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意外に知られていないペリー来航の謎
- 2022/12/02
・ペリーは米国人だから英語しか話せない。一方、日本の通詞は長崎でオランダ人しか相手にしていないのでオランダ語しか話せない。どうやって会話をしたのか?
・ペリーは江戸幕府との直接交渉を要求しているが鎖国していた日本に「幕府がある」ということをペリーはどうやって知ったのか?
実は「どうやって会話をしたのだろう?」というのが私の最初の疑問でした。長崎の出島はオランダとの交流のための施設でオランダ人はオランダ語が母国語なので幕府の通詞(正式な役職で通訳担当)はオランダ語は話せましたが英語は全く話せなかった、と考えるのが自然だからです。
もちろん、オランダ人の中には英語を話せる人もいたでしょう。しかし、だからといって目的もなく英語を日本人の通詞に教えるでしょうか? それはちょっと考えにくいことでした。
また、ペリーは明らかに事前に日本の各種情報を知ったうえで来航しています。米国大統領からの国書を持参し、いきなり江戸幕府との直接交渉を要求してきているのですから。当時、日本は鎖国をしており日本の内部情報が外部に漏れるとしたらオランダ経由でしか考えられません。しかし当時、オランダとアメリカは植民地獲得競争でライバル関係にあり、わざわざ敵に塩を送るようなことはしないだろう、と考えるのが自然です。
オランダとしても日本との貿易を独占しているのですから、その独占状態を危険にさらすようなことはしないでしょう。つまり、「日本人に英語を教える必要性」はここでも否定されてしまうのです。
では、これらの疑問の種明かしをしてみましょう。そこには意外な事実があったのです。
ラナルド・マクドナルド君の冒険
アメリカのニューヨークから太平洋へ鯨を取りに行く一隻の漁船が出航していきました。名前はプリマス号。その船員リストの中には新人であるラナルド・マクドナルド君という青年がいました。彼は英国人の父親とインディアンの母親の間に生まれた、いわゆる「有色人種」でしたがインディアンの子孫であることに誇りを持っていました。そしてインディアンの長老から「インディアンの原点は日本という国なんだ」と教えられ、そこで「一度、日本に行ってみよう」と思ったのです。
しかし日本は鎖国をしており、日本行きの船などありません。そこで彼が目を付けたのが太平洋で捕鯨をする捕鯨船でした。当時、日本近海は鯨が良く取れる場所だったのでアメリカの捕鯨船は日本周辺まで行って漁をしていたのです。当然ながら一航海は1年以上、という長期間です。
プリマス号はハワイ、香港を経由したのち、琉球方面から日本海に入り、韓国の済州島を通過して北海道周辺にやってきました。するとラナルド君の目の前に陸地が見えました。あれが日本であるに違いありません。「今だ!」ラナルド君は小さな手漕ぎボートに乗ってプリマス号を脱出し、ただ一人、目の前に見える陸地を目指しました。
陸地が目の前にくると、わざとボートをひっくり返しました。なぜなら密入国だと処罰を受ける可能性がありますが、遭難者を装えば強制送還程度で済むだろう、と考えたからです。こうしてラナルド君が到着したのは北海道の焼尻島(やぎしりとう)という島でした。
実は島民はいたのですが、彼は無人島だと勘違いし、もう一回ボートに乗って北上し利尻島に到着。利尻島にはアイヌの人達が住んでいたので彼らに助けられました。
「異人の漂着者がいる」という情報はすぐに松前藩に知られることとなり、ラナルド君を松前藩の役人が確かめに来ました。そして確認した松前藩は江戸幕府に「どうしたら良いか」を問い合わせます。すると幕府は「異人は長崎に送るべし」と言う答えを返してきました。
こうしてラナルド君は長崎行きの船に乗せられることになります。
その頃、長崎では…
長崎にある出島には代々、通詞を務める役人が沢山いました。彼らはオランダ語は堪能でしたが、それ以外の言葉はダメでした。そういった通詞役人の中の一人に森山栄之助という人物がおり、来日したオランダ人から「中国でアヘン戦争というのが起こっており、中国はイギリスに負けそうだ」という話を聞きました。栄之助は「もし、そのイギリスというのが日本に来たらどうしよう」と考え、オランダ人に聞いたところ「イギリス人は英語という言葉を話す」と教わります。栄之助は「ならば英語を教えて欲しい」とオランダ人に頼んだところ、英語を知っているオランダ人が彼に基本的な単語や会話を教えてくれました。
ただ、教えてくれた英語は「オランダ訛り」がひどく、実際の英会話には、とても使えそうもないものだったようです。とにもかくにも栄之助は「英語への第一歩」を踏み出したのです。
そんな栄之助の耳に「松前で遭難した異人がおり、もうすぐ長崎に来るそうだ。何でもオランダ人ではないらしい」という話が入りました。そして到着したラナルド君は「私はアメリカ人だ」と英語で話しました。そして、それを理解できたのは栄之助だけだったので、彼がラナルド君の取り調べを担当することになりました。
栄之助が拙いながらも英語が話せることを知ったラナルド君は彼に本格的な英会話のレッスンを始めます。その話を聞いた長崎奉行は「せっかくだから」ということで通詞14人を選抜し、ラナルド君に英会話を教えてもらうことにします。しかし、やはり栄之助が一番、覚えが良く、めきめきと上達していきました。
江戸幕府の判断とアメリカの驚愕
その頃、江戸幕府ではラナルド君の処遇について判断を求められていましたが「遭難者なのだから仕方がない」ということになり、本国に送還することに決めました。しかし連絡方法がないのでオランダを通じてアメリカ政府に迎えに来てもらうよう、お願いすることになりました。別に悪いことをした罪人ではないのでラナルド君に対する扱いは極めて丁重なものであったそうです。しかし「オランダ経由アメリカ政府宛のメッセージ」は届くのに、えらく時間がかかります。要は出島からオランダの船が出航し本国に帰国したら「しかるべき筋」に、その旨を伝えると、オランダからアメリカまで行く船に、そのメッセージが託され大西洋を渡って、やっとアメリカに届くのですから。
実際、ラナルド君を引取りに来たプレブル号という軍艦が長崎に入港したのはメッセージを託してから7か月も後のことでした。ですので「ラナルド英会話学校」は7か月間、開催され、栄之助の英会話力はプレブル号の船長を驚かせるほどになっていました。
さて、オランダから連絡を受けたアメリカ政府は「これはチャンスだ!」と考えました。当時のアメリカにとって捕鯨は重要な産業であり、どうしても日本近海まで行く関係上、出来れば日本と交流を持ち捕鯨船の燃料や水、食料補給などが出来るようにしたかったのです。しかし日本は鎖国で全く情報がなく「神秘のベールに包まれた国」であり、どんな国で、どんな人がいるのか全く分かりませんでした。アフリカの未開地のように野蛮人がいて上陸したら襲われてしまうのではないか、という懸念すらあったのです。
しかし、日本に入国して見聞してきた人物がいるのであれば、情報が得られます。実際、帰国したラナルド君はアメリカ政府から質問攻めにされます。そしてラナルド君から得た情報はアメリカ政府を驚愕させるに十分なものでした。
日本は未開地どころか非常に高度な文化を持ち、徳川幕府という、しっかりした政治体制が築きあげられている国だと分かったのです。ならば交渉は可能、と判断し、日本の徳川将軍宛の国書を作成しました。人選は多少の混乱の末、海軍のマシュー・ペリー代将に行ってもらうことになりました。
以降の展開は皆さんがご存じの通りです。
浦賀来航
ペリー代将は「長崎に入港するとオランダと揉めそうだ」と考え、さらに「日本人は蒸気船など見た事はないだろうから実際に目で見れば、こちらの軍事力を理解できるだろう」と考えました。しかし江戸湾(今の東京湾)に乗り入れるのは「恐怖を与えすぎてしまい逆に攻撃を受けかねない」と考え、あえて浦賀を選んだようです。アメリカが日本に特使を送ってくるようだ。しかも長崎ではなく三浦半島、という情報は長崎にあるオランダ商館長にも入り、商館長はそれを長崎奉行を通じ、江戸幕府にも知らせています。しかし長崎奉行の「商館長の言うことはあてにならん。以前にもいい加減なことを言っていた」という言葉が付けられてもいました。
これを受けた老中、阿部正弘は「一応、警戒しておくか」という程度にとどめ、あまり真剣には捉えられなかったようですが、万一に備え、浦賀を管轄する浦賀奉行所に注意を促し、念のために江戸詰めの通詞である堀達之助を浦賀に派遣しておくことにしました。
今、考えると、このとき堀達之助を派遣しておかなかったらどうなったのだろう、と心配になります。堀達之助は一応、初歩的な英会話なら出来る人物でした。そして、本当に黒船がやってきました。
浦賀奉行所というのは、要は警察組織です。そして警察組織の現場トップである「与力」の中島三郎と堀達之助は小さな船に乗り旗艦と思われる大鑑、サスケハナ号に近づいていきます。そして堀達之助は大声で叫びました。「I can speak Dutch!」(私はオランダ語を話せる)、するとサスケハナ号は、あらかじめ用意していたオランダ語通訳のポートマンを出してきたので、会話が成立したのです。
そしてペリーの要求を聞いた幕府は、急ぎ、長崎から英語ができる通詞を呼び寄せます。そして森山栄之助が通訳を担当することになったのです。
ペリー提督の黒船が浦賀に現われるまでに実は、以上のようなことがあったのです。つまり全てはラナルド・マクドナルド君の冒険がきっかけとなったのです。
彼は日本では全く、無名の人物ですがアメリカでは歴史上の重要人物とされており研究書も多数、出版され教科書にも載るほどの有名人なのです。彼は日本から帰国後もインド、オーストラリア、アフリカ、ヨーロッパと飛び回りWikipediaでは「冒険家」という肩書がついています。日本でも長崎市にはにはラナルド君の顕彰碑が今でも残されています。
ペリー来航後を述べた物は多いですが、来航するまでのいきさつを述べた物はあまり無いと思いますので、あえて、ここに書いてみました。ご参考になれば幸いです。
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