紫式部は受領階級の娘 転勤族・中級貴族の代名詞、平安時代における「受領(ずりょう)」とは何か?

 紫式部は受領階級です。「受領」とは地方政治に関わる国司(= 中央から派遣されて諸国の政務を行った地方官の総称)の長官「守(かみ)」。

 紫式部の父・藤原為時(ためとき)は越前守、越後守を歴任した典型的な受領階級、中級貴族です。地方官僚のトップである受領は重要な官職であり、また経済的なうまみもありますが、国政に関与する朝廷の高官からすれば、ランクは少し下。そうした中級貴族を見下した気分を含む呼び方でもあります。

 受領とは何かを解説します。

地方に赴任する国司長官「受領」

 「受領」はもともと国司の事務を前任者から引き継ぐことを言いました。そこから実際に現地に赴任する国司長官「守」を「受領」というようになります。なお、同じ行為を前任者からみると、後任者への「分付(ぶんづけ)」といいます。

現地に赴任しない「遥任」

 現地に赴任しない国司長官もいました。中央政府の官職を兼任している上級貴族は現地に赴くことはできません。代官を送るか、現地の者に任せるのです。これは「受領」でなく、「遥任」です。

 また、上野、上総、常陸では次官「介(すけ)」が受領。この3国は守に親王が就く親王任国で、その親王は「太守(たいしゅ)」と呼ばれますが、現地に赴任することはなく、介が事実上のトップです。

租税の管理、運用で実益

 受領に就くのは四位、五位の中級貴族。中央では中間管理職的な地位までしか望めませんが、地方に行けばナンバーワン。あえて京を離れて受領の地位を望む者もいました。国司の任期は4年。何カ国もの国司を歴任する者もいて、まさに転勤族です。

 受領は、租税を徴収し、京へ運ぶ責任を負っていますが、その過程で管理する納税物を私的に運用し、貸し付けて利益を得ることも可能になります。こうして私腹を肥やす受領が大勢いました。

 また、同じ受領なら豊かな国に赴任したいものです。国は納税規模などで大国、上国、中国、下国と4ランクに区分されていました。大国、上国の守への任官は五位あたりの位階が相当で、中国、下国では六位あたりが相当。自身の位階に応じて、より豊かな国への任官を望む者が多くなります。

『源氏物語』の中の受領階級

 『源氏物語』に登場する受領は中級貴族の典型で、光源氏のような貴公子からは一段も二段も下に見られます。光源氏は受領階層の女性を相手にすることは思ってもいなかったのですが、ある夜、親友・頭中将たちの話を聞き、興味を持つようになります。

「空蝉」身分差を意識

 光源氏が17歳のころ関係を持った女性が、家臣・紀伊守の義母である空蝉(うつせみ)です。一夜の関係の後、空蝉は光源氏に心を残しながらも、たびたびの求愛を拒絶。上級貴族出身の空蝉は受領である伊予介の後妻となったことを零落と感じ、光源氏とは身分が釣り合わないと卑下していたのです。

憎まれ役「末摘花」の叔母

 光源氏が18歳のころ出会った恋人・末摘花は不美人で、笑われ役ですが、親王の娘というかなり高貴な身分。プライドは高いのですが、既に父はなく、経済的にひどく困窮していました。ここにつけ込んできたのが末摘花の叔母。第15帖「蓬生(よもぎう)」に登場し、典型的な受領階級の妻として、憎々しげに書かれています。

 末摘花の叔母は夫が大宰大弐(大宰府次官)に任官。末摘花を娘の養育係として九州に同行させようと執拗に誘います。末摘花は頑なに拒絶。叔母は「こんなみじめな生き方をしている人を(光源氏が)自分を待っていてくれたのかと、復縁されることも難しいでしょうね」などと強烈な嫌味を言い捨て、性格の悪さが強調されています。

 ただ、末摘花の叔母ですから、もともと親王の親族。受領階級の妻となったことで親族から見下されました。それが経済的には立場逆転。皇族からみれば、かなり低い身分の受領階級ですが、現実社会では勝者になり得ることを示しているのです。

強欲? 私服を肥やす中級貴族

 実際の受領たちはどんな姿だったでしょうか。

 紫式部の父・藤原為時は長徳2年(996)、越前守に就きますが、『今昔物語集』『古事談』には、藤原道長の強力な後押しで任官した逸話があり、為時自身も有力国司への任官を強く望んでいたことが分かります。

 また、平安時代中期の有力武将・源頼光は藤原道長の家臣でもあり、国司の職をいくつも歴任しました。道長の邸宅が火災に遭った後の再建祝いでは京の人々が度肝を抜く贈り物で財力を示します。政治の頂点に立つ藤原道長とのコネが人事で優遇され、国司歴任で財力を蓄え、その財力が道長を支える構図になっていたのです。

藤原陳忠 強欲さを自慢

 『今昔物語集』に信濃守・藤原陳忠(のぶただ)が登場します。藤原陳忠は藤原南家の貴族で、天元5年(982)、信濃守在任が確認できる実在の人物です。

 物語では、帰京の道中、馬が峠の架け橋を踏み外して谷底に転落しますが、家来たちに救出された際、ヒラタケを手にして吊り上げられました。そして、「受領たる者、倒れたところの土をもつかめ、と言うではないか」と、受領の強欲さを自ら表現しています。

藤原元命 悪行訴えられ解任

 永延2年(988)、尾張守・藤原元命(もとなが)は有力農民や地方役人の郡司らに訴えられます。

 「尾張国郡司百姓等解文」は元命の非法悪行31カ条を列挙。徴税基準の変更や臨時税の取り立てのほか、国司が負担すべき費用を出さず、一族、郎党を率いて不法行為を繰り返したと非難されています。この結果、元命は尾張守を解任されました。

 このように私利私欲に走り、私腹を肥やす受領は大勢いました。訴えられて解任される受領も珍しくありません。しかし、一方的に受領だけが悪いかというと、受領の下で働く現地採用の地方役人や有力農民らも利益を奪い合っていました。訴訟だけでなく、時には騒動や受領殺害事件に発展する場合もありました。欲の皮が突っ張っていたのはお互い様なのです。

現地に赴任しない「少年受領」

 受領は、実際に現地に赴任する国司長官のことですが、平安時代後期には「少年受領」が出現します。少年ですから受領とはいえ、現地には赴任しません。

 例えば、平治元年(1159)の平治の乱で平清盛に敗れ、斬首される藤原信頼は16歳で土佐守、18歳で武蔵守に任官しますが、任国に赴任したかどうかは分かりません。

 また、安元3年(1177)の鹿ケ谷の陰謀で平清盛直々の尋問を受け、流罪先で謀殺された藤原成親は7歳で越後守に任官しますが、当然、形だけ。

 平安時代後期、院政を敷く上皇の側近となる中級貴族がいました。人事権を握る上皇の側近ですから、身内の任官も思いのまま。ただ、少年受領は統治能力もなく、コネ人事の典型ですから、当時から批判はありました。

おわりに

 『平家物語』に「受領神」という言葉が出てきます。受領になると、まるで神にでもなったかのように尊大になり、いばり散らすことを非難した言葉です。受領は傲慢というイメージが固まっています。

 また、『源氏物語』では、裕福でも下品な人物として受領階級が描かれています。紫式部自身いい感情を持っていないようにもみえますが、出身階級に対する自虐なのか、演出なのか分からない部分もあります。遠慮ない観察眼から視界に入る人物をデフォルメし、光源氏の高貴さを際立たせているのかもしれません。

【主な参考文献】
・武石彰夫訳『今昔物語集本朝世俗篇 全現代語訳』(講談社、2016年)講談社学術文庫
・源顕兼編、伊東玉美校訂・訳『古事談』(筑摩書房、2021年)ちくま学芸文庫
・村井康彦『教養人の日本史(2)』(社会思想社、1966年)現代教養文庫
・与謝野晶子訳『日本文学全集1源氏物語』(河出書房新社、1965年)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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