「岩瀬忠震」当時最先端の認識・考え方を持ち、日本を植民地化から救った幕臣の憂うつ
- 2024/06/21
江戸時代が終わりを告げるその第一幕で、1858年に幕府がアメリカと締結した日米修好通商条約(ハリス条約)は、アメリカの要求を一方的に受け入れた不平等条約であった、と習った方は多いだろう。ではその締結において幕府側で中心的な存在であった岩瀬忠震(いわせ ただなり、1818~1861)という人物はご存じだろうか?
この人物、教科書にも出てこない、ましてやドラマにもほとんど登場しないが、調べてみるととんでもなくスゴイ人だった。明治政府により、幕末の徳川幕府は無能な官僚しかいなかったかのようなイメージを持っていたが、いやいや… 幕臣たちの中にも日本を守るために、堂々と列強各国と渡り合える人材もいたのだ。
この人物、教科書にも出てこない、ましてやドラマにもほとんど登場しないが、調べてみるととんでもなくスゴイ人だった。明治政府により、幕末の徳川幕府は無能な官僚しかいなかったかのようなイメージを持っていたが、いやいや… 幕臣たちの中にも日本を守るために、堂々と列強各国と渡り合える人材もいたのだ。
安政の五カ国条約の調印すべてに立ち会う
岩瀬という人物がどうスゴイのか、まずはその点についてさっくり説明をしておこう。嘉永6年(1853)にペリーが浦賀に来航した。目的は、日本の港を開港させ、アメリカとの貿易を行うことであった。長きにわたる鎖国による安寧に胡坐をかき続けていた幕府高官の一部や有力大名は「異国など打ち払ってしまえ」と叫ぶばかりで具体的な策など出てこない。
そこで当時の老中首座・阿部正弘が外交官として抜擢したのが岩瀬忠震である。学業はもちろん優秀、その上旺盛な知識欲に対応力、決断力もあったという岩瀬が阿倍のお眼鏡にかなったのだ。
阿部の期待通り、岩瀬は巧みな交渉術と高い教養、臨機応変な対処能力を駆使し、欧米との折衝に尽力した。そして、日米・日露・日蘭・日英・日仏五カ国の条約すべてに調印した唯一の幕臣となった。
欧米は本当に日本を植民地にしたかったのか?
ここで確認しておくべきは、欧米が日本へやってきた理由である。幕末の攘夷志士や討幕派たちが揃って叫んでいたように、欧米は本当に日本を侵略したかったのか。もしかするとそれは、大いなる誤解だったのではないだろうか。これはあくまで私の考えだが、欧米各国は日本と貿易をしたかったのではないか。もちろん自国の利益のために少しでも有利な貿易をしたいという思いはあったとしても、植民地にするという意図はあまりなかったように思う。
なぜなら、本当に侵略をもくろんでいたなら、問答無用で武力を使うことはできたはずだからだ。当時の日本と欧米各国の軍事力差は、赤ん坊と大人以上の差があっただろう。だが彼らはそれをせず、あくまで話し合いを求めたのである。
ところが当時の多くの日本の人々は、ただ異国を恐れるあまりに過剰反応をしてしまった。これは鎖国政策により、海外の知識があまりにも少なかったことに原因がある。
不平等ではなかった欧米との条約
例えば日米通商修好条約の場合、関税は平均20%、酒とたばこは35%としている。これは欧米各国で取引されていた関税とほぼ同等であり、不平等とは言えない。領事裁判権についても承認はしたものの、幕府には外国人が居住する地域外へ自由に出られる状況を作るつもりがなかった。長崎の出島のように行き来を制限していれば、外国人が日本で犯罪を起こすこと自体が難しく、領事裁判権など絵に描いた餅である。万一犯罪を起こしたなら、日本から追い出せばよいだけである。シーボルトのように。
となると、安政の条約は、明治政府が訴えていたような不平等条約ではなかったのだ。
では、はじめから欧米各国は日本と平等な条約を結ぶつもりだったのか、というとそうではない。何も知らないだろう日本相手なら、自国が有利な条件を提示していたはずだ。
それを阻止し、条件を変更させ、出来るだけ日本が不利益を被らないように交渉したのが、岩瀬をはじめとする優秀な外交官だったのである。
外交官・岩瀬忠震
岩瀬は、明治に活躍したジャーナリスト・福地源一郎により、水野忠徳(ただのり)・小栗忠順(ただまさ)とともに「幕末の三傑」と評された能吏であった。しかしはじめから欧米との交渉に長けていたわけではない。岩瀬忠震の経歴
忠震が生まれたのは、旗本・設楽家である。貞丈という父と林述斎の娘である母の間に生まれた設楽家の三男である。林家は林羅山を祖とする儒学者の家系で、忠震の叔父には鳥居耀蔵(とりいようぞう)がいる。文政元年(1818)に江戸で生まれた忠震は、のちに岩瀬家の養子となり、岩瀬家を継いだ。武家の教育機関としては最高峰の昌平坂学問所で学び、優秀な成績を誇っていた。昌平坂学問所では、儒学や朱子学を学んでおり、蘭学などの海外の学問はほとんど学んでいなかったらしい。しかし、彼は外交官になった。
外交官となった岩瀬
国を守るためにどうすれば良いのか、列国とはどのように付き合うべきなのか。岩瀬は数少ない外国人(主にオランダ人)と交流し、学ぶことで、海外の知識や貿易の有益さ、かたくなに拒否することよりも交渉してより有利な条件を勝ち取る方が重要だということを知る。欧米との交渉
各国が提示する条約を徹底的に拒否すれば、その先には力による支配が待っているはずだ。拒否ではなく、より有利な条件を引き出す交渉こそが日本を守る唯一の方法だと考えていたのは、当時の日本では岩瀬や彼と共に各国と交渉をしていた優秀な幕臣たちだけだったかもしれない。彼ら外交官は、条約を締結するにあたり、条約の内容を詳細に調べたうえで、日本に出来るだけ有利な条件に変更するために何度も交渉し、かつ各国への友好的な態度を示し続けた。
安政2年(1855)ロシアのプチャーチンが来航すると、岩瀬は全権大使として交渉に当たり、日露和親条約に調印している。以後も各国との折衝・交渉そして調印を行った。
徳川幕府よりも大切な日本と言う国
日本をどうすれば守れるのか、岩瀬は幕臣としてではなく、国家の命運を優先していたという。前述の福地源一郎(桜痴)は、自署『幕末政治家』で、岩瀬について述べている。岩瀬は、「国家の利害など全く考えていない朝廷の許しなど不要」「無勅許調印に踏み切るべきだ」と言っていたらしい。そしてもし勅許を取らなかったことで、幕府が不測の重大事に至ったとしても、致し方ない。
「国家の大勢を預かる重職は、この場合に臨みては社稷(しゃしょく=国家)を重しとするの決心あらざるべからず」
わかりやすく言うと、「国政を預かる重職にある者は、己の保身や組織の維持を考えるのではなく、国家・日本という国全体の命運を優先すべきである」ということだ。
幕臣でありながら、これだけの覚悟ができる岩瀬忠震という人物のすごさがここにある。
将軍継嗣問題に翻弄された岩瀬
「幕臣の中でただ一人 鎖国攘夷の臭気を帯びなかった」とも福地が評しているように、岩瀬は当時としては珍しく頑迷な開国・開明派であった。ところが、なぜか極端な国粋主義者である水戸藩の徳川斉昭とウマが合ったらしい。斉昭は、第13代将軍家定の継嗣問題において、実子である一橋慶喜を推していた。一方、大老の井伊直弼は紀伊藩の徳川慶福(よしとみ:後の家茂)を推している。結果はご存じの通り、慶福に軍配が上がった。
井伊直弼との対立
安政五カ国の条約締結については、井伊自身も積極派ではあったが、締結後はやはり徳川への忠誠が第一であり、各国との交易も徳川幕府が中心となって行うべきだという考えを持っていたようだ。一方で岩瀬は、鎖国などもってのほか、幕府という枠にとらわれることなく、各国との積極的な交易を行うことで国力を高める。交流国へ留学生や大使を派遣し、見聞を広め、いずれは列強と対等に付き合える国となり、西欧の植民地支配を改めさせる、という具体策まで考えていた。
これは維新後の明治政府が打ち出した近代化政策とほぼ同じではないか。維新前夜、まだほとんどの人間が攘夷を叫び、幕府の弱腰を責めていた当時としては最先端の認識・考え方を持っていた。
岩瀬と井伊は、条約調印後の方針が全く異なっていた。その上、慶喜の実父である斉昭に近い存在、つまり協力者であると見られていた岩瀬は、慶福を推す井伊にとって完全に邪魔者であり、敵であった。たとえ岩瀬が優秀な外交官であり、五カ国条約調印の立役者の1人であったとしても、である。
岩瀬は、安政の大獄において作事奉行へ左遷されてしまう。
無念の死
安政9年(1859)、岩瀬はさらに蟄居を命じられ、江戸向島で書画に専念する生活を送っていた。文久元年(1861)、ただ国の良き未来を考え、行動した幕臣きっての英才は、失意のうちに病死する。あとがき
岩瀬の価値を理解し、彼が最も輝く場所で、その才能を生かすことのできる眼識ある上司がいたなら、もし岩瀬が幕末の動乱の中で生き延びていたら…。明治維新は、日本という国は、もっと違う進化を遂げていたかもしれない。鎖国から一気に開国へ舵を切らなければならなかったあの時代、才知あふれる岩瀬たち幕臣が命を懸けて各国と渡り合ったおかげで、今の日本がある。少なくとも欧米の植民地になることはなかったのである。
今の国政を担う人間の中に、岩瀬のような人はいったいどれだけいるのだろうか。本当にいるのか?日本のこれからを憂い、どうすれば日本に住む人々を守れるのか、幸せになれるのか、そんなことを本気で考えている議員は必ずいるということを、私はただ願うばかりだ。
私たちに出来ることは、彼らの行動を監視し、投票行動で裁くしかない。
【主な参考文献】
- 原田伊織『続・明治維新という過ち 列強の侵略を防いだ幕臣たち』(講談社、2018年)
- 松岡英夫『鳥居耀蔵 天保の改革の弾圧者』(中央公論新社、1991年)
- 大石学 監修『ビジュアル幕末1000人』(世界文化社、2009年)
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