兼家の三女・綏子(やすこ)です。『大鏡』に変なエピソードがあります。夏の暑い日に綏子に氷を握らせます。

居貞:「私を愛しているなら、もういいと言うまで放すな」

 綏子は言われた通り、それを放さず、握った跡が青黒く残ってしまいます。居貞親王はかえって興ざめしたのか、後に勝手なことを言っています。

居貞:「あんなに我慢強く持ち続けるとは感心という段階を通り越して嫌な感じがした」

 綏子を妃としたのは永延元年(987)9月。親王は12歳で、綏子は14歳。皇子が誕生することはなく、『栄花物語』に「実家ばかりにいて、よからぬ噂も立てられている」と書かれた綏子は明るい性格で交友関係も派手。後に源頼定との不倫事件を起こします。

大納言の娘・娍子を寵姫に

 正暦2年(991)、藤原済時の長女・娍子(すけこ)を妃とします。4歳上の姉さん女房で、正暦5年(994)誕生の敦明親王をはじめ皇子4人、皇女2人に恵まれます。済時は大納言止まりで、長徳元年(995)に他界しており、強い後ろ盾にはなりませんが、夫婦仲は良好でした。

 長徳元年に藤原道隆の次女・原子(もとこ)、寛弘7年(1010)に藤原道長の次女・妍子(きよこ)が嫁ぎます。道隆、道長ともに長女を一条天皇に入内させていますが、冷泉系の居貞親王との関係も維持する意図があったのです。原子は嫁いでから7年で急死。一方、18歳差の妍子との間には禎子内親王が生まれました。

寵姫を皇后に…立后儀式は道長が妨害

 三条天皇は寛弘8年(1011)に即位。皇太子には一条天皇の第2皇子で藤原道長の長女・彰子が産んだ敦成親王(後一条天皇)が立てられます。

 道長に関白就任を要請しますが、辞退。道長を取り込みたい三条天皇と、これまで通り左大臣兼内覧として閣議を仕切り、ほかの有力貴族と意見調整して政治を進めたい道長の思惑はずれていました。

天皇から「一帝二后」を提案

 寛弘9年(1012)、妍子が中宮に、娍子が皇后となります。同じ意味の「中宮」と「皇后」を呼び分け、正室を2人とする「一帝二后」は一条天皇の先例があるとはいえ、娍子の父・藤原済時は既に故人で大納言止まり。父が天皇か大臣でない皇后は嵯峨天皇の皇后・橘嘉智子以来約200年ぶりで、多くの貴族が違和感を持ちます。

 娍子の立后儀式の4月27日、道長は妍子が東三条第から内裏に移る行事をセッティング。立后儀式の参加公卿は、大納言・藤原実資、その兄・懐平、中関白家の藤原隆家、娍子の異母弟・藤原通任の4人だけでした。右大臣・藤原顕光、内大臣・藤原公季は所用や物忌みで欠席。東三条第に使者を送って参内を命じても、道長の饗宴に参加している貴族は使者を嘲笑し、参議・藤原正光(顕光の弟)は石を投げつける始末でした。

抜いた歯を使者に持たせて道長に…

 このトラブルの少し前、寛弘9年2月8日、三条天皇は京極辺りに住む嫗(おうな、高齢女性)に歯を抜いてもらいます。道長が物忌みで参内していないので藤原道綱、藤原隆家にその歯を持っていかせ、道長に見せました。関係を維持したい気持ちなのか何なのか、道長は困惑するしかなかったはず。『御堂関白記』にある話で、真偽不明の説話集の逸話よりも変てこな話ですが……。

道長との関係悪化 皇子も罵られる

 藤原道長とは皇太子時代から良好な関係でしたが、道長は長女・彰子が一条天皇の皇子を産んだこともあり、離れていきます。人事権を使って独自色を出そうとした三条天皇はかえって貴族の支持を失っていきます。

藤原実資の養子を抜擢

 三条天皇は藤原実資とその甥で養子の資平を信任していました。『古事談』に藤原資平の能力を見抜く逸話があります。

三条:「宝剣のさやに結い付けられているものがあるが、あれは何か」

資平:「ある人が申しますには、太刀と契(けい、魚形の割符)を保管する櫃(ひつ)の鍵ではなかろうか、ということです」

三条:「宮中の秘事をいろいろな者に問うたが、今まで誰も答えられなかった。しかし、資平は期待通りで、まったく感心した」

 実際に藤原資平は秘書室長である蔵人頭に抜擢されます。しかし、資平起用は藤原道長が強く難色を示し、頑固な三条天皇がようやく押しきった人事でした。

「儀式はいい加減」実資の酷評

 人事絡みのいざこざはほかにもあり、長和2年(1013)、藤原実資の兄・懐平(資平の実父)を権中納言に昇進させたときも藤原道長が「中納言7人は多すぎる」と指摘。道長の長男・頼通を権大納言に昇進させ、何とか実現しました。

 また、即位と同時に娍子の異母弟・藤原通任を蔵人頭に起用し、半年後には参議に。長和2年には正三位に昇進させようとしますが、これも道長が反対。結局、通任の正三位昇進は10年後の治安3年(1023)です。

 道長に内緒で人事問題を藤原実資に相談することもありましたが、養子・資平の蔵人頭昇進が滞ったとき、実資は『小右記』の中で三条天皇への不信感を露わにしており、また次のように酷評しています。

実資:「儀式のいい加減さは当今(現在の天皇)の時代ほどひどいことはない」

敦儀親王の態度咎めた道長

 『古事談』には藤原道長が三条天皇の皇子を罵る逸話があります。

 申請を却下された道長が退出すると、三条天皇は第2皇子・敦儀親王に呼び戻させます。親王が清涼殿の南側の庭に面した小板敷に立ったままで告げると、道長は激怒。

道長:「出来の悪い宮(皇子)たちは板敷きの上に立ったまま執柄の人(権力者)を召すのか」

 相手は親王ですが、最高権力者・道長は遠慮なく罵倒しました。

水銀中毒?眼病で退位迫られ

 三条天皇はもともと病弱でしたが、長和3年(1014)、丹薬服用後、眼病が進行。丹薬は砒素、硫化第2水銀を含み、中毒の可能性もあります。眼病を理由に藤原道長から退位を迫られ、孤立感を深めていきます。皇太子時代から支えてきた藤原道綱が間に入って調整に走りますが、ときに道長に同調し、まったく頼りになりませんでした。

敦明親王が皇太子退き、冷泉皇統衰退

 三条天皇は長和5年(1016)1月、退位。皇太子だった敦成親王が後一条天皇として即位し、天皇の外祖父となった藤原道長は摂政に就任します。三条天皇は退位の条件として、第1皇子・敦明親王を皇太子とすることを道長に認めさせました。

「百人一首」に詠まれた絶望感

 「百人一首」68番が三条天皇の歌。退位直前に詠んだとされます。

〈心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな〉

(長生きしたくもないが、つらいこの世に生き永らえれば、さぞかし恋しく思い出されるであろう今宵の美しい月だ)

 家集もなく、勅撰和歌集入集は8首だけで和歌が得意とはいえない三条天皇ですが、政争に敗れた絶望感が悲しさを誘います。眼病が進んでいましたが、きっと月は見えていたのだろうと思いたくなる切なさ、はかなさがあります。

退位翌年に崩御

 退位翌年の寛仁元年(1017)5月9日、42歳で崩御。

 同年8月、皇太子だった敦明親王はその地位を退きます。14歳も年下の後一条天皇のもとでは即位の可能性も低く、後一条天皇の弟・敦良親王(後朱雀天皇)を皇太子に据えたい藤原道長の無言の圧力もありました。皇太子を支える東宮大夫も有力貴族が次々と就任を辞退する有り様でした。

 皇太子の地位を退いた敦明親王は一条院の院号が贈られ、道長の三女・寛子を妃に迎えます。

おわりに

 居貞親王(三条天皇)が皇太子に立った時点では、冷泉系(花山、三条天皇)、円融系(一条天皇)のどちらが皇位を継承していくか、まだ明確ではなく、両系統から交互に天皇を出す「両統迭立(てつりつ)」の状態でした。しかし、皇太子として25年を過ごす間に藤原道長が台頭し、一条天皇に道長の外孫が誕生すると、その立場は不安定となります。

 道長に追い込まれた政治敗者ですが、寵姫や側近への偏愛で有力貴族の支持を失う失策もありました。退位後、自身の子や孫に皇位を継ぐことはできず、冷泉系は衰退します。


【主な参考文献】
  • 倉本一宏『三条天皇』(ミネルヴァ書房、2010年)
  • 保坂弘司『大鏡 全現代語訳』(講談社、1981年)講談社学術文庫
  • 源顕兼編、伊東玉美校訂・訳『古事談』(筑摩書房、2021年)ちくま学芸文庫
  • 倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」』(講談社、2009年)講談社学術文庫
  • 倉本一宏編『現代語訳小右記』(吉川弘文館、2015~2023年)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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