平安時代の犯罪三面記事 優雅な平安時代はなかなか剣呑な時代でもありました
- 2024/06/03
悪徳受領「藤原元命」
平安時代の受領といえば、とかく評判の芳しくない者が多いのですが、尾張国の受領国守・藤原元命(もとなが)は中でも札付きでした。永祚元年(989)2月に、尾張国の百姓から元命の罷免嘆願書と違法行為の告発書が朝廷に提出されています。ここでいう ”百姓” とは、実際に農作業を行う農民ではなく、それら農民を束ねる土地豪族の事です。告発書には元命の31種類もの違法行為が書き連ねてありましたが、この告発書の提出者には本来なら受領の手足となって働くべき郡司たちの名も混じっていました。
当時の受領の主な仕事は税として米を徴収する事で、その米を元手にして任国内の様々な物資を買い付けて朝廷に上納するのも大事な仕事でした。中央の目が行き届きにくい任国での金品のやり取りは、受領の懐を肥やす手段としてお約束のようなものでした。
配下の郡司たちも一緒になって誤魔化し、作業を手伝っておこぼれに預かるのが普通でしたが、ここではその郡司たちが告発者として名を連ねています。あまりにも元命のやり口が酷く、目に余るものだったのでしょう。
元命のやり口とは
告発書に書かれた元命の悪事は以下に分類され、受領の権限で行える犯罪のすべてに手を染めていたようです。- 不当課税および不当徴収
- 恐喝および詐欺
- 犯罪の黙認
- 公費横領
課税対象でない田畑からも税を取り上げ、朝廷の許可を得ずに税率を大幅にアップ、着服するためだけに名目の立たない税を取り立てます。この手口で毎年5万石もの利益を自分の懐に入れました。5万石と言えば、一般的な農民からみたら、ほとんど現実味のない数字です。
朝廷への上納品と称して絹織物・麻織物・漆や油などを生産者から買い付けますが、それらを安く買いたたく、あるいはまったく対価を払わない事もたびたびでした。生産者にとって恐ろしいのは、金が貰えないことがわかっていても品物を用意せねばならない事です。用意しなければ朝廷の御用を怠ったとの名目で、どれほどの重い刑罰が待っている事か。
王朝時代にも貧民救済の施策はありましたが、朝廷から下された救済金を実際に貧民に施すのは受領たちです。元命がこうした務めを果たすはずもなく、全額自分の懐に入れてしまいます。しかしこの時に元命が得たのは米150石に過ぎませんでした。他の悪行でくすねた額と比べて段違いに少ないのですが、この男はそのわずかな額でさえ、自分が儲けられるチャンスを逃さない徹底ぶりです。
元命にとって公金の着服は最も手軽にできる金儲けだったようです。公的連絡網維持のための費用、公有の駅馬などの飼育費及び購入費、河川の渡し場や渡し船の維持及び購入費、国分寺及び国分尼寺にかかる費用、これらに対して朝廷からくだされる金もすべて、自分のものにしてしまいます。
こうした施設の維持費は、郡司たちや近隣に暮らす百姓が自分たちの金から出してなんとか稼働させていました。そして元命は国府に勤める人間の給料も着服しました。
なぜ元命は好き勝手出来た?
しかしなぜ元命はこんなやりたい放題が出来たのでしょうか? それは彼の子飼いの一族・郎党・従者が元命の手足となって彼の犯罪行為を助け、尾張国で暴れまわったからです。朝廷へ提出された告発書には「民の物を奪いて京洛の家に運ぶ」
「目に見る好物は乞ひ取らざる無く、耳に聞く珍物は奪い取らざる無し」
「尾張守の子弟・郎党は辺境に住む野人と異なる処なく、山犬や狼に近い」
等と書かれています。
自分たちへの給料は着服され、公共施設の維持に私費をはたかざるを得ず、その息のかかった者は領国内で好き勝手に暴れまわる… 郡司・百姓たちは思い余って藤原元命を告発しました。
この告発書は受理され、元命は尾張国守を罷免されますが、どうも彼への刑罰はそれだけだったようです。このような悪徳受領はその土地に根を張る豪族によって血祭りに挙げられることも多かったのですが、命拾いした元命は悪運の強い男だったのでしょう。
他人様の田圃の稲をちょうだいする
現代でも他人様が丹精して育てたサクランボやメロンを収穫寸前に盗む不届き者がいますが、平安時代にも同じような輩がいました。 長保元年(999)の晩秋の事です。畿内に住む多治比秋友(たじひのあきとも)という男の収穫直前の九段の田圃に入り込み、豊に稔った稲を刈り取り持ち去ろうとした3人の男たちがいました。おまけに男たちは止めようとした大中臣忠行(おおなかとみのただゆき)と多治比菊本(きくもと)の2人を返り討ちにしてしまいます。
しかし犯人は3人だけではなかったようです。“段”もしくは“反”と言うのは田圃の広さを表す単位で、この時代の一段は1440平方メートルに相当します。九段はその9倍ですから、感覚的に言うと水泳の公式競技の行われる50mプールの約10倍の広さで、東京ドームや甲子園球場のグラウンドと同じぐらいです。これだけの広さをとても人目を盗む短時間で3人で刈り取れるとは思えません。他に手助けする者がいたのでしょう。この事件は検非違使庁に訴え出られ、犯人は取り調べられました。
ただ、この事件は単なる稲泥棒ではなく、持ち主である多治比秋友への嫌がらせでもあったようです。他人の田圃の稲を勝手に刈り取るのは鎌倉・戦国時代にもよく行われた手法で、ちゃんと “苅田狼藉” の名前まで付いています。苅田狼藉は相手への嫌がらせが主な目的で、稔る前の青田でもぐちゃぐちゃに引っ掻き回し、米が手に入ればラッキーぐらいの手段ですが、今回の事件はしっかり収穫物を奪っています。
“寄り物”をかっぱらう
“寄り物”とは、浜に打ち上げられた漂着物で、そうした物は見つけた人間のものになる時代でした。貧しい海辺の村にはありがたい寄り物ですが、時には人々を非道な振る舞いに走らせます。 長徳4年(998)、180石の米と20籠の塩などを積んで、備前国から難波津の淀川口を目指していた船が、摂津の港で波にあおられ、難破寸前になりました。それを見ていたというか、待っていた近辺の住民たちがまだ沈んでいない船に乗り移り、一切合切積み荷を持ち去った挙句、船体まで解体して舟板も奪い、船長まで殺害しかけます。
命からがら逃げた船長の佐伯吉永(よしなが)は検非違使庁に訴えますが、事件はそれほど単純なものではありませんでした。船に乗り込んでいた水夫の1人が、チャンスとばかりに船内の金目のものを盗んで逃げてしまいます。この男が先頭になって地元の不良豪族たちを巻き込んで略奪に及び、邪魔な船長を殺そうとしたのです。
検非違使庁の文書はこの男たちを「不善の輩」と呼んでいます。「不善の輩」たちは略奪の後、元の受領の元に逃げ込みました。船長の災難はこれだけではなく、仕事中に船を沈め、積み荷まで奪われてしまったのでその損害まで船主・荷主から請求されています。
おわりに
悪徳受領といえば藤原元命。元命は非道な行いを散々しましたが、どれも国家の転覆をはかるというような大それた悪事ではなく、ひたすら私腹を肥やすみみっちい犯罪です。そんな男が千年後の世にも名を残しているとは…。※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
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