「光る君へ」円融天皇が譲位の際に藤原兼家に語った”本音”とは

 大河ドラマ「光る君へ」第4回目は「五節の舞姫」。円融天皇が譲位され、本郷奏多さん演じる師貞親王が即位、天皇(花山天皇)となった回でした。

 円融天皇は、永観2年(984)、譲位されます。『栄花物語』(平安時代の歴史物語)には、今年こそ譲位したいと天皇が決意を固めていたと記されています。そうした時、天皇が不快に感じていらしたのが、右大臣・藤原兼家(藤原道長の父)でした。円融天皇が、関白・藤原頼忠の娘(遵子)を中宮とし、兼家の娘(詮子。円融の女御)を中宮としなかったことに腹を立て、参内(宮中に参上)しなかったからと同書にはあります。

※参考:藤原九条流と小野宮流、円融天皇の略系図(編集部作成)
※参考:藤原九条流と小野宮流、円融天皇の略系図(編集部作成)

 詮子は円融天皇の皇子・懐仁親王(後の一条天皇)を産んでいたのですから、兼家としては尚更、立腹したことでしょう(遵子は円融の子は産まず)。遵子の立后の際、彼女の弟・藤原公任は、兼家の邸(東三条邸)前で「こちらの女御(詮子)はいつ立后なさるのか」と自慢気に放言したといいますから、兼家の怒りは倍加したはずです(平安時代後期の歴史物語『大鏡』)。

 『栄花物語』によると、詮子のもとで「皇子立太子(皇太子を定めて、その地位につけること)」の祈祷が盛んに行われていたようです。円融天皇は、右大臣・兼家に「参内せよ」と頻りに申し渡していましたが、兼家は風邪等を理由として、参内せず。天皇は、皇子の懐仁親王に、7月に行われる相撲を見せたいと思っていたので、何度も参内を促していたようです。度重なる参内要請に、兼家は屈し、ついに参内。そこで、円融天皇は次のように仰ったといいます。

「天皇位に就いてから16年。このように長く位にあるとは思わなかったが、いつまでいても月日に限りはないので、譲位の決心をした。

 しかし、今月は相撲の事で騒がしいので、来月に行おうと考えている。そこで皇太子(師貞親王=花山天皇のこと。師貞は円融天皇の即位時に皇太子となっていた)が即位したら、次の皇太子には、詮子が産んだ懐仁親王を立てようと思う。

 この事が叶うように、種々の祈りをさせよ。詮子の皇子のことを朕(私)は疎かには思っていないが、朕のその心を知らずに、不快に思う者がいることは残念である。たった1人の皇子をどうして疎かに思うことがあろうか」

と。天皇の御発言に、さすがの兼家も恐懼したそうです。宮中を退下した兼家は、すぐにこの事を詮子に伝えます。そして、祈祷を依頼する使者を派遣したとのこと。すっかりご機嫌となった兼家とその子息たちは、それまでの嫌がらせのような引き籠りを止めて、行事等にも参加するようになったといいます。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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