「一条天皇」定子と彰子、2人の中宮との関係は? 愛猫家の一面も

一条天皇像(真正極楽寺 蔵、出典:wikipedia)
一条天皇像(真正極楽寺 蔵、出典:wikipedia)
 一条天皇(いちじょうてんのう、980~1011年)は藤原道長が権勢を振るった時代の天皇です。正室の中宮は藤原道隆(道長の兄)の長女・定子と道長の長女・彰子。定子の女房・清少納言、彰子の女房・紫式部らが活躍し、平安女流文学が花開いた時期でもあり、天皇自身も文芸に深い造詣がありました。ただ、道長の影に隠れて目立たない印象も持たれます。一条天皇はどんな人物だったのでしょうか。

中宮定子の実家・中関白家とは親密

 第66代・一条天皇は円融天皇の唯一の皇子で、名は懐仁(やすひと)。母は藤原兼家の三女・詮子(あきこ)です。皇子皇女は5人。定子が産んだ敦康親王と2人の内親王、彰子が産んだ敦成親王(後一条天皇)と敦良親王(後朱雀天皇)です。

一条天皇の略系図
一条天皇の略系図

兼家の思惑 元服前7歳で即位

 寛和2年(986)7月、7歳で即位し、外祖父・藤原兼家が摂政に就きます。皇太子に据えられたのは、一条天皇の従兄弟で年上の居貞親王(三条天皇)。親王の母は兼家長女・超子で、兼家としては幼帝、次期天皇ともに孫を据え、得意の絶頂でした。

 『古事談』の逸話では、夏の暑い日に服のひもを解き、ラフな格好で一条天皇を抱きあげる藤原兼家の姿に畏まっている公卿たちが眉をひそめます。祖父の立場を誇示し、幼い天皇をコントロールする兼家の露骨な姿が顰蹙を買ったのです。『大鏡』にも7月の天覧相撲の際、一条天皇と居貞親王の前で肌着姿となる兼家の姿が書かれています。

出家後出戻り 皇子を産んだ定子

 藤原兼家は永祚2年(990)7月に死去。長男・道隆が関白を継ぎました。一条天皇は同年1月、11歳で元服しています。道隆長女で14歳の定子が入内し、10月には中宮となります。

 さらに道隆次女・原子が正暦6年(995)、居貞親王の女御となり、道隆の一家「中関白家」が栄華を極めます。父・兼家と弟・道長の間に繁栄したのが「中関白家」。10代の頃の一条天皇は中関白家に囲まれて過ごし、定子の同母兄・伊周(これちか)たちと親密な関係を築きました。

 定子は長徳2年(996)、長徳の変で伊周らが失脚した際、出家しますが、12月には一条天皇第1子の脩子内親王を出産。翌年には宮中に呼び戻されます。中関白家没落後も一条天皇の定子への愛情は変わらず、長保元年(999)11月7日に第1皇子・敦康親王が誕生。しかし、長保2年(1000)12月、第2皇女・媄子内親王を産んだ翌日、定子は24歳で崩御しました。

一条天皇の女御たち

 藤原道隆存命中は定子がただ一人の一条天皇の妻でしたが、長徳2年(996)以降、藤原公季の長女・義子、藤原顕光の長女・元子、藤原道兼の長女・尊子が女御となります。

 長保元年(999)には藤原道長の長女・彰子が入内し、敦康親王誕生同日に女御となります。また、定子死後、その同母妹・御匣殿(みくしげどの)が遺児を養育し、一条天皇の寵愛も受けて懐妊。しかし、長保4年(1002)6月、身重のまま他界します。

母の押しかけ泣訴で道長政権発足

 長徳元年(995)、藤原道隆急死後、関白に就いた弟の道兼も死去し、疫病によって大臣や高官が欠けてしまいます。残った者の中では内大臣の藤原伊周が最も高官でしたが、政権を握ったのは権大納言・藤原道長でした。

 『大鏡』によると、道長の姉で一条天皇の母・詮子が熱心に天皇を口説いた結果。最後は天皇の寝所に押しかけて涙ながらに訴えました。道長は関白に近い権限を持つ内覧の職務を手にします。

「一帝二后」彰子を中宮に

 藤原道長は長保元年(999)、12歳の長女・彰子を入内させます。一条天皇とは8歳差。そして、中宮に定子がいるのに、長保2年(1000)2月、彰子を中宮とし、中宮の定子は皇后とします。同じ意味である「中宮」と「皇后」を呼び分ける「一帝二后」で、彰子を女御から中宮の地位に押し上げたのです。

 彰子の皇子出産は8年後の寛弘5年(1008)。やがて皇位に就く道長の孫・敦成親王(後一条天皇)です。

道長の出家、辞職を認めず

 一条天皇の在位中、藤原道長は長く内覧兼左大臣で、摂政・関白には就いていません。長徳4年(998)3月、病気で辞表を出し、出家を願い出ます。長保2年(1000)にも大病をしています。

 一条天皇が道長の辞表を受理していたら、道長は短期政権で終わったはず。一条天皇の判断は道長の運命や摂関政治の発展を大きく左右したと言えます。

聡明な君主としての逸話

 『古事談』には、寒い夜にもかかわらず一条天皇が上掛けの寝具を使わない逸話があります。

彰子:「どうしてそのようなことを」

一条:「人々が寒い思いをしているのに、私一人このように暖かくして寝るのは良くない」

 君主としての自覚と聡明さが強調された話です。

 また、藤原実方と藤原行成が殿上で口論する逸話もあります。実方が行成の冠を取って小庭に投げ捨て退出。行成は下級役人に冠を拾わせて砂を払い、ひと言。

行成:「ひどい公達だなあ」

 一条天皇はこれを見て、冷静だった行成を蔵人頭に登用し、実方には

一条:「歌枕を見てまいれ」

と、陸奥守に任命。一条天皇の人物鑑定眼が表れたエピソードです。

『枕草子』『紫式部日記』の一条天皇は?

 一条天皇は横笛の名手で漢詩を好みました。『枕草子』によると、藤原伊周から草子(白紙ノート)を贈られ、『史記』を書写したとか。藤原行成は日記『権記』に「好文の賢皇」と書き、一条天皇の学門好きと英明さを讃えています。

紫式部の漢文の素養を見抜く

 『紫式部日記』によると、『源氏物語』の朗読を聞いたときはこう言い残します。

一条:「この作者には日本書紀に読み説いてもらいたい。漢文の素養があるようだ」

 『源氏物語』には約800首の和歌が詠まれていますが、漢詩は1編も出てきません。しかし、漢籍(中国の書籍)の知識をベースにした描写があり、一条天皇はそこを見逃さなかったのです。

愛玩の猫「命婦のおもと」

 一条天皇にはペットの猫がいました。長保元年(999)9月、子猫誕生の儀式に母・詮子や藤原道長が同席。馬命婦という乳母をつけ、五位の位階を与えます。藤原実資は日記『小右記』で「いまだ聞いたことがない」と、猫の貴族扱いにあきれています。

 子猫は「命婦のおもと」と呼ばれ、『枕草子』にも登場。ひなたぼっこを決め込んで動かないので馬命婦は脅かそうと、宮中に出入りしている犬・翁丸(おきなまろ)をけしかけます。冗談は通じないので子猫に飛びかかり、これに一条天皇が驚き、すぐに蔵人を呼びます。

一条:「不届き者の翁丸を打ちこらしめ、即刻、犬島に流せ」

 島流しといっても淀川の中州。翁丸は3、4日後に舞い戻り、またも蔵人たちにボコボコにされました。

定子の遺児に皇位を継承できず

 一条天皇と藤原道長は良好な関係でしたが、次の皇太子については思惑の違いがありました。このときの皇太子は居貞親王で、親王が即位したときに一条天皇の皇子を皇太子に立てる予定ですが、定子の遺児・敦康親王を優先したい一条天皇に対し、道長は彰子が産んだ敦成親王(後一条天皇)を早く皇太子にしたいと考えていました。

 寛弘8年(1011)5月、一条天皇が病気で倒れると、道長は退位を画策。3日後の占いで退位どころか崩御の卦(け)が出てしまい、道長は号泣。それを清涼殿の隣の部屋からのぞき見た一条天皇は自身の病状、道長の策謀を知ってしまいます。

 道長の大失態です。結局、一条天皇からも道長からも信頼されている藤原行成の説得によって、一条天皇は敦康親王への皇位継承を断念します。

「讒臣国を乱る」道長が破棄した手習い

 一条天皇は寛弘8年(1011)6月13日に退位し、19日に出家。そして22日、32歳で崩御しました。短期間に上皇、法皇となったのですが、ややこしいので、ここでは退位後を一条院と呼びます。

 出家のとき、故事に反して、ひげの前に頭髪を剃ってしまい、ひげを剃る直前の顔が不吉だったという話もあります。立ち会った高僧たちが事情にうとかったという信じられない原因で起きた失態です。

最期の言葉「私は生きているのか」

 崩御前日の6月21日、最期の言葉が『権記』に残されています。

一条:「私は生きているのか」

 信頼する側近・藤原行成をそば近くに召し寄せたときの言葉です。行成はときに重要な決断を促してきた経緯があります。行成はこの言葉をどう受け止めたのでしょうか。

 この日、彰子がそばにいるときに辞世の和歌を詠みます。

〈露の身の風に宿りに君を置きて 塵を出でぬる事ぞ悲しき〉

(風に散る露のようにはかないこの世に君を置いて俗世を出ていくことが悲しい)

 この和歌は『新古今和歌集』などほかの史料にもあり、少しずつ違っていますが、彰子に先立つ悲しさを詠んだ和歌です。しかし、『権記』は亡き定子に詠んだ歌としています。藤原行成の解釈はいろいろと複雑な感情が入り交じっているようです。

蘇生し、念仏百余遍唱え崩御

 『古事談』の一条院崩御の話には、慶円、院源と、いずれも後に天台座主となった高僧が登場します。慶円が席を外している間に一条院は崩御しますが、慶円は院源を呼び、協力を求めます。

慶円:「生前、必ず臨終の念仏をさせよとのおおせだった。何とか仏のお力添えをいただこう。帝の魂はまだ遠くまで行ってしまわれていないだろう」

 院源は磐(けい、鋳銅製の仏具)を打ち鳴らし、慶円は呪文を唱え、ついに一条院が蘇生。藤原道長も自室から転ぶようにして参上し、一条院は念仏百余遍を唱え終えると息を引き取ります。創作話のようですが、一条院の蘇生は『権記』にも触れられています。

遺品の中に習字の反故

 藤原道長が一条院の遺品を整理したことは『御堂関白記』にみられ、『古事談』には、道長がその中から習字の書き損じを発見する逸話があります。

〈叢蘭欲茂秋風吹破 王事欲章讒臣乱国〉

(群生するランが伸びようとすると、秋の風が枯らしてしまう。王道を貫こうとすると、讒言する臣下が国を乱してしまう)
『古事談』

 これを見た道長が「私のことを書いているのだな」と破棄したといいます。しかし、道長が「讒臣」を自分のことと捉えるのは不自然で、やはり後付けの話でしょう。

おわりに

 一条天皇は藤原道隆、道兼兄弟が亡くなった長徳元年(995)、心情的には親しい藤原伊周ではなく、藤原道長を政権の担い手に選びました。母の影響が大きかったとはいえ、政治の趨勢を決めた大きな決断です。もちろん道長の卓越した政治能力があってのことですが、親近感を優先せず、若くして冷静な判断をした一条天皇も摂関政治の隆盛に大きく関わったと言えます。


【主な参考文献】
  • 倉本一宏『一条天皇』(吉川弘文館、2003年)
  • 服藤早苗『藤原彰子』(吉川弘文館、2019年)
  • 倉本一宏『藤原行成「権記」全現代語訳』(講談社、2011~2012年)講談社学術文庫
  • 源顕兼編、伊東玉美校訂・訳『古事談』(筑摩書房、2021年)ちくま学芸文庫
  • 石田穣二訳注『新版枕草子 付現代語訳』(角川書店、1979~1980年)角川文庫
  • 紫式部、山本淳子訳注『紫式部日記 現代語訳付き』(KADOKAWA、2010年)角川ソフィア文庫

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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