「円融天皇」院政を意識? 藤原氏内紛に翻弄され26歳で退位

 円融天皇(えんゆうてんのう、959~991年)は、藤原氏による他氏排斥の政争「安和の変」で即位し、その後は関白の地位を争う藤原兼通、兼家兄弟の確執を目の前で見せられます。政争というより、しようもない兄弟げんかですが、政権が誰の手中に収まるかの混沌とした政治状況に翻弄されたのです。しかし、退位後も政治への参画に意欲を持っていました。円融天皇の生涯をみていきます。

「安和の変」同母兄退位、11歳で即位

 円融天皇は村上天皇の第5皇子。母は藤原師輔の長女・安子です。

 即位前は守平親王。同母兄に冷泉天皇と為平親王がいます。6歳で母、9歳で父を亡くし、11歳で即位。在位は安和2年(969)~永観2年(984)の15年間。皇子皇女は懐仁親王(一条天皇)一人です。

小野宮流と九条流

 生まれた頃は藤原氏を中心に政争が展開されていました。

 父・村上天皇の在位中、政治を動かしたのは左大臣・藤原実頼と弟の右大臣・藤原師輔。兄弟の父・藤原忠平は関白でしたが、忠平死後、関白は空席となります。

 実頼の家系が小野宮流、師輔の家系が九条流で、藤原北家の2つの家系が政治の主導権を争う状況です。

藤原九条流と小野宮流、円融天皇の略系図
藤原九条流と小野宮流、円融天皇の略系図

 康保4年(967)、兄・冷泉天皇(村上天皇の第2皇子)が即位し、藤原実頼が関白に就任。一方、藤原師輔は守平親王(円融天皇)誕生翌年の天徳4年(960)に52歳で他界し、その子息はまだ大納言や参議などでした。閣僚級には実頼、師輔の弟たちがいました。

 藤原氏以外にも政権中枢に実力者がいました。源高明は皇族出身(村上天皇の兄にあたる)で、師輔の婿。右大臣、次いで左大臣と、実頼に次ぐ地位にありました。

兼家が「立太子の儀」強行

 守平親王は9歳で兄・冷泉天皇の皇位継承者、皇太弟に決まります。

 『大鏡』は、これを師輔の長男・伊尹(これただ/これまさ)、次男・兼通、三男・兼家の陰謀としています。兼家が守平親王を牛車に乗せて参内。抜き打ちで皇位継承者を決める儀式「立太子の儀」が行われました。

 この時点で有力な皇位継承候補は守平親王と同母兄・為平親王(村上天皇の第4皇子)。どちらも伊尹や兼家らの甥ですが、為平親王は聡明と評判で、源高明の婿。バックにいる源高明の実力は藤原氏に警戒されていました。

為平親王の後見・源高明が失脚

 安和2年(969)3月、「安和の変」が起き、左大臣・源高明が失脚。その5カ月後、冷泉天皇が退位し、守平親王が即位。円融天皇です。源高明は為平親王擁立を企てたと謀反の疑いをかけられ、大宰権帥に左遷されました。

摂関の地位めぐる兼通、兼家兄弟の確執

 安和2年(969)9月、円融天皇の即位式では為平親王が「威儀の親王(いぎのみこ)」の役目を担います。玉座の傍らに立つ引き立て役。『大鏡』は「しみじみお気の毒だ」と同情が集まったとしています。多くの貴族は、兄弟順で為平親王が次の天皇とみていたのです。

「関白は兄弟順に」

 円融天皇即位で藤原実頼が摂政・太政大臣として政界のトップに立ち、実頼死後は藤原伊尹(師輔長男)が摂政に就きます。さらに、藤原兼通(師輔次男)、藤原頼忠(実頼次男)が順に関白として実権を掌握します。

 実頼系・小野宮流と師輔系・九条流の間を摂関の地位が行ったり来たりしていますが、小野宮流と九条流の間だけでなく、兄弟間でも激しく出世競争を展開します。

 天禄3年(972)、藤原伊尹が49歳で死去する前、辞表を出すと、円融天皇の前で兼通と兼家(師輔三男)は後任をめぐって口論しました。

 『大鏡』によると、兼通は円融天皇への直訴を敢行。天皇の母・安子の書き付けを示します。

兼通:「これをご覧ください」「関白は兄弟順に補任なさいませ。決してご違反なさいますな」

円融:「亡き母宮の筆跡だな」

 円融天皇は母の遺言に従い、兼通を関白とします。兼通は用意周到にも、まだ官職も低いときに妹・安子に書かせたものだというのですが……。

兼通から従兄弟・頼忠へ

 藤原兼通は貞元2年(977)、53歳で死去。兼通は兼家憎さのあまり、死の直前、最後の除目(人事異動)を決行。従兄弟の藤原頼忠を関白とします。今度こそ関白就任を期待した兼家は、またしても兄・兼通に阻まれた形です。

皇子の母は詮子 中宮は遵子

 円融天皇は天禄3年(972)、14歳で元服。翌年、関白・藤原兼通の長女・媓子(てるこ)が入内します。12歳年上の27歳で、すぐに天皇の正室・中宮(皇后)となりますが、天元2年(979)、崩御しました。

 この間、天元元年(978)に藤原頼忠の次女・遵子(のぶこ)と藤原兼家の三女・詮子(あきこ)が入内。遵子は22歳、詮子は17歳で、ともに女御となります。天皇の妻のうち、女御は中宮に次ぐ地位で、女御の中から中宮が選ばれます。

 詮子は天元3年(980)、第1皇子・懐仁親王(一条天皇)を産みますが、その2年後、中宮になったのは遵子。遵子の父・頼忠はこのとき関白でした。

「火の宮」尊子内親王

 円融天皇と藤原兼家、詮子の関係は中宮決定以前から悪化していたのか、詮子は出産後、内裏に戻らなかった可能性があります。

 このほか、円融天皇の寵姫には冷泉第2皇女・尊子内親王がいます。円融天皇にとって姪になります。天元3年(980)11月、入内翌月に内裏の火災があり、尊子は「火の宮」というあだ名が付けられてしまいました。

退位後の一大イベント「子の日の御幸」

 永観2年(984)8月、26歳で退位。甥・師貞親王(花山天皇)に皇位を譲ります。花山天皇は冷泉天皇の第1皇子。そして、花山天皇の東宮(皇太子)に円融天皇の皇子・懐仁親王(一条天皇)を立てます。東宮は皇位継承者。皇太子といっても、花山天皇にとっては実子ではなく、叔父の子になります。

野外パーティー? 一流歌人が集合

 退位後の円融上皇は詩歌や音楽を愛好し、たびたび盛大な御遊(ぎょゆう)を行いました。

 寛和元年(985)2月13日には「子(ね)の日の御幸」を開催。午前中に出発して平安京の北にある狩猟場、紫野に行き、弁当を広げ、蹴鞠をして遊びます。和歌の名人が勢ぞろいし、この地にちなんだ和歌のテーマを発表。夕方、堀河院に戻り、歌の会が開かれるといった段取りです。あたかもピクニックか野外パーティーといったところです。

主役は貧相な老歌人・曽禰好忠

 『今昔物語集』では、この日の御遊の主役は曽禰好忠(そね の よしただ)という歌人でした。みすぼらしい衣装で和歌の名人が居並ぶ末席に座り、係の判官代とひと悶着。

判官代:「どうしたわけだ。呼ばれもしないのに参上して」

好忠:「歌人は参上するようにとのおおせがあったと聞いてやって来た。私はこちらにおるご仁たちに劣る者ではござらぬぞ」

 藤原兼家が「そやつのえり首をつかんで、つまみ出せ」と命令。曽禰好忠は若者たちにボコボコにされながら、はね起きて逃げ出し、追いかけっこが始まり、集まった人々は大笑い。曽禰好忠は小高い丘に上がって叫びます。

好忠:「お前ら、いったい何を笑うのだ。私は老いの身で恥など何もない。上皇が子の日にお出ましになり、歌人をお召しになると聞いたので参上し、座についたのだ。かち栗をぼりぼりと食ったかと思ったら追い立てられ、蹴飛ばされた。これが何で恥なものか」

大堰川の船遊び 公任の「三舟の才」

 寛和元年(985)8月に出家。出家した上皇は法皇といいます。

 円融法皇は寛和2年(986)10月、大堰川に出かけます。管弦(音楽)、漢詩、和歌の船が用意された船遊び。このとき、藤原公任が和歌に始まり、3艘の船を乗り替え、「三舟の才」と讃えられた多才ぶりを発揮しました。

院政を目論む? 33歳で崩御

 出家後は自らの祈願で創建された円融寺に住みました。平安京北西の郊外にあった寺院です。

 7歳で即位した一条天皇の父として、円融法皇には院政の意図があったようです。院司(院に仕える貴族)を駆使し、人事に介入。藤原兼家が嫡男・道隆の内大臣任命を強行した際は側近・藤原実資の参議昇任を兼家に認めさせました。一条天皇の頼りになる公卿は実資以外ないと認識していたようです。

 退位7年後の正暦2年(991)2月12日、33歳で崩御。円融法皇の院政は本格化せず、摂関政治の全盛期を迎えます。

おわりに

 皇太弟となる際、藤原兼家が大きな役割を果たしたという『大鏡』の逸話があり、兼家の娘を女御に迎えたことで、唯一の皇子が誕生し、結果的に円融天皇の系統が皇統として現代まで続くことになります。しかし、兼家との関係は決して良好ではなく、退位を早めることになったのではないでしょうか。

 藤原氏は小野宮流、九条流のどちらが主流となるか不確定な状況で、円融天皇は藤原頼忠やその甥・藤原実資ら小野宮流に期待をかけていたようです。


【主な参考文献】
  • 大津透、池田尚隆編『藤原道長事典』(思文閣出版、2017年)
  • 保坂弘司『大鏡 全現代語訳』(講談社、1981年)講談社学術文庫
  • 武石彰夫訳『今昔物語集 本朝世俗篇 全現代語訳』(講談社、2016年)講談社学術文庫

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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