「光る君へ」道長の兄・藤原道隆はどのように亡くなったのか?
- 2024/04/30
道隆が亡くなったのは、長徳元年(995)4月。都では当時、疫病が流行っていました。平安時代の歴史物語『栄花物語』を見ると、道隆は、その前年の冬頃から病となっていたとあります。しかし、それは疫病ではなく、水ばかり飲みたがる病だったということです。この奇病によって、道隆は衰弱し、宮中への出仕もできない状態であったとのこと。道隆はこの頃、疫病を大変恐れていたそうです。
道隆の妻(高階貴子)は夫の病を案じて、様々手を尽くしたと同書にはあります。また、貴子の父で出家した高階成忠も祈祷を行なったようです。その時(994年の冬)は、流行り病は下火となっていたようですが、そうした時に、関白・道隆が重い病となったことは、人々に衝撃を与えました。明けて長徳元年(995)、道隆の病はいよいよ重く、彼は水ばかり飲んでいました。1月に入ると、再び疫病が猛威を振るうようになります。道隆の妹であり、一条天皇の母である藤原詮子も、道隆の容態を心配していたと同書には記されています。
道隆の病が更に悪化していた3月のある夜、彼は突如、参内するのです。そして次のように奏上します。「私の病は重いものです。よって、私が病の間の政治は、内大臣が行えとの宣旨をお下しくださいますように」と。一条天皇はそれに納得し「関白の病中は、政(まつりごと)を執れ」との宣旨を内大臣に下します。
当時の内大臣は、道隆の嫡男・藤原伊周でした。道隆は我が子・伊周を関白にしたいと考えていたようですが、それは叶いませんでした。さて、4月6日、道隆は出家。いよいよ死が近いことを悟ったのでしょう。その4日後の4月10日、道隆は死去します。享年43。
死因は疫病ではなく、水ばかり飲みたがる病(飲水病)ということで、現代で言うところの糖尿病だったと考えられています。
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