意外に長持ちした平安時代。平安京の住人は身分の高い平安貴族ばかりだった?
- 2024/02/21
近頃何かと話題の平安時代。平安時代とは第五十代桓武天皇が平安京に遷都してから、鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指しますが、平安京にはどんな人々が暮らしていたのでしょうか。
意外に長持ちした平安時代
一口に平安時代と言ってもかなり長い年月を指します。始まりは桓武天皇が詔を下し、京都に遷都した延暦13年(794)として、終わりを源頼朝が征夷大将軍に任命された建久3年(1192)としましょう。これだと398年間です。あるいは、終わりを頼朝が武家の棟梁と認められ、諸国に守護・地頭を置くことを朝廷から許された文治元年(1185)とすれば391年間、どちらにしても400年近くも続いた時代なのです。何世紀も続いた縄文・石器時代はともかく、太平の御世が長く続いたと言われる江戸時代でさえ、300年はもちませんでした。文字の記録が残っている時代としては、平安時代は日本史上最長の時代なのです。
平安京の光と影
平安時代を前期・中期・後期の3つに分けるとして、我々が思い描く平安時代らしいのは貴族文化が花開いた平安中期です。この時代には現在に伝わる平安時代を代表する文学作品が数多く生まれました。『枕草子』や『源氏物語』をはじめ、『竹取物語』『伊勢物語』などの物語集、『土佐日記』『蜻蛉日記』『更級日記』などの日記文学、『古今和歌集』『拾遺和歌集』などの勅撰和歌集が編まれたのもこの時代です。まさに日本の宝とも言うべき古典作品が多く誕生しました。『源氏物語』に描かれるような、朝廷を中心に貴族たちが雅に歌の贈答を行い、恋の駆け引きや政争に明け暮れる平安京の光の部分です。
では影の部分はどうでしょうか…。そもそも平安京遷都が行われたのは、早良親王の怨霊に追い立てられるように長岡京を逃げだした桓武天皇が、京都を新しい都に選んだからです。桓武天皇はもうあんな恐ろしい思いは味わいたくないと四神相応の地を都に選び、北東の鬼門には比叡山延暦寺を西南の裏鬼門には石清水八幡宮を配し、都の呪術的守りをしっかり固めます。
しかしそんな都でも大通りから一歩入った裏道では転がった死体を野犬があさり、灯りもない夜は盗賊が好き放題に暴れまわります。
平安京の住人たち
平安京にはどんな人たちが住んでいたのでしょうか? 延暦13年(794)10月、遷都が行われますが、遷都の後も都の造営工事は続けられました。延暦24年(805)12月、藤原緒嗣(おつぐ)と菅野真道(まみち)の2人が論争し、結果を帝に進言します。藤原緒嗣:「これ以上の平安京造営と蝦夷征伐は民を疲弊させるばかり、即刻の中止が良策」
こうした緒嗣の意見に、真道も譲りません。
菅野真道:「都の造営も蝦夷征伐も政治の本道なり、続けるべき」
有名な“徳政論争”ですが、結局、桓武天皇は緒嗣の意見を取り上げ都は未完成のままとなりました。
未完成ではありましたがこの時の都の大きさは東西1508丈(約4.5キロ)、南北1753丈(約5.2キロ)ありました。ここに何人が暮らしていたかと言うと、およそ12~13万人と思われます。
そこに住んだのはどのような人々かと言うと、都の平安京には身分の高い人々が多く集まっていました。高い身分と言うのはまず、帝・院・親王・内親王など王家の人々ですが、それだけではありません。当時の身分をざっくり分けると、公卿・諸大夫・侍・庶民の4身分になります。
身分を分ける時の基準は、律令に定められた“位階”です。正一位から小初位下(しょうそいのげ)まで、以下のように30段階に分けられます。
序列 | 品位 | 位階 |
---|---|---|
1 | 一品 | 正一位 |
2 | 一品 | 従一位 |
3 | 二品 | 正二位 |
4 | 二品 | 従二位 |
5 | 三品 | 正三位 |
6 | 三品 | 従三位 |
7 | 四品 | 正四位上 |
8 | 四品 | 正四位下 |
9 | 従四位上 | |
10 | 従四位下 | |
11 | 正五位上 | |
12 | 正五位下 | |
13 | 従五位上 | |
14 | 従五位下 | |
15 | 正六位上 | |
16 | 正六位下 | |
17 | 従六位上 | |
18 | 従六位下 | |
19 | 正七位上 | |
20 | 正七位下 | |
21 | 従七位上 | |
22 | 従七位下 | |
23 | 正八位上 | |
24 | 正八位下 | |
25 | 従八位上 | |
26 | 従八位下 | |
27 | 大初位上 | |
28 | 大初位下 | |
29 | 少初位上 | |
30 | 少初位下 |
これとは別に親王・内親王には一品(いっぽん)・二品・三品と言った品階(ほんかい)が与えられます。この位階の三位以上が「公卿」、四位・五位が「諸大夫」、六位以下は「侍」になります。
位階を持たない庶民はひとまとめにして無位です。ここで言う「侍」は、後世の武士ではなく、武装して警護の役に付く官人もいましたが、文官官僚も侍と呼びました。ただ彼らは次第に武芸を以って主に仕える武士に変身して行きます。
12万人から13万人の都人のなかで公卿と呼ばれる人々はほんの一握りで、名前の一覧表が残されていますが、長保2年(1000)だと藤原道長を筆頭にわずか30人しか記載されていません。高位の人々には帝や院・親王・后・僧侶も含まれますが、それでも全員あわせても公卿身分に相当する人たちは70人もいたかどうか。
どのあたりまでが平安貴族なのか?
この時代、公に貴族として扱われるのは、律令の規定により従五位下以上の位階を朝廷より与えられた人々です。ただ、この規定を厳密にとらえると、例えば『蜻蛉日記』を書いた藤原道綱母は貴族とは呼べなくなってしまいます。彼女は正四位下伊勢守藤原倫寧(ともやす)の娘であり、従一位摂政太政大臣藤原兼家の妻でありましたが、彼女自身が朝廷から位を与えられたわけではありません。
同じように道綱母の姪に当たる『更級日記』の作者も、正五位下常陸介菅原孝標の娘であり、従五位上信濃守橘俊通の妻でありましたが、彼女が正式な位階を持っていたとは伝わりません。しかし現代ではこの2人を貴族階級に属する人間として認識しています。
このように平安貴族の範疇には正式な位階を持った人間の周りの人々、配偶者や子供たちも含めています。彼らは決して庶民階級の暮らしをしておらず、それなりの教育も受けていましたし、子供ならいずれ位階を授かるだろうからです。
そして平安時代も中期を過ぎると、従五位下の1つ下の位階正六位上が力をつけて来て、正式な貴族ではないものの実質的に下級貴族として通用するようになります。このころには朝廷は貴族階級の増えるのを押さえようとして、正六位下より下の位階を与えることはほとんど無くなり、実質正六位下から下の階級は消滅します。そうなると自然と正六位上までが貴族として扱われるようになりました。
貴族社会の構成員
貴族社会の構成は上級貴族は30人、中級貴族は1000人、下級貴族は4000人ぐらいだと思われ、貴族と呼ばれる人々はせいぜい5000人ぐらいでしょうか。この中には彼らの扶養家族は含まれていませんから複数の妻や子供をプラスして、2万人から2万5000人ぐらいが貴族階級だったと思われます。平安中期から後期の10世紀から12世紀の間、日本の人口はほぼ600万人で横ばい状態でした。気候の悪化や疫病の流行、農業技術の未発達で多くの人口を養えないなど理由は様々考えられます。これら600万人弱の人々がせっせと地方の荘園で働き、税を納め作物を上納して貴族の生活を支えました。
おわりに
平安時代は意外に長く続いたのですね。時代が長く続くのは、大きな戦乱や国を揺るがすような疫病・自然災害が起こらず為政者が変わらなかったからですが、王朝政治はうまく機能していたのでしょうか。【主な参考文献】
- 繁田信一『知るほど不思議な平安時代 上』教育評論社/2022年
- 井上幸治『平安貴族の仕事と昇進』吉川弘文館/2023年
- 大石学『一冊でわかる平安時代』河出書房新社/2023年
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