「平惟仲」兼家、道隆、道長…権力者に重用された叩き上げ官僚
- 2024/01/29
平惟仲(たいらのこれなか、944~1005年)は藤原道長の父・兼家の家司(けいし)、いわゆる秘書役を務め、兼家死後も弟の平生昌(なりまさ)とともに道隆、道長双方に重用された有能な実務官僚です。地方から上京して大学寮で学ぶなど学問を身に付け、実力と勤勉ぶりで昇進していった上級貴族とは違うたたき上げの人物なのです。一方、藤原道隆から弟・道長へと、権力者の配下を渡り歩いたことで清少納言からは批判的に見られるなど狡猾なイメージもあります。平惟仲の生涯をエピソードと実像から見ていきます。
地方から上京 受領を歴任し精勤
父は平珍材(よしき)。美作介など地方官を務め、位階は従四位下まで上った中級貴族です。母は地方の郡の役人、郡司の娘ですが、『公卿補任』や『尊卑分脈』などでは備中の郡司の娘とされ、鎌倉時代前期の説話集『古事談』では備後、平安時代後期の説話集『江談抄』では讃岐の人とされます。武士ではない平氏の家系
平惟仲の祖父は平時望(ときもち)。従三位、中納言の実力者です。この家系は桓武平氏の一門ですが、武士ではなく貴族、公家の平氏です。桓武平氏の中で平清盛ら伊勢平氏、武家平氏は高望王(平高望)の子孫で、もう一つの流れ、高棟王(平高棟)の子孫が公家平氏です。高棟王の孫が平時望。平珍材の兄弟・直材の子孫に清盛の妻・時子やその弟で清盛側近として権力を振るい、「平大納言」「平関白」と呼ばれた平時忠がいます。
イワシを数えて数を覚える
『古事談』に平惟仲出生のエピソードがあります。美作介・平珍材が京に戻る途中、備後国品治郡(広島県福山市)の郡司の屋敷に宿泊し、郡司の娘に腰をもませているうちに娘は懐妊します。もちろん何ごとかあったのです。生まれた子が平惟仲。7歳のとき、郡司に連れられて上京し、平珍材と父子の対面を果たします。郡司の娘を思い出して感涙する珍材には人相を見る能力がありました。
珍材:「この子は二位、中納言になる相がある」
平惟仲の将来の官位をピタリと言い当てる、よくあるパターンの逸話です。なお、平惟仲を備後で育てた郡司は、イワシを数えさせて数を教えたといいます。
この逸話では、平惟仲の母は一夜妻のような存在ですが、実は惟仲の同母弟に生昌がいます。郡司は経済的に平珍材を支えていた支援者であり、惟仲の母は正室ではないにしても、それなりの関係を保っていたはずです。
30代は受領歴任し精勤
『江談抄』に少し違う逸話があり、平惟仲は珍材が讃岐介のとき、生まれた子となっています。平珍材が讃岐介だった記録はほかの史料では出てきませんが……。この逸話でも、珍材は成長して訪ねてきた惟仲の人相を見ます。
珍材:「お前は必ず大納言になる。ただし、欲張る心があると、それが妨げになる。慎むべきである」
ここでは晩年の災難も予言されています。
いずれにしても、平惟仲は弟の平生昌とともに上京して大学寮に入り、康保4年(967)、24歳のとき、文章生となります。冷泉天皇が即位すると、六位蔵人となって出世の糸口をつかみます。
天禄3年(972)以降は約10年間、美作権守、筑後権守、相模介、肥後守と地方官僚、地方の国の長官「受領」を歴任します。ここで職務に精励し、評価を得たようです。
兼家の家司 道隆にも厚遇される
平惟仲が摂関家、権力者と関係を深めるのは40代の頃。寛和3年(987)、右少弁となり、その後、左中弁、右大弁と昇進。太政官の幹部職員である弁官を務めていた頃、藤原兼家の家司となります。家司は上級貴族の家の実務に携わる職員。れっきとした官僚、国家職員ながら権門の家の内側のことを取り仕切るのです。平惟仲は藤原兼家の秘書のような立場だったのです。『栄花物語』では、同僚・藤原有国とともに「左右の眼」と表現され、絶大な信頼を得ていたことが分かります。
厳格な左大臣・源雅信との関係
平惟仲が昇進していくなかで、摂関家のほか、左大臣・源雅信との逸話もあります。『江談抄』には、敦実親王の邸宅を訪れた平時望が幼少時の源雅信の人相を見て、「必ず従一位左大臣になります。そのときは私の子孫を起用してください」と予言した話があります。源雅信はその言葉を覚えていて、時望の孫・平惟仲をことのほか厚遇したといいます。
ところが、『江談抄』にはこれに相反する逸話もあって、源雅信が左大臣のとき、平惟仲の人事申請を却下。公私の区別を厳格にした態度を示します。
兼家後継に道隆を推挙
平惟仲は藤原兼家の死後、その長男・道隆にも重用されました。『江談抄』や『古事談』に、惟仲と道隆の関係を象徴する逸話があります。兼家はどの子に関白の地位を譲るべきか周囲に相談。家司である藤原有国、平惟仲らが答えます。
有国:「(次男の)道兼殿がよろしいでしょう」
惟仲:「兄弟順の通り、長男・道隆殿がよろしいでしょう」
惟仲の意見に同意する者もいて、道隆が後継者に決定。この後、道隆は「自分は長男だから(跡を継ぐのは)道理にかなったことで、別に大喜びすることでもない。ただ、有国に報復することだけが喜ばしい」と、ほどなくして藤原有国父子の官位を剝奪します。
中関白家見限る?道長政権で出世
藤原兼家の長男・道隆に仕えた平惟仲は、正暦2年(991)、48歳で蔵人頭、正暦3年(992)参議と順調に昇進します。正暦4年(993)には従三位、ついに公卿に。地方出身者としては異例の出世として周囲を驚かせています。道隆死後は道長に接近
正暦3年(992)、藤原繁子を妻に迎えます。平惟仲は49歳。初婚ではないと思いますが、繁子も藤原兼家次男・道兼の元妻で、再婚です。また、一条天皇の母・藤原詮子に仕え、一条天皇の乳母も務めた女性。詮子は同母弟の道長と仲が良く、繁子との結婚は道長への接近手段だった可能性があります。ただ、本格的に道長に接近するのは長徳5年(995)、藤原道隆の死後のはず。
道隆の長女・定子は一条天皇の正室・中宮で、長保元年(999)1月、平惟仲は中宮大夫に就きます。中宮に関する事務職の長官ですが、7月にはこの職を辞任。これは道隆なき後のその一家、中関白家を見限った姿勢とみられます。
『枕草子』の惟仲兄弟批判
長保元年(999)、定子は敦康親王を懐妊し、その出産のために内裏を退出し、平惟仲の弟・生昌邸に向かいます。定子の実家が火事に遭い、惟仲が中宮大夫(長官)、生昌がその配下の中宮大進(3等官)だったためですが、このとき、定子に仕えていた清少納言は、生昌邸の門が小さくて定子の牛車が入らず、歩かされたことに難癖をつけ、生昌の田舎臭さを軽蔑します。『枕草子』のこのくだりは、清少納言の性格の悪さ、地方出身者への差別感情が丸出しですが、これは当時の貴族としては珍しくもないことです。むしろ、中宮を支える職にありながら、道長に接近しつつある平惟仲、生昌兄弟を憎悪する清少納言の感情が出ている場面です。
しかし、実際に平惟仲が手のひらを返したような態度を取ったのかというと、長保2年(1000)、定子崩御の際には葬儀に関する様々な事務の責任者として動いています。清少納言が考えていたように、単純に中関白家を見限ったわけでなく、また、たとえ気持ちはそうだとしても、官僚としてやるべき仕事は責任をもって当たっていたのです。
ただ、藤原道長接近後の平惟仲は長徳2年(996)、53歳で権中納言、長徳3年(997)に中納言と政権中枢に参画。位階も長保2年(1000)に正三位、長保5年(1003)に従二位と上り詰めていきました。
宇佐八幡宮の訴えで大宰帥停職
長保3年(1001)1月、平惟仲は大宰帥となり、大宰府(福岡県太宰府市など)に赴任します。地方長官の中でも特別の職務で、九州地方の行政長官であり、防衛、外交、貿易にも関わる重要ポジションです。大宰帥は親王が任命され、実際には赴任せず、大宰権帥や大宰大弐といった次官が実際の政務を執ることが多く、平惟仲も史料によっては大宰権帥とされますが、当時の大宰帥の親王は異動しています。前任の大宰権帥は長徳の変で左遷された藤原伊周(道隆の三男)であり、縁起の悪い大宰権帥の肩書きが避けられたとみられます。
九州から神職押しかけデモ
大宰府の運営で厄介なのが、全国の八幡宮の総本社で「宇佐八幡宮」と呼ばれる宇佐神宮(大分県宇佐市)ですが、平惟仲はここでも行政手腕を発揮。関係は良好でした。ところが、長保5年(1003)8月、宇佐八幡宮側が平惟仲の非法を「雑事九箇条」に書き連ね、訴え出ます。宝殿封鎖が対立の原因。惟仲には神宝を持ち出して無理筋の主張を通す宇佐八幡宮を押さえようという意図があったようです。源俊賢ら惟仲の主張に同調する政府高官もいました。
寛弘元年(1004)3月には宇佐八幡宮の神職らが京まで押しかけ、大内裏の陽明門に数百人が集まるというデモンストレーションも。調査のための使者が派遣されますが、最後は朝廷も宇佐八幡宮の主張を認めざるを得ず、同年12月には平惟仲の役職が停止されます。
弟・生昌が遺骨を手に入京
平惟仲は寛弘2年(1005)3月14日、大宰府で死去。62歳でした。京の人々が惟仲の死を知ったのは1カ月後の4月20日。藤原道長の日記『御堂関白記』によると、3月22日に大宰府を出発した弟の平生昌が到着し、道長に報告しています。また、藤原実資の日記『小右記』によると、生昌は惟仲の遺骨を持って入京しています。4月24日には源俊賢が朝廷に惟仲の死を報告しています。おわりに
藤原兼家、道隆、道長に重用され、たたき上げで出世してきた平惟仲は有能な秘書、実務官僚だったようですが、道隆死後、中関白家の凋落を見抜き、道長に乗り換える態度が政界遊泳者、風見鶏のようなずるい人物と捉えられることもあります。清少納言も露骨に嫌悪感を示しています。しかし、藤原道隆なき後の三男・伊周はまだ若く、政治家としては甘い面があり、平惟仲の能力を使いこなす器量はなかったでしょう。平惟仲が自身の能力を生かす道などを冷静に見極めた結果であり、道長への接近は必然だったと思います。
【主な参考文献】
- 源顕兼編、伊東玉美校訂・訳『古事談』(筑摩書房、2021年)ちくま学芸文庫
- 後藤昭雄、池上洵一、山根對助校注『江談抄 中外抄 富家語』(岩波書店、1997年)
- 倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(講談社、2009年)講談社学術文庫
- 倉本一宏『藤原行成「権記」全現代語訳』(講談社、2011~2012年)講談社学術文庫
- 倉本一宏編『現代語訳小右記』(吉川弘文館、2015~2023年)
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